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ゆるし

2017-03-05 16:14:27 | メッセージ
礼拝宣教 「ゆるし」 マタイ18章21―35節  

遠藤周作さん原作の映画「沈黙・サイレンス」の上映は終わったのでしょうか。御覧になられた方の感想も様々おありですが。Kさんが私に「”沈黙”を見て感動しました。踏み絵の際のイエスの言葉も感動しましたが、散々裏切ったキチジロウに一緒に居てくれてありがとう!と言う場面は正にキリスト教だ!と感動しました」という熱い感想を語ってくださいました。そうですね。実はここにキリスト教の神髄が「ゆるし」であることが示されていると思います。それは、どんなに私たちが迷い疑い多き者、小さく弱い者、負い目のある者、罪深い者であったとしても、主は決して見捨てる事なく、ゆるしと愛をもって招いておられる。そのメッセージが「沈黙」という作品をして物語られていると私も思いました。

今日の箇所ですが。はじめにペテロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問いかけています。「兄弟が」と言うのですから、イエスさまの弟子たちの間でもなにがしかのいざこざがあったということでしょうね。まあそういう問いかけに対してイエスさまは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになるのです。
 この七の七十倍というのは単なる数字を示すものではありません。七というのは旧約時代からの完全数を示します。その七十倍ということですから、もう制限無くというような意味なのです。一応計算上は490回という上限があるわけですが。もうそれ以上ゆるしたらあとは神の審きの領域だから神に委ねなさいというとり方もできるかも知れませんが。いずれにしてもとことんゆるしなさいということですね。

さて、ペトロがどうして「罪の赦し」についてイエスさまに尋ねたのか。
それは恐らく前の段落で「罪を犯した兄弟に対するイエスさまのみ教え」を受けてのことなのでありましょう。まあ12弟子以外にも多くの弟子がいたのですから、何らかのトラブルがあったとしても不思議ではありません。イエスさまはそういう時「あなたがたが黙って我慢するように」とはおっしゃいません。ともすれば、我慢が美徳のように思われたりするものですが。しかしイエスさまは相手と直に対話することの意義を説かれます。それは審くためではなく、本質的には兄弟を得るためであることがこの文脈から伝わってきます。まあそれを聞いたペトロが、何度忠告しても同じように罪と思えることをなしてくる弟子仲間に対して、「何度まで赦すべきでしょうか」、完全数の7回までですか、と尋ねたわけです。そこで、イエスさまは今日の「仲間を赦さない家来」のたとえをなさるのでありますが。

ここで興味深いのはこのたとえを読む限り、イエスさまは何一つ道徳的な理由付けをなさっていない、ということです。言ってあげた方が相手のためになるとか。相手をゆるすことはあなたの功徳、徳になるからとか。そういう解説をなさらないんですね。
イエスさまはそうではなく、ただ「天の国は次のようにたとえられる」と、実は「天の国」について語られている。そこが大きな特徴です。「天の国」とは兄弟姉妹という神の共同体、それは教会ともいえるでしょう。さらに広く地上のいたる所に実現されるべき「天の国」というようにも考えられるでしょう。いずれにしても、イエスさまはこの「天の国」のたとえを通してペトロに「ゆるし」ということをお示しになるのです。

ではその内容について見ていきたいと思います。
まずこの家来が王から借りていた1万タラント。その1万分の1の1タラントが当時の労働者の6,000日分の賃金ですから。その6,000日分の賃金の1万倍に当たるというとてつもない莫大な金額です。王の家来はその莫大な借金を返済できなくなった。損害を被った主君は、はじめこの家来に自分も妻も子も身売りして持ち物全部を売り払って返済するよう命じるのですが。彼がひれ伏してしきりに懇願する様子を見て、憐れに思って、赦し、何とその国家レベルで扱うような莫大なその借金を帳消しにしてやった。
つまり、主君は自らその損害を与えた家来の莫大な借金の肩代わりを「ただ憐れみ」のゆえに無条件ですべて負ったのです。
 この「憐れみ」というのは、ただかわいそうというのではなく、腸がちぎれるような心情を表す意味の言葉なのです。主君はそれくらい憐れに思ったからこそ家来をゆるし、自らそれを負ったのです。家来はどんなにか喜びながら帰っていったに違いありません。

ところが、この家来が外に出て自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、つかまえて首を絞め「借金を返せー」。私はこのくだりを読むとなにか吉本新喜劇の世界みたいだと、このたとえ話にイエスさまのユーモアを感じたのですが。
とにかく、自分はそれだけ赦して頂いて喜び感謝もつかの間、自分に借金している者の首根っことっ捕まえて「返せ-」と。その仲間も自分が主君の前でしたようにひれ伏して「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むわけですが、承知せず、引っ張っていき、借金を返すまでと牢に放り込む、ということをやるわけです。
100デナリオンとは、100日働けば稼げる金額です。6,000万日分の1万タラントに比べれば実に取るに足りない金額ですよね。
この家来は主君から無限ともいえる憐れみ、腸がちぎれるほどの痛みを伴う憐れみによってゆるしを頂いたにも拘わらず、自分の仲間は赦しませんでした。
この家来は、主君が自分に施した愛と赦しがどんなに莫大で尊いものか、又自分がいかに借り多き者かを自覚できず、自分に対して些細な借りがある仲間を赦せないのです。

ペトロは「わたしに対してなされた罪を何回ゆるすべきでしょうか」とイエスさまに尋ねました。このペトロは主イエスの弟子たちすべてを象徴する存在として描かれています。それは又、現代の私たちにも様々な人間関係の中で、時に起ってくる問いかけなのではないでしょうか。そして、このたとえに出てくる主君の憐れみとゆるