礼拝宣教 マタイ1章18節~22節 待降節Ⅲ
アドヴェントは日本語では待降節:「救い主がお生まれになった」という喜びの知らせに与り、備える時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、夫なるヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。私たち一人ひとりにとりましても、このアドヴェントの期間に求められていることは、神の救いの御言葉であられる主イエスを、「恐れずに迎え入れる。」そのことにあります。
今日は、マタイ1章18節~21節より「ヨセフの正しさと神の義しさ」と題し、御言葉に聞いていきます。この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書にもマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又違いについて読み取っていくことは意義あることです。
今日のマタイの福音書に特徴的なのは、22節で「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまでダニエル書を読んできたように、イスラエルの民、ユダヤの人々の苦難の歴史がシリアとの戦争によって頂点のなり、さらにユダヤの民にとっては最も厳しい迫害の時代を通ってくるのですけれども、そう言う苦難を通りつつ預言者たちはこの今日の箇所に記された「救い主(メシア)の到来を予告」していたのです。そのようにマタイ福音書には歴史の主がユダヤの人々と苦難を共に担い、導かれたという視点があります。さらに、今日の主イエスの誕生の記事は、ルカのマリアだけでなくマタイのヨセフにも「聖霊」の働きが重要な視点として記されているということを見落としてはなりません。これらの意味を考えながら、今日の御言葉に聞いていきたいと思います。
さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていました。この当時のユダヤ社会では、たいてい12、13歳の少女と18歳~24歳くらいの青年が婚約していたそうです。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったともいわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経れば、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったということです。ヨセフとマリアの二人はその婚約期間にあったのです。
ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させたことでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたやも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇ともなりかねない。そんな心配までもヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう恐れともいえるような感情に囚われたのではないかと思います。
裏切られたことの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとすること。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で、悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうとマリアとひそかに縁を切る決心をします。
さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
ここで主の天使が告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」ということです。それは実に明快です。神のご計画はもうはっきりしていました。
ヨセフが考えたように律法に基づいてマリアを訴えるのか。あるいはマリアと縁を切り母子ともに助けるべきか。ヨセフは結果ひそかにマリアと縁を切ろうと考えるのです。しかし、どうでしょう。そうやってヨセフがマリアとひそかに縁を切ったとしても、世間の目は時に残酷です。マリアと生まれてくる子の先行きは過酷なものとなるに違いありません。ここに人間ヨセフの正しさの限界があります。
主の天使は迷えるヨセフ対して、きっぱり「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」と迫ります。これこそが、「神の義(ただ)しさ」に基づいた彼が本当に選ぶべき道なのです。
では、この天使の一声を、ヨセフははたしてどんな思いで受けとめたでしょう。
そんなことをすれば、自分も世間から疑惑や冷たい目で見られる。自分の側にもやっかいごとが降りかかってくる。そういう事を考えたでしょうか。けれどむしろ、それとは逆に、もうすでに悩むだけ悩み抜いたヨセフは、夢によって告げられたこの言葉をまさに天の啓示として「アーメン」と受け取った。そうじゃないでしょうか。本当に神の前で悩み抜いた人、祈り抜いた人は、神の言葉、聖書の言葉のたった一言を示されることによって前に進むことが出来るんですね。私たちもそうではないでしょうか。
さて、ここで注目したいのは、主の天使はヨセフに「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」と伝えているということです。マリアの受胎告知の折りに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルは伝えています。
このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、自分たちの思い描いていた歩みとは異なるものです。いろいろな困難や葛藤も起こってくる。けれども聖霊に導かれて歩み出すときに、彼らは「神の義しさ」によって、本物の人生を生きて行くことができるのです。
私たちも又、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の義の道であるなら、本物の人生を生きることができるのです。そして、その道を歩んでいく中でこそ、「インマヌエル」、神は我らと共におられるという体験と確信を頂くことができる、ということです。
ヨセフに話を戻しますが。
非常に厳しい現実を前にしたヨセフ。誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったことでしょう。
けれども、そのような孤独なヨセフに主は天使を遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、彼の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは「自分の人生が自分一人の孤独なものではない」「自分には神さまが共におられる」「これから自分が負うことになっていく労苦の中にも、神さまが共におられる」という確信に導かれていくのです。「インマヌエル」、神がわたしたちと共におられる。その確信によってヨセフは、マリアとその子を迎え入れていくのであります。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を受け入れ、その神の義に基づく新たな道をマリアと共に歩み出すのであります。
さて、今日の宣教題は「人の正しさと神の義(ただ)しさ」でありますが。
私たちはみなそれぞれに人としての弱さ、悩みや葛藤がつきません。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフの決心と同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、正しいと思える自分の考え方で解決の道を探ろうといたします。しかし結局ヨセフは神の御心に従う道を選び取っていきます。
むろん人間的な心遣いや配慮は大事ですが、それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくしていないか。ここを読むとき私たちはそう問われているように思います。お仕着せの考え方ではなく、世の習わしや模範的回答でもなく、すべての真理の源であられる生ける神の御心がどこにあるのか。それをどう聞いていくか。
ローマ12章2節には「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされてくのです。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側ではどうにも何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からないそういう時こそ、ヨセフを信仰に立たしめた聖霊の力、御霊の導きが与えられる時です。彼はその聖霊のお導きと励ましによって、恐れをすてて、すべてを受け入れて、マリアを迎え入れました。聖霊は神に従う人のうちに働いて御心を成し遂げられる神の力です。
主イエスは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11章13節)とおっしゃっています。
又、こうもおっしゃっています。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びが満たされる」(ヨハネ16章24節)。それは薄っぺらな喜びではありません。神の義しさに導かれる魂の喜びに満ち溢れるようになるということです。
さらに、苦難のときは、ローマ8章26節にあるように「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と述べられています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているんですね。
そのようにインマヌエルの主が共にいてくださる。聖霊のゆたかなお働きを願い、導かれつつ、人の義にまさる神の義をもって、はじめに申しましたように、私たち一人ひとりにこのアドヴェントの期間に求められていることは、神の救いの御言葉であられる主イエスを、「恐れずに迎え入れる」時として今週の一日一日を歩んでまいりましょ
アドヴェントは日本語では待降節:「救い主がお生まれになった」という喜びの知らせに与り、備える時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、夫なるヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。私たち一人ひとりにとりましても、このアドヴェントの期間に求められていることは、神の救いの御言葉であられる主イエスを、「恐れずに迎え入れる。」そのことにあります。
今日は、マタイ1章18節~21節より「ヨセフの正しさと神の義しさ」と題し、御言葉に聞いていきます。この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書にもマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又違いについて読み取っていくことは意義あることです。
今日のマタイの福音書に特徴的なのは、22節で「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまでダニエル書を読んできたように、イスラエルの民、ユダヤの人々の苦難の歴史がシリアとの戦争によって頂点のなり、さらにユダヤの民にとっては最も厳しい迫害の時代を通ってくるのですけれども、そう言う苦難を通りつつ預言者たちはこの今日の箇所に記された「救い主(メシア)の到来を予告」していたのです。そのようにマタイ福音書には歴史の主がユダヤの人々と苦難を共に担い、導かれたという視点があります。さらに、今日の主イエスの誕生の記事は、ルカのマリアだけでなくマタイのヨセフにも「聖霊」の働きが重要な視点として記されているということを見落としてはなりません。これらの意味を考えながら、今日の御言葉に聞いていきたいと思います。
さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていました。この当時のユダヤ社会では、たいてい12、13歳の少女と18歳~24歳くらいの青年が婚約していたそうです。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったともいわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経れば、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったということです。ヨセフとマリアの二人はその婚約期間にあったのです。
ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させたことでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたやも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇ともなりかねない。そんな心配までもヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう恐れともいえるような感情に囚われたのではないかと思います。
裏切られたことの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとすること。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で、悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうとマリアとひそかに縁を切る決心をします。
さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
ここで主の天使が告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」ということです。それは実に明快です。神のご計画はもうはっきりしていました。
ヨセフが考えたように律法に基づいてマリアを訴えるのか。あるいはマリアと縁を切り母子ともに助けるべきか。ヨセフは結果ひそかにマリアと縁を切ろうと考えるのです。しかし、どうでしょう。そうやってヨセフがマリアとひそかに縁を切ったとしても、世間の目は時に残酷です。マリアと生まれてくる子の先行きは過酷なものとなるに違いありません。ここに人間ヨセフの正しさの限界があります。
主の天使は迷えるヨセフ対して、きっぱり「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」と迫ります。これこそが、「神の義(ただ)しさ」に基づいた彼が本当に選ぶべき道なのです。
では、この天使の一声を、ヨセフははたしてどんな思いで受けとめたでしょう。
そんなことをすれば、自分も世間から疑惑や冷たい目で見られる。自分の側にもやっかいごとが降りかかってくる。そういう事を考えたでしょうか。けれどむしろ、それとは逆に、もうすでに悩むだけ悩み抜いたヨセフは、夢によって告げられたこの言葉をまさに天の啓示として「アーメン」と受け取った。そうじゃないでしょうか。本当に神の前で悩み抜いた人、祈り抜いた人は、神の言葉、聖書の言葉のたった一言を示されることによって前に進むことが出来るんですね。私たちもそうではないでしょうか。
さて、ここで注目したいのは、主の天使はヨセフに「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」と伝えているということです。マリアの受胎告知の折りに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルは伝えています。
このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、自分たちの思い描いていた歩みとは異なるものです。いろいろな困難や葛藤も起こってくる。けれども聖霊に導かれて歩み出すときに、彼らは「神の義しさ」によって、本物の人生を生きて行くことができるのです。
私たちも又、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の義の道であるなら、本物の人生を生きることができるのです。そして、その道を歩んでいく中でこそ、「インマヌエル」、神は我らと共におられるという体験と確信を頂くことができる、ということです。
ヨセフに話を戻しますが。
非常に厳しい現実を前にしたヨセフ。誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったことでしょう。
けれども、そのような孤独なヨセフに主は天使を遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、彼の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは「自分の人生が自分一人の孤独なものではない」「自分には神さまが共におられる」「これから自分が負うことになっていく労苦の中にも、神さまが共におられる」という確信に導かれていくのです。「インマヌエル」、神がわたしたちと共におられる。その確信によってヨセフは、マリアとその子を迎え入れていくのであります。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を受け入れ、その神の義に基づく新たな道をマリアと共に歩み出すのであります。
さて、今日の宣教題は「人の正しさと神の義(ただ)しさ」でありますが。
私たちはみなそれぞれに人としての弱さ、悩みや葛藤がつきません。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフの決心と同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、正しいと思える自分の考え方で解決の道を探ろうといたします。しかし結局ヨセフは神の御心に従う道を選び取っていきます。
むろん人間的な心遣いや配慮は大事ですが、それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくしていないか。ここを読むとき私たちはそう問われているように思います。お仕着せの考え方ではなく、世の習わしや模範的回答でもなく、すべての真理の源であられる生ける神の御心がどこにあるのか。それをどう聞いていくか。
ローマ12章2節には「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされてくのです。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側ではどうにも何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からないそういう時こそ、ヨセフを信仰に立たしめた聖霊の力、御霊の導きが与えられる時です。彼はその聖霊のお導きと励ましによって、恐れをすてて、すべてを受け入れて、マリアを迎え入れました。聖霊は神に従う人のうちに働いて御心を成し遂げられる神の力です。
主イエスは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11章13節)とおっしゃっています。
又、こうもおっしゃっています。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びが満たされる」(ヨハネ16章24節)。それは薄っぺらな喜びではありません。神の義しさに導かれる魂の喜びに満ち溢れるようになるということです。
さらに、苦難のときは、ローマ8章26節にあるように「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と述べられています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているんですね。
そのようにインマヌエルの主が共にいてくださる。聖霊のゆたかなお働きを願い、導かれつつ、人の義にまさる神の義をもって、はじめに申しましたように、私たち一人ひとりにこのアドヴェントの期間に求められていることは、神の救いの御言葉であられる主イエスを、「恐れずに迎え入れる」時として今週の一日一日を歩んでまいりましょ