先週は同じところから先週は「ヨセフの正しさと神の義しさ」について御言葉に聞きましたが。今回は「神が私たちと共におられる」というすばらしい福音をここから受け取っていきたいと願っております。
主の天使は「その子をイエスと名付けなさい」と告げました。また「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言っています。
名は体を表すなどと申しますが。私たちもそれぞれ名付けた方がその将来を思い、願いながら名前を付けたと思います。余談ですが昔は男の子は一郎や太郎、女性は花子
や和子などという名前が多かったそうですが、その後はその時代その時代にはやりがあり、今のめまぐるしく移り変わる時代にあっては、キラキラネームとも言うそうですが。オリジナリティにとんだ名前も多いですね。礼拝の報告時に新来者の方々のお名前をご紹介させていただいていますが、特に中学生や高校生の方のお名前は現代風で、それをお考えになった方の愛情や思い入れというものを感じることがございます。
聖書に戻りますが、ここで主の天使は、ヨセフに生まれてくる男の子を「イエス」と名付けなさいと、告げます。
この「イエス」という名は、旧約の時代、イスラエルの民を出エジプトへ先導したモーセの後を引き継いで約束のカナンの地へと導いた「ヨシュア」のギリシャ語読みで、それは「主は救い」という意味であるということです。まあこの当時のユダヤではイエスという名前をもつ人はわりといたようですが。
主の天使はこのイエスについて、「この子(こそ)は自分の民を罪から救うからである」と告げます。「罪から救う」。ここが肝心なところです。
旧約時代のエゼキエル書やダニエル書をこの新約のマタイの福音書を読む前にしばらく読んできました。そこではイスラエルとユダ、さらに捕囚後のユダヤの人々は大国の脅威にさらされながら苦難の時代をずっと通ってきたのです。
そういう中でイザヤは救い主の到来の預言をします。さらにダニエルも厳しい迫害下におかれたユダヤの人々の行く末について黙示ともいえる預言を残しました。移りゆく厳しい状況の中でもユダヤの人々は、その約束を信じ、神に選ばれた民である我らを世の権力と支配から解放する政治的な王、メシアが必ず興される、とその到来を待ち望んでいたのです。
ところが、主の天使は「その子、イエスは自分の民を罪から救う」と告げます。それは
抑圧する権力者や為政者から救うというのではなく、「罪」から救う。単に世の権力や政治的支配からの解放ではないということです。
肝心なのは、イエスは自分の民を「罪から救うお方」としてお生まれになられるということなんですね。ここに人間の肉による救いではない、神の霊によるご計画が示されています。
イエスさまの御救いは世の権力者が武力や威嚇によって行うような支配と従属という仕方によるものではありません。それは世に生まれた一人一人が真のいのちの回復へと導き入れられていくことなのです。人は誰しも救われたいその魂の深いところで願いつつ生きている者なのではないでしょうか。
しかし、人は生きている限り例外なく、内に外に罪の力が働いているので、自分の力や業によって神さまとの関係を回復することはできないのです。
そこで、神さまは「ご自分の民を罪から救う」ために御独り子イエスさまを世にお送りくださったのです。
22節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と述べられています。
実にこのような形で、代々の主の預言者たちを通して言われたことすべてが十全にイエス・キリストによって実現した。時満ちたということですね。それは今を生きる私たちにも実現されていることであるということです。
さて、マリアから生まれる男の子はイエス、彼は「自分の民を罪から救う」ためにお生まれになられる、と告げられていますが。さらに主の天使は「その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げ、それは「神が我々と共におられる」という意味であると述べられています。
先週の礼拝で、全世界に与えられた救いの福音は、聖霊により身ごもったマリアを、夫となるヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れる。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来た、ということをお話しました。
今日の24節には「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻マリアを迎え入れた」とあります。
「神は我々と共におられる」という主の天使の言葉がどれ程勇気づけたことかと思わされるわけですが。まあそのことによってヨセフも又、マリアを受け入れて、「共に生きる」者にされたということです。
この「共に生きる」ということと関連いたしますが。
先週の日曜日夜にご覧になられた方もいるかも知れません。NHKスペシャル「自閉症の君が教えてくれたこと」という番組を視聴しました。重度の自閉症を抱える東田直樹さんと丸山拓也さんという番組ディレクター、この方ご自身重度のガンを患っておられるのですが、お二人の対話を軸に作られたドキュメンタリーでしたが。
東田さんは日常会話のできない重度の自閉症ですが文字盤やパソコンを通して自分の意思を伝えておられる方です。彼が13歳の時に彼の本が出版されました。それが「自閉症の僕が跳びはねる理由」という本で、この本を通して多くの人が初めて自閉症の人の心の声を知ることができたと話題になったのです。同じ自閉症の息子を持つ、アイルランドの著名な作家デビット・ミッチェルさんは、その本によって息子に対するとらえ方が一変します。その本は後に世界30カ国に翻訳してされベストセラーになりました。、現在東田さんはプロの作家として活動されています。
私は番組の中で、東田さんが文字盤を打ちながら発したいくつかの言葉がたいへん衝撃的でした。
一つはディレクターの丸山さんが自身の死への不安と家族に対する思いの中で投げかけた質問に対して東田さんが文字盤をたたきながら発した言葉です。
「僕は命というものは大切だからこそ、すなぐものではなく、完結するものだと考える。
命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、どうなるのだろう。バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか。それを思うだけで、僕は悲しい気持ちになる。
人生を生き切る。残された人は、その姿を見て、自分の人生を生き続ける。」
何か共に生きるということの概念が揺さぶられる気がしませんか?「何とかつなごう、つながろうとする。自分の握りしめたバトンをわたそう、押し付けようとする」それはほんとうに共に生きるという事なのか。考えさせられます。
また彼は、アイルランドの作家ミッチェルさんが、自閉症を抱えるご自分の息子に友人がいないことを憂い、彼にとっての幸せは今後友達をもつことでしょうね、と尋ねたときに東田さんが発した言葉です。
「僕は友達がいない人が不幸だとは思わない。僕は友達がいなくてもとても幸せです。」
この二つの言葉から気づかされたのは、「それが普通だ」「あたりまえだ」「常識だ」というものの見方が、かえって自分も人も生きづらくさせている、という事実です。
私はそこに「ハッ」とさせられました。
どんな愛情も、手厚い配慮も、お互いが対等に、その人がその人らしくあることが出来ないなら、「共に生きる」とはいえないんですね。
さて、罪とは何でしょうか。それは神と人を隔てる壁です。また人と人とを隔てる壁。それが罪です。罪は人がその人らしく生きる力を奪い、滅びへと向かわせます。
イエスさまはそんな人の罪から私たちを救うために、まさにそのために来られたのです。
東田さんの発した言葉からも知らされるように、私たちはそれぞれ世界に唯一人の全くオリジナルな存在であります。一人ひとりが創造者なる神さまの作品なのです。
だから神さまは私たち一人ひとりのことを誰よりもよくご存じです。
インマヌエル。神、共にいます。イエスさまは、まさに一人ひとりに出会い、見出し、神の御前に生きるかけがえのない人として取り戻されるために、自ら人となっておいでくださいました。アーメン。いよいよ今週土曜日はクリスマスイブ、25日はクリスマスを迎えますが。このすばらしい神さまからのプレゼントを受け取り、その恵みに与る方々が起されていきますように、祈りつつ、クリスマスに備えてまいりましょう。
主の天使は「その子をイエスと名付けなさい」と告げました。また「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言っています。
名は体を表すなどと申しますが。私たちもそれぞれ名付けた方がその将来を思い、願いながら名前を付けたと思います。余談ですが昔は男の子は一郎や太郎、女性は花子
や和子などという名前が多かったそうですが、その後はその時代その時代にはやりがあり、今のめまぐるしく移り変わる時代にあっては、キラキラネームとも言うそうですが。オリジナリティにとんだ名前も多いですね。礼拝の報告時に新来者の方々のお名前をご紹介させていただいていますが、特に中学生や高校生の方のお名前は現代風で、それをお考えになった方の愛情や思い入れというものを感じることがございます。
聖書に戻りますが、ここで主の天使は、ヨセフに生まれてくる男の子を「イエス」と名付けなさいと、告げます。
この「イエス」という名は、旧約の時代、イスラエルの民を出エジプトへ先導したモーセの後を引き継いで約束のカナンの地へと導いた「ヨシュア」のギリシャ語読みで、それは「主は救い」という意味であるということです。まあこの当時のユダヤではイエスという名前をもつ人はわりといたようですが。
主の天使はこのイエスについて、「この子(こそ)は自分の民を罪から救うからである」と告げます。「罪から救う」。ここが肝心なところです。
旧約時代のエゼキエル書やダニエル書をこの新約のマタイの福音書を読む前にしばらく読んできました。そこではイスラエルとユダ、さらに捕囚後のユダヤの人々は大国の脅威にさらされながら苦難の時代をずっと通ってきたのです。
そういう中でイザヤは救い主の到来の預言をします。さらにダニエルも厳しい迫害下におかれたユダヤの人々の行く末について黙示ともいえる預言を残しました。移りゆく厳しい状況の中でもユダヤの人々は、その約束を信じ、神に選ばれた民である我らを世の権力と支配から解放する政治的な王、メシアが必ず興される、とその到来を待ち望んでいたのです。
ところが、主の天使は「その子、イエスは自分の民を罪から救う」と告げます。それは
抑圧する権力者や為政者から救うというのではなく、「罪」から救う。単に世の権力や政治的支配からの解放ではないということです。
肝心なのは、イエスは自分の民を「罪から救うお方」としてお生まれになられるということなんですね。ここに人間の肉による救いではない、神の霊によるご計画が示されています。
イエスさまの御救いは世の権力者が武力や威嚇によって行うような支配と従属という仕方によるものではありません。それは世に生まれた一人一人が真のいのちの回復へと導き入れられていくことなのです。人は誰しも救われたいその魂の深いところで願いつつ生きている者なのではないでしょうか。
しかし、人は生きている限り例外なく、内に外に罪の力が働いているので、自分の力や業によって神さまとの関係を回復することはできないのです。
そこで、神さまは「ご自分の民を罪から救う」ために御独り子イエスさまを世にお送りくださったのです。
22節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と述べられています。
実にこのような形で、代々の主の預言者たちを通して言われたことすべてが十全にイエス・キリストによって実現した。時満ちたということですね。それは今を生きる私たちにも実現されていることであるということです。
さて、マリアから生まれる男の子はイエス、彼は「自分の民を罪から救う」ためにお生まれになられる、と告げられていますが。さらに主の天使は「その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げ、それは「神が我々と共におられる」という意味であると述べられています。
先週の礼拝で、全世界に与えられた救いの福音は、聖霊により身ごもったマリアを、夫となるヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れる。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来た、ということをお話しました。
今日の24節には「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻マリアを迎え入れた」とあります。
「神は我々と共におられる」という主の天使の言葉がどれ程勇気づけたことかと思わされるわけですが。まあそのことによってヨセフも又、マリアを受け入れて、「共に生きる」者にされたということです。
この「共に生きる」ということと関連いたしますが。
先週の日曜日夜にご覧になられた方もいるかも知れません。NHKスペシャル「自閉症の君が教えてくれたこと」という番組を視聴しました。重度の自閉症を抱える東田直樹さんと丸山拓也さんという番組ディレクター、この方ご自身重度のガンを患っておられるのですが、お二人の対話を軸に作られたドキュメンタリーでしたが。
東田さんは日常会話のできない重度の自閉症ですが文字盤やパソコンを通して自分の意思を伝えておられる方です。彼が13歳の時に彼の本が出版されました。それが「自閉症の僕が跳びはねる理由」という本で、この本を通して多くの人が初めて自閉症の人の心の声を知ることができたと話題になったのです。同じ自閉症の息子を持つ、アイルランドの著名な作家デビット・ミッチェルさんは、その本によって息子に対するとらえ方が一変します。その本は後に世界30カ国に翻訳してされベストセラーになりました。、現在東田さんはプロの作家として活動されています。
私は番組の中で、東田さんが文字盤を打ちながら発したいくつかの言葉がたいへん衝撃的でした。
一つはディレクターの丸山さんが自身の死への不安と家族に対する思いの中で投げかけた質問に対して東田さんが文字盤をたたきながら発した言葉です。
「僕は命というものは大切だからこそ、すなぐものではなく、完結するものだと考える。
命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、どうなるのだろう。バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか。それを思うだけで、僕は悲しい気持ちになる。
人生を生き切る。残された人は、その姿を見て、自分の人生を生き続ける。」
何か共に生きるということの概念が揺さぶられる気がしませんか?「何とかつなごう、つながろうとする。自分の握りしめたバトンをわたそう、押し付けようとする」それはほんとうに共に生きるという事なのか。考えさせられます。
また彼は、アイルランドの作家ミッチェルさんが、自閉症を抱えるご自分の息子に友人がいないことを憂い、彼にとっての幸せは今後友達をもつことでしょうね、と尋ねたときに東田さんが発した言葉です。
「僕は友達がいない人が不幸だとは思わない。僕は友達がいなくてもとても幸せです。」
この二つの言葉から気づかされたのは、「それが普通だ」「あたりまえだ」「常識だ」というものの見方が、かえって自分も人も生きづらくさせている、という事実です。
私はそこに「ハッ」とさせられました。
どんな愛情も、手厚い配慮も、お互いが対等に、その人がその人らしくあることが出来ないなら、「共に生きる」とはいえないんですね。
さて、罪とは何でしょうか。それは神と人を隔てる壁です。また人と人とを隔てる壁。それが罪です。罪は人がその人らしく生きる力を奪い、滅びへと向かわせます。
イエスさまはそんな人の罪から私たちを救うために、まさにそのために来られたのです。
東田さんの発した言葉からも知らされるように、私たちはそれぞれ世界に唯一人の全くオリジナルな存在であります。一人ひとりが創造者なる神さまの作品なのです。
だから神さまは私たち一人ひとりのことを誰よりもよくご存じです。
インマヌエル。神、共にいます。イエスさまは、まさに一人ひとりに出会い、見出し、神の御前に生きるかけがえのない人として取り戻されるために、自ら人となっておいでくださいました。アーメン。いよいよ今週土曜日はクリスマスイブ、25日はクリスマスを迎えますが。このすばらしい神さまからのプレゼントを受け取り、その恵みに与る方々が起されていきますように、祈りつつ、クリスマスに備えてまいりましょう。