礼拝宣教 マタイ1章1~17節 世界祈祷週間
12月に入り、2016年も残すところ1カ月となりました。
一年の恵みを数えつつ、恵みのクリスマスにむけた備えを共々になしてまいりたいと願います。来週11日のチャペルコンサート、24日のキャンドルライトサービス&クリスマス・イブコンサート、そして25日はクリスマス礼拝と続きます。主に祈りつつ期待して備えていきましょう。
本日は、バプテスト世界祈祷週間を覚えての礼拝として、特に全世界に福音が伝えられる「世界伝道」とその福音のもつ「平和と和解の働き」を覚え、祈り、ささげる時となるよう願っております。
本日から4月のイースターまでの約5ヶ月間、マタイの福音書から御言葉を聞いていきます。
今日はその1章の前半に記されています「救い主イエスの系図」の箇所です。
その系図は、旧約のアブラハムの時代より、イスラエルの統一王であったダビデを経て、さらに捕囚と苦難の時代を貫いて、遂に救い主イエスに至ります。
それはおおよそアブラハムから2000年の時代に至る系図です。
「系図」と訳された原語は、ギリシャ語でビブロス ゲネセオースという言葉で、それは「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合いがあります。
それはいわば神さまがお造りになられた「いのち」が連綿とつながれてきた系図といえるでしょう。
さて、当時ユダヤの祭司たちは自分の誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。その系図への強い思い入れというものは、イスラエル、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになったからです。今日の主イエスの系図にも、アブラハムの子、ダビデの子からなっているように、その系図はイスラエル、ユダヤの「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらに歴史的にもイスラエルの初代の王、ダビデにつながっています。そこにユダヤの人々は自分が神から選ばれた「神の民」であるという存在意義を見いだすことができるからです。
しかし、今日の主イエスの系図はそんな彼らの誇り高き系図とは異なる一面が示されています。ユダヤの祭司たちが憶えた系図は、自分の誕生からさかのぼり250年前までの父系の系図であったのに、この主イエスの系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人の女性が登場します。通常の系図は父系の「誰は誰を」と記されますが、これら女性が登場しているところは、「誰は誰によって」又「誰は誰から」と記されています。
夫を亡くして寡婦となったタマルは、義父ユダの冷酷さの中で苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。又、ラハブは、エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でしたが、エリコの城壁を偵察に来たヨシュアの遣いの者たちが守られるようにヤコブ書によるなら、その信仰によって彼らを助け、後にサルモンとの間にボアズが生まれたいうことです。次のルツはイスラエル、ユダの家系でない異邦人でしたが、先のボアズとの間にオベドが生まれたということです。さらにウリヤの妻は、バテシュバのことですが。あえてウリヤの妻となっているのは、その子ソロモン王の父であるダビデ王が忠実な僕ウリヤを裏切り死に至らせたその恐ろしい罪が露わにされるためです。さらにイエスの母マリアもまた、主の御心とはいえ自分の預り知らぬうちに子を宿すという苦悩を抱えます。
そのように救い主イエスの系図は、父系中心の系図とは異なるんですね。ここには当時の男性優位の社会の中で、辛酸をなめなければならなかった女性たちの姿があります。イエスさまの母マリアだって姦淫で子を宿したと見なされれば石打ちで殺されかねませんでした。女性の側の言い訳など通用しない、そんなそんな世の中でした。
このようにイエスさまのこの系図は、連なった者の人生と彼らを取り巻く人の世の罪を赤裸々に示します。神はそのような人の世の罪と痛みが露わにされるため、その只中に肉をとっておいでくださいました。イエス・キリストの誕生はまさにそんな世の罪が取り除かれるため、又、世の力から解放がもたらされるために、この系図の中にお生まれになったということであります。
それはどこか高いところからではなく、この系図が示すように人の苦しみや痛みを共にしてくださるお方として私たちのもとにお生まれくださった。来週以降またお読みしますが、マタイはその救い主の名を、「インマヌエル」と呼びます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。
この救い主イエスの系図に記されたひとり一人。それは私たちひとり一人であるかも知れません。神の赦しなくしては到底神の祝福に与り得ない存在であるということにおいて同様であります。
むろん私たちはこのアブラハムからなる神の民の血筋とはいえませんが。しかし聖書は、そのアブラハムの祝福によって地上のすべての民族が祝福に入ること、さらにローマ書13章には「共におられる主、イエス・キリストみよって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木された」と記されています。私たちがどんなに小さくても、到底神の前に立ち得ない罪人であったとしても、救い主イエスによって神に立ち返る時、この神の民の系図に接ぎ木され、祝福を受け継ぐ者とされている。
どんなに尊く、感謝なことではないでしょうか。
本日は世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが、先にも申しましたように聖書はアブラハムの祝福によって地上のすべての民族がその祝福に与るべきことを示しています。
主イエスの福音は今日のこの世界において最も暗く、闇のようなところにまでも、文字痔入り地の果てまでも届けられることが求められています。
私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟がアジアという場所を宣教の地としているのは、かつての戦争における私たちの罪の告白と和解がキリストによってもたらされるためです。またルワンダでの働きに参与しているのも、人と人を隔てる敵意の壁の開放、キリストにある平和と和解をルワンダの人たちと共に確認していくためであります。
救い主イエスさまの御降誕を待ち望むアドベントにおいて、まずこの驚くべき神の新しい救いのご計画が全世界にもたらされた、そのことを覚えたいと思います。又、私たちも神の救いのご計画のために用いていただけるよう祈り求めてまいりましょう。
