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世界で最初のクリスマス

2016-12-25 15:54:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ2章1節~12節

クリスマスおめでとうございます。

本日は、マタイ2章のところから「世界で最初のクリスマス」と題し、御言葉を聞いていきたいと思いますが。
2000年前も今も、残念なことに世界中で悲しく無残な戦争やテロが後を絶ちません。
今日は特にそのようなお暗き世の地の果てにまで、平和の君である救い主イエス・キリストが世を照らす真の光としてお生まれ下さった、この福音が届くように切に祈り願います。

クリスマス礼拝では何度もこのマタイ福音書のところから宣教が語られていますので、また同じ内容のことを聴かれる方もおられるかも知れません。よくもまあ2000年近い永い歴史の中で毎年毎年繰り返し語られ続けてきたものだと、つくづく感心しますが。
それはこのエピソードが神さまの「不変の愛と救い」のまさにゴスペル、福音であるからです。今回も改めて気づかされたことについてお話したいと思います。

まず3節に、「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た。」という東方の学者らの言葉を聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった、祝われるような出来事ではなかった、という事を表しています。 

当時のユダヤはローマの支配下にあったとはいえ、エルサレムの住民は比較的裕福であり、ヘロデもその地位に満足していました。そこに神の民としての畏れや渇きはありません。
何よりも権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するなんぞという知らせは、自分の地位や権力を揺るがす以外の何ものでもなかったわけです。
まあエルサレムの住民も自分たちの生活の現状が維持されならよいということで、それを揺るがす存在のすべてが、彼らにとってみれば不安の材料であったのです。たとえそれが神からの救いの王であってもであります。
その一方で、ルカの福音書に記されているのは、この神からの救いの王を喜び迎えたのは、ユダヤの貧しい羊飼いたちであったことは皆さまご存じのとおりであります。
彼ら羊飼いにはヘロデ王のように地位や権力もありません。又、エルサレムの住民のように安定した暮らしでもないし、裕福でもありません。
羊飼いたちは自分の地位や名誉、富など自分を守るもの一切持っていない人々でした。その日暮らしの中でただ一生懸命に生きる、そういった存在です。にぎやかな街の喧騒から置き去りにされたような、王や富める人たちから疎外されたような彼らに、天使の御告げが聞こえてくるんですね。「民全体に与えられた喜びの知らせ」。しかしそれを聞き取ることができるのは、まさにそのような人たちであるのです。

こうして彼ら羊飼いらに天使のお告げが臨んだとき、彼らも又、恐れおののきます。
しかしその羊飼いたちの恐れとおののきは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違っていたのです。彼らの恐れ、それは、「自分たちのように世にあって小さい者のもとに救い主の誕生の知らせが届けられるとは、一体どういうことか」という驚き、それは「神への畏れ」、畏敬の念であったのですね。

さて、本日のマタイ福音書は、救い主・キリストに初めてお会いできたのは、東方の占星術の学者たちであった、と伝えます。
それは神の選びのユダヤの民でなく、ユダヤと国境を隔てた遠い東の国に住む異邦人たちでした。エルサレムの住民からすれば、神の祝福の範疇から除外されている外国人でした。

彼らは東方のおそらくペルシャ方面、イランやイラクから来たとも言われており、その一人はアフリカのエチオピアの国の人であったとも言われています。贈り物が3つだったことから学者たちは3人だと言われていますが。その贈り物からみてかなりの地位をもった人たちであったことが推察できます。また、そこから多くの供を引き連れての旅であったことが想像できます。

いずれにしても、東方の占星術の学者一行はエルサレムのヘロデ王の王宮を訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
彼らがこうして王のもとにやって来たのは、ユダヤの王の後継者誕生を祝うことで、安全保障的な関係を期待するような政治的使節団だったとも考えられます。少なくとも彼らがヘロデ王の王宮を訪れるまでは、それをきっかけに政治的策略による繋がりを期待し行動していたと考えることができます。しかし、新しい王はそこにはいません。
ヘロデ王がその新しい王として誕生した男の子を抹殺するために、この東方の学者らを送り出した時。東方で見た星が彼らに先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとどまったのです。ここに、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とありますね。
天体物理学で世の中を計算し占うような彼らが、生ける神の働きと導きに遭遇して喜びに満ちるんですね。彼らがその家に入りますと、幼子は母マリアと共におられた、と記されています。
東方の学者たちがずっと会いたいと願っていたユダヤの王と、彼らはこの「神の導き」という確信によって初めて対面することになるのです。そこは立派な建物ではなく、粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。

またそこには、おそらく救い主の誕生の知らせを聞いて、同じく喜びに溢れ、かけつけて来た貧しい羊飼いたちの姿もあったことでしょう。まあ、薄暗い家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者同士が輪になってこの幼子イエスさまを囲んでいるという、何と平和な風景。何と暖かい光景でありましょう。東方の学者たちはそういう風景や出会いの中、この幼子こそ、真の救い主なる王(メシヤ)であるとの確信が与えられたのではないでしょうか。
彼らは乳飲み子イエスをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます。
イエスさまは、福音書の中で「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちもまた、乳飲み子が母親の乳を求めるように、神とその救いを求める人たちであったのですね。
天体物理学を通して真理を探し求めていた学者たちは、学問によってではなく、家畜小屋のそのような光景の中に、神の救いを見た。
どこか私共もそのような真理への渇きとしなやかな感性をもちたいものであります。

さて、そうして幼子のイエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。

彼らが当初来た道は、政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありましたが。しかし救い主の幼子イエスに出会った彼らは、ヘロデの王宮にはもう向かわないで、神の言葉(御告げ)に従う道を通って自分たちの国へ帰っていくのですね。それは、彼らのこれからの人生が、世の力に頼み拝む道ではなく、生ける神さまを主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道を選び取っていく者とされた。そのことが象徴的に示されているんですね。


そのように私たちの前にも2つの道があるのです。世の力により頼み神の力を知らずに過ごしていく道か。あるいは生ける主なる神を見出し、真理の御声に聞いて歩んでいく道か。どちらを選ぶかは私たち自身に委ねられています。
さて、喜びあふれる最高の献げものを幼子イエスさまにプレゼントした東方の学者たち。しかし、神さまは、それよりも遥かに優るプレゼントをお与え下さいました。それが神の独り子イエス・キリストです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネ3章16節。「一人も滅びないで永遠の命にあずかる」。ユダヤの民ばかりでなく、ユダヤから遠く隔てられていた異邦人、また羊飼いのように、世の力によって小さくされ、価値無き者とみなされているような者も。この神の救いのプレゼントを受け入れる時、その人は滅びる者ではなく、永遠の命を得る者とされるということであります。

「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味です。救い主であるキリストがわたしたのために人間の姿となっておいでくださった。この神さまのすばらしいプレゼント、主イエス・キリストを喜び祝う。これがクリスマスの原点であります。

さらに、「ミサ」は「派遣」という意味を持っています。つまり、キリストは世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださった。この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者は、「ミサ」「派遣され」ということですね。ここが大事です。

私たちが主の日のごとに、主の復活を記念する礼拝を捧げているのは、ここで主の御名を讃美し、感謝をささげ、主の祝福を頂くということもあるでしょう。しかしそればかりでなく、私たちも又、東方の学者たちのように、ここからキリストに従う者、生ける主を証ししていく者として、派遣されていくということなのです。

今年も私たちの教会の礼拝や祈祷会に、韓国、中国、台湾、ミャンマー、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、イタリア、オランダ等10カ国以上の国の方々が集われ、共に世界の主を礼拝する時が与えられました。ここ数年ほんとうに世界中からの主にある姉妹兄弟との交流が身近に起されていることは、私たちにとってもうれしく、主イエスの福音の拡がりとゆたかさを感じられる機会にもなっております。

今日は「世界で最初のクリスマス」というテーマでお話をしました。
今年一年の歩みを感謝しつつ、この聖書が告げる世界で最初のクリスマスの光景に、私たちも救いの喜びあふれる思いをもって、それぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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