礼拝宣教 ヨハネ黙示録19章5-10節 ペンテコステ
先週は18章から「強大なバビロン、すなわちローマ帝国が倒れた」との啓示の箇所から、「神不在の世界への審判」というテーマのもと聖書の御言葉を聞きました。
今日の19章1,2節においても、世の人を神から引き離し、堕落させた「強大な力を誇る存在」が神の審判によって終わりを迎えたことを告げています。それはまさに1節「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである」と宣言されているとおり、神はご自身の真実で正しい裁きを下して悪と罪の勢力を滅ぼし尽くし、完全に勝利してくださった、そのことが力強く宣言されているのです。
その宣言は1節で「わたしたちの神」とありますように、主に従い通している者たちによって表明されているのです。
確かに地上の目に見える状況としては依然、キリスト教会とその信徒たちは神の国とは相容れない勢力や権力によって軽んじられ、不当に忌み嫌われ、迫害や弾圧にさらされ続けているのですけれども。しかしそのような現状のただ中でヨハネは確かに、「真実で正しい神の裁きは成し遂げられた」との天の啓示というべき大群衆の賛美の歌声が鳴りわたっているのを聞くのです。
ところで、賛美とは何でしょうか?以前、お寺に行くとお坊さんの念仏を聞いてるだけたが、教会に来るとたくさんの歌をうたう。なぜだろうか、といった方もおられます。又、なんとなく教会に来てみたが、讃美歌を聞いているだけで心が安らぎ、いやされたという方もおられました。私どもにとりまして賛美とは、主の御救いに与かている確信であるでしょうし、又、喜びや日々の導きと恵みに対する感謝の応答でもあるでしょう。さらに、私たちは時に、祈る言葉さえ見つからないような試練の日においても、信仰の先達と共にささげる賛美に励まされ、やがて来るべき勝利の日を仰ぎ見ていくような、希望の歌でもあるのですね。
5節以降は、神無き世界、神を神とせず、金や銀、力や権威等を神のように崇拝する世にあって、どこまでも神を神とし、神の僕として神を畏れ、信仰の道を歩み通す信徒たちに、「小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ」という声が天の玉座から聞こえます。
するとそれに応答するように、「大群衆の声のようなもの」「多くの水のとどろき」や「激しい雷のようなもの」が、「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた」というのをヨハネは聞くのです。
先程も触れましたとおり、地上の権威と力を誇示していた存在は神に裁かれて滅んだ。そして「わたしたちの神である主が王となられた」と、そのように賛美するのです。
ここのところは有名な「ハレルヤコーラス」の大合唱で歌われているように、このお方こそ「まことの王の王、まことの主の主」であられます。それはまた「十字架と復活の御子イエス・キリスト」。ヨハネの福音書1章に記されています「世の罪を取り除く神の小羊」なのです。
旧約聖書の時代において、この御子イエス・キリストの御救いと裁き、その十字架の贖罪を預言したとされるイザヤ書53章の「苦難の僕」には、世の罪を贖う、贖罪のための小羊として、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と、そのように記されています。
その「真の王の王」とは、この黙示録が書かれた時代のローマ帝国のような、その権威や力で人を支配する政治的な王、様々な偶像を拝ませ地上を堕落させるような王ではありません。主自ら人の罪を負い、傷つき、ほふられ、私たち人間を罪による滅びから贖いとって下さった。この方こそが真の王の王、主の主である。
この「主の御業と栄光を心から讃える」。これこそが旧約時代、さらに聖霊降臨によって生まれた初代教会から今日の私たちに受け継がれている礼拝の原点であるのです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8章)。今日こうして天の賛美につながれ、主を讃えるために集まっている私たちであることをおぼえたいと思います。
さて、第ニのメッセージは、7節~8節にかけて語られています。
「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
花嫁はキリストの教会、主に贖われ呼び集められた群、エクレシアです。神を畏れる者たちのために正しい裁きがなされ、遂に花婿である小羊イエスさまの婚礼の日が訪れます。花嫁であるキリストの教会もまたその用意を整えます。
今私たちは聖霊の導きによって主の御救いに与り、その生き方も大きく変えられて、すでに主に結ばれている証しの生活を与えられているのでありますけれども。それと同時に聖書は終末のときに際して、主イエスが再び来臨されることを伝えております。それこそが究極の「小羊の婚礼の日」なのです。
花嫁なる教会は婚礼のために用意を整えます。マタイ福音書25章では、イエスさまが「十人のおとめ」のたとえを通して、主の来臨に私たちが如何に備えるべきかお話になりました。ともし火と備えの油とをもって花婿なる主を出迎えることができるように、「目を覚ましている」ことの大切さがそこでは語られています。
折しも今日はペンテコステですが。その油は主の日に備えるため教会に注がれる聖霊の油といえますね。その油が絶えることなく注がれ続けるように共に祈りましょう。
ところでこの黙示録では、主の来臨に際して、花嫁は「輝く清い麻の衣を着せられた」と記されています。それは自分で着たというよりも着せられたのです。ところがその後に、この「麻の衣」は「聖なる者たちの正しい行いである」と記されているのですね。うん、ちょっとまてよ、結局は人の正しい行為のことかと思えるのですが、実はそうではないのです。ここで重要なのは、その正しい行いのイエスさまが「十字架をとおして与えて下さった完全な義」です。その救いの衣を私たちは天から着せられることです。
如何に自分という存在は主の御前に出でるに価しない者であるか。しかし主は、そういう罪深く、どうしようもない人間が救われるために、キリストの義の衣を着せて下さった。この聖なる者たちの正しい行いの「正しさ」は「ディカイオー」という「義」を表わす言葉であります。それは主イエスが与えたもう「義」なんです。その義を私たちは衣として身にまとう、つまり生活の中において生きていくことが大切なのです。
この地上においてはいまだ、神の義と愛を蔑ろする罪と悪の力が働いています。そういう中で私たちが主の義に立って生きるために必要なのは、この私たちがキリストの義の衣を身に着けて、来るべき小羊の婚礼の日に備えて生きる者であるという、自覚と、何よりもそのような者とされたことへの感謝と喜びです。
また、具体的には主の恵みへの応答として、私たちが自分の思いではなく、私たちの日常のそのときその時において、主イエスが目の前におられるとしたなら、どのように考え、祈り、行動されるかに、思いを馳せていくことは、とても意義あることだろうと思います。
全米のプロバスケットの選手等が「WWJD?」と入ったリストバンドをしていることは知られていますが。それはWhat Would Jesus Do? 「イエスさまならこんな時どうなさるだろう」という意味の英語の4つの頭文字なのですね。私たちも主イエスにあって日々を具体的かつ主体的にあゆんでいきたいものです。
また、今日の箇所でもう一つ興味深いのは、9節で天使いがヨハネに「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」「これは、神の真実の言葉である」と語ったことであります。ここでは婚礼という挙式を終えた後に行われる、披露宴、宴の席ということになるんでしょうか。私たちは月に一度礼拝の中で主の晩餐うをとり行っていますが。主イエスが「主の晩餐」を弟子たちと行った最後にこうおっしゃいました。「神の国で新たに飲むその日が来る」。その時まで「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。その日こそこの婚宴の祝いの席ではないでしょうか。
そのことを思いますと、私たちの主の晩餐は、やがて訪れる神の国でもたれる宴の備えであり、又その先取りでもあるのです。
「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。」
私たちの地上における教会の交わりの基盤は、主が私たちの罪のために十字架で流された御血汐と裂かれた御体にあるということです。キリスト者、クリスチャンはそのことを主の晩餐を通していつも確認します。そうして主の御傷に触れることによって、私たち自身も主に立ち返らせて頂き、新たに神を神として崇め、人が人として大事にする愛と正しさを頂く事ができるのではないでしょうか。
再び神の国で持たれる「主の食卓」(小羊の婚宴)の時に備え、待ち望んでいくわたしたちでありたいものです。
話は逸れますが、今、教会の玄関に植えられて3年目になるバラ(品種;アンジェラ)
が見事に多くのピンク色の花を咲かせてました。3月に行った剪定がよかったみたいですが。通りを行き交う多くの方々から「きれいですね」と声をかけられたり、写真を撮らる方々もおられます。そして教会堂の正面に目を向けられたり、備えつけの「教会案内」を手に取って行かれる方がたの姿を目にいたしました。このバラのアンジェラという名は、実に「天使」という意味なんですよね。このバラが教会を水先案内者なのです。
今日の最後のところになりますが、天使の素晴らしい言葉に感動したヨハネは、「天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏しました」。その時、天使は「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」と言ったとあります。
随分謙虚な天使ですよね。ここで押さえておかねばならならのは、「唯神のみが神として礼拝の対象であられる」ということです。しかし人間というものは弱いです、ヨハネでさえこう言った素晴らしい存在があったら、神のように崇拝の対象になってしまうのです。私たちも世にあるものを神のような崇拝の対象にしないまでも、どこか自分にはない魅力あるものや力のあるものに、憧れ心奪われ、虜になってしまうようなことってないでしょうか。神よりもそのことが優先され大事にしているとすれば、神への畏れが希薄になっている時かも知れません。
唯神のみを礼拝の対象とすることを天使は示します。又、私たちは「イエスの証しを守っている兄弟姉妹と共に主に仕える者であることを、確認したいと思います。
本日はペンテコステ、聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができ感謝です。聖霊が共に主を信じ、祈る群の上に降り、キリストの教会が誕生しました。聖霊に満たされたキリストの弟子たちは、それぞれに主の証し人として生き、主にあって心一つとなって共に主に仕え合う者とされ、さらに多くの主の教会が新しく生まれていきました。
2000年の時を経た今日、今や世界中に主の福音が伝えられ、主の御名がほめたたえられています。イエス・キリストを証しする私たちに今日も「預言の霊」、聖霊の働きを乞い願いつつ、主の御業をほめたたえましょう。
先週は18章から「強大なバビロン、すなわちローマ帝国が倒れた」との啓示の箇所から、「神不在の世界への審判」というテーマのもと聖書の御言葉を聞きました。
今日の19章1,2節においても、世の人を神から引き離し、堕落させた「強大な力を誇る存在」が神の審判によって終わりを迎えたことを告げています。それはまさに1節「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである」と宣言されているとおり、神はご自身の真実で正しい裁きを下して悪と罪の勢力を滅ぼし尽くし、完全に勝利してくださった、そのことが力強く宣言されているのです。
その宣言は1節で「わたしたちの神」とありますように、主に従い通している者たちによって表明されているのです。
確かに地上の目に見える状況としては依然、キリスト教会とその信徒たちは神の国とは相容れない勢力や権力によって軽んじられ、不当に忌み嫌われ、迫害や弾圧にさらされ続けているのですけれども。しかしそのような現状のただ中でヨハネは確かに、「真実で正しい神の裁きは成し遂げられた」との天の啓示というべき大群衆の賛美の歌声が鳴りわたっているのを聞くのです。
ところで、賛美とは何でしょうか?以前、お寺に行くとお坊さんの念仏を聞いてるだけたが、教会に来るとたくさんの歌をうたう。なぜだろうか、といった方もおられます。又、なんとなく教会に来てみたが、讃美歌を聞いているだけで心が安らぎ、いやされたという方もおられました。私どもにとりまして賛美とは、主の御救いに与かている確信であるでしょうし、又、喜びや日々の導きと恵みに対する感謝の応答でもあるでしょう。さらに、私たちは時に、祈る言葉さえ見つからないような試練の日においても、信仰の先達と共にささげる賛美に励まされ、やがて来るべき勝利の日を仰ぎ見ていくような、希望の歌でもあるのですね。
5節以降は、神無き世界、神を神とせず、金や銀、力や権威等を神のように崇拝する世にあって、どこまでも神を神とし、神の僕として神を畏れ、信仰の道を歩み通す信徒たちに、「小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ」という声が天の玉座から聞こえます。
するとそれに応答するように、「大群衆の声のようなもの」「多くの水のとどろき」や「激しい雷のようなもの」が、「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた」というのをヨハネは聞くのです。
先程も触れましたとおり、地上の権威と力を誇示していた存在は神に裁かれて滅んだ。そして「わたしたちの神である主が王となられた」と、そのように賛美するのです。
ここのところは有名な「ハレルヤコーラス」の大合唱で歌われているように、このお方こそ「まことの王の王、まことの主の主」であられます。それはまた「十字架と復活の御子イエス・キリスト」。ヨハネの福音書1章に記されています「世の罪を取り除く神の小羊」なのです。
旧約聖書の時代において、この御子イエス・キリストの御救いと裁き、その十字架の贖罪を預言したとされるイザヤ書53章の「苦難の僕」には、世の罪を贖う、贖罪のための小羊として、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と、そのように記されています。
その「真の王の王」とは、この黙示録が書かれた時代のローマ帝国のような、その権威や力で人を支配する政治的な王、様々な偶像を拝ませ地上を堕落させるような王ではありません。主自ら人の罪を負い、傷つき、ほふられ、私たち人間を罪による滅びから贖いとって下さった。この方こそが真の王の王、主の主である。
この「主の御業と栄光を心から讃える」。これこそが旧約時代、さらに聖霊降臨によって生まれた初代教会から今日の私たちに受け継がれている礼拝の原点であるのです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8章)。今日こうして天の賛美につながれ、主を讃えるために集まっている私たちであることをおぼえたいと思います。
さて、第ニのメッセージは、7節~8節にかけて語られています。
「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
花嫁はキリストの教会、主に贖われ呼び集められた群、エクレシアです。神を畏れる者たちのために正しい裁きがなされ、遂に花婿である小羊イエスさまの婚礼の日が訪れます。花嫁であるキリストの教会もまたその用意を整えます。
今私たちは聖霊の導きによって主の御救いに与り、その生き方も大きく変えられて、すでに主に結ばれている証しの生活を与えられているのでありますけれども。それと同時に聖書は終末のときに際して、主イエスが再び来臨されることを伝えております。それこそが究極の「小羊の婚礼の日」なのです。
花嫁なる教会は婚礼のために用意を整えます。マタイ福音書25章では、イエスさまが「十人のおとめ」のたとえを通して、主の来臨に私たちが如何に備えるべきかお話になりました。ともし火と備えの油とをもって花婿なる主を出迎えることができるように、「目を覚ましている」ことの大切さがそこでは語られています。
折しも今日はペンテコステですが。その油は主の日に備えるため教会に注がれる聖霊の油といえますね。その油が絶えることなく注がれ続けるように共に祈りましょう。
ところでこの黙示録では、主の来臨に際して、花嫁は「輝く清い麻の衣を着せられた」と記されています。それは自分で着たというよりも着せられたのです。ところがその後に、この「麻の衣」は「聖なる者たちの正しい行いである」と記されているのですね。うん、ちょっとまてよ、結局は人の正しい行為のことかと思えるのですが、実はそうではないのです。ここで重要なのは、その正しい行いのイエスさまが「十字架をとおして与えて下さった完全な義」です。その救いの衣を私たちは天から着せられることです。
如何に自分という存在は主の御前に出でるに価しない者であるか。しかし主は、そういう罪深く、どうしようもない人間が救われるために、キリストの義の衣を着せて下さった。この聖なる者たちの正しい行いの「正しさ」は「ディカイオー」という「義」を表わす言葉であります。それは主イエスが与えたもう「義」なんです。その義を私たちは衣として身にまとう、つまり生活の中において生きていくことが大切なのです。
この地上においてはいまだ、神の義と愛を蔑ろする罪と悪の力が働いています。そういう中で私たちが主の義に立って生きるために必要なのは、この私たちがキリストの義の衣を身に着けて、来るべき小羊の婚礼の日に備えて生きる者であるという、自覚と、何よりもそのような者とされたことへの感謝と喜びです。
また、具体的には主の恵みへの応答として、私たちが自分の思いではなく、私たちの日常のそのときその時において、主イエスが目の前におられるとしたなら、どのように考え、祈り、行動されるかに、思いを馳せていくことは、とても意義あることだろうと思います。
全米のプロバスケットの選手等が「WWJD?」と入ったリストバンドをしていることは知られていますが。それはWhat Would Jesus Do? 「イエスさまならこんな時どうなさるだろう」という意味の英語の4つの頭文字なのですね。私たちも主イエスにあって日々を具体的かつ主体的にあゆんでいきたいものです。
また、今日の箇所でもう一つ興味深いのは、9節で天使いがヨハネに「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」「これは、神の真実の言葉である」と語ったことであります。ここでは婚礼という挙式を終えた後に行われる、披露宴、宴の席ということになるんでしょうか。私たちは月に一度礼拝の中で主の晩餐うをとり行っていますが。主イエスが「主の晩餐」を弟子たちと行った最後にこうおっしゃいました。「神の国で新たに飲むその日が来る」。その時まで「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。その日こそこの婚宴の祝いの席ではないでしょうか。
そのことを思いますと、私たちの主の晩餐は、やがて訪れる神の国でもたれる宴の備えであり、又その先取りでもあるのです。
「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。」
私たちの地上における教会の交わりの基盤は、主が私たちの罪のために十字架で流された御血汐と裂かれた御体にあるということです。キリスト者、クリスチャンはそのことを主の晩餐を通していつも確認します。そうして主の御傷に触れることによって、私たち自身も主に立ち返らせて頂き、新たに神を神として崇め、人が人として大事にする愛と正しさを頂く事ができるのではないでしょうか。
再び神の国で持たれる「主の食卓」(小羊の婚宴)の時に備え、待ち望んでいくわたしたちでありたいものです。
話は逸れますが、今、教会の玄関に植えられて3年目になるバラ(品種;アンジェラ)
が見事に多くのピンク色の花を咲かせてました。3月に行った剪定がよかったみたいですが。通りを行き交う多くの方々から「きれいですね」と声をかけられたり、写真を撮らる方々もおられます。そして教会堂の正面に目を向けられたり、備えつけの「教会案内」を手に取って行かれる方がたの姿を目にいたしました。このバラのアンジェラという名は、実に「天使」という意味なんですよね。このバラが教会を水先案内者なのです。
今日の最後のところになりますが、天使の素晴らしい言葉に感動したヨハネは、「天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏しました」。その時、天使は「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」と言ったとあります。
随分謙虚な天使ですよね。ここで押さえておかねばならならのは、「唯神のみが神として礼拝の対象であられる」ということです。しかし人間というものは弱いです、ヨハネでさえこう言った素晴らしい存在があったら、神のように崇拝の対象になってしまうのです。私たちも世にあるものを神のような崇拝の対象にしないまでも、どこか自分にはない魅力あるものや力のあるものに、憧れ心奪われ、虜になってしまうようなことってないでしょうか。神よりもそのことが優先され大事にしているとすれば、神への畏れが希薄になっている時かも知れません。
唯神のみを礼拝の対象とすることを天使は示します。又、私たちは「イエスの証しを守っている兄弟姉妹と共に主に仕える者であることを、確認したいと思います。
本日はペンテコステ、聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができ感謝です。聖霊が共に主を信じ、祈る群の上に降り、キリストの教会が誕生しました。聖霊に満たされたキリストの弟子たちは、それぞれに主の証し人として生き、主にあって心一つとなって共に主に仕え合う者とされ、さらに多くの主の教会が新しく生まれていきました。
2000年の時を経た今日、今や世界中に主の福音が伝えられ、主の御名がほめたたえられています。イエス・キリストを証しする私たちに今日も「預言の霊」、聖霊の働きを乞い願いつつ、主の御業をほめたたえましょう。