12月に入り、2016年も残すところ1カ月となりました。
一年の恵みを数えつつ、恵みのクリスマスにむけた備えを共々になしてまいりたいと願います。来週11日のチャペルコンサート、24日のキャンドルライトサービス&クリスマス・イブコンサート、そして25日はクリスマス礼拝と続きます。主に祈りつつ期待して備えていきましょう。
本日は、バプテスト世界祈祷週間を覚えての礼拝として、特に全世界に福音が伝えられる「世界伝道」とその福音のもつ「平和と和解の働き」を覚え、祈り、ささげる時となるよう願っております。
本日から4月のイースターまでの約5ヶ月間、マタイの福音書から御言葉を聞いていきます。
今日はその1章の前半に記されています「救い主イエスの系図」の箇所です。
その系図は、旧約のアブラハムの時代より、イスラエルの統一王であったダビデを経て、さらに捕囚と苦難の時代を貫いて、遂に救い主イエスに至ります。
それはおおよそアブラハムから2000年の時代に至る系図です。
「系図」と訳された原語は、ギリシャ語でビブロス ゲネセオースという言葉で、それは「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合いがあります。
それはいわば神さまがお造りになられた「いのち」が連綿とつながれてきた系図といえるでしょう。
さて、当時ユダヤの祭司たちは自分の誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。その系図への強い思い入れというものは、イスラエル、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになったからです。今日の主イエスの系図にも、アブラハムの子、ダビデの子からなっているように、その系図はイスラエル、ユダヤの「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらに歴史的にもイスラエルの初代の王、ダビデにつながっています。そこにユダヤの人々は自分が神から選ばれた「神の民」であるという存在意義を見いだすことができるからです。
しかし、今日の主イエスの系図はそんな彼らの誇り高き系図とは異なる一面が示されています。ユダヤの祭司たちが憶えた系図は、自分の誕生からさかのぼり250年前までの父系の系図であったのに、この主イエスの系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人の女性が登場します。通常の系図は父系の「誰は誰を」と記されますが、これら女性が登場しているところは、「誰は誰によって」又「誰は誰から」と記されています。
夫を亡くして寡婦となったタマルは、義父ユダの冷酷さの中で苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。又、ラハブは、エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でしたが、エリコの城壁を偵察に来たヨシュアの遣いの者たちが守られるようにヤコブ書によるなら、その信仰によって彼らを助け、後にサルモンとの間にボアズが生まれたいうことです。次のルツはイスラエル、ユダの家系でない異邦人でしたが、先のボアズとの間にオベドが生まれたということです。さらにウリヤの妻は、バテシュバのことですが。あえてウリヤの妻となっているのは、その子ソロモン王の父であるダビデ王が忠実な僕ウリヤを裏切り死に至らせたその恐ろしい罪が露わにされるためです。さらにイエスの母マリアもまた、主の御心とはいえ自分の預り知らぬうちに子を宿すという苦悩を抱えます。
そのように救い主イエスの系図は、父系中心の系図とは異なるんですね。ここには当時の男性優位の社会の中で、辛酸をなめなければならなかった女性たちの姿があります。イエスさまの母マリアだって姦淫で子を宿したと見なされれば石打ちで殺されかねませんでした。女性の側の言い訳など通用しない、そんなそんな世の中でした。
このようにイエスさまのこの系図は、連なった者の人生と彼らを取り巻く人の世の罪を赤裸々に示します。神はそのような人の世の罪と痛みが露わにされるため、その只中に肉をとっておいでくださいました。イエス・キリストの誕生はまさにそんな世の罪が取り除かれるため、又、世の力から解放がもたらされるために、この系図の中にお生まれになったということであります。
それはどこか高いところからではなく、この系図が示すように人の苦しみや痛みを共にしてくださるお方として私たちのもとにお生まれくださった。来週以降またお読みしますが、マタイはその救い主の名を、「インマヌエル」と呼びます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。
この救い主イエスの系図に記されたひとり一人。それは私たちひとり一人であるかも知れません。神の赦しなくしては到底神の祝福に与り得ない存在であるということにおいて同様であります。
むろん私たちはこのアブラハムからなる神の民の血筋とはいえませんが。しかし聖書は、そのアブラハムの祝福によって地上のすべての民族が祝福に入ること、さらにローマ書13章には「共におられる主、イエス・キリストみよって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木された」と記されています。私たちがどんなに小さくても、到底神の前に立ち得ない罪人であったとしても、救い主イエスによって神に立ち返る時、この神の民の系図に接ぎ木され、祝福を受け継ぐ者とされている。
どんなに尊く、感謝なことではないでしょうか。
本日は世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが、先にも申しましたように聖書はアブラハムの祝福によって地上のすべての民族がその祝福に与るべきことを示しています。
主イエスの福音は今日のこの世界において最も暗く、闇のようなところにまでも、文字痔入り地の果てまでも届けられることが求められています。
私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟がアジアという場所を宣教の地としているのは、かつての戦争における私たちの罪の告白と和解がキリストによってもたらされるためです。またルワンダでの働きに参与しているのも、人と人を隔てる敵意の壁の開放、キリストにある平和と和解をルワンダの人たちと共に確認していくためであります。
救い主イエスさまの御降誕を待ち望むアドベントにおいて、まずこの驚くべき神の新しい救いのご計画が全世界にもたらされた、そのことを覚えたいと思います。又、私たちも神の救いのご計画のために用いていただけるよう祈り求めてまいりましょう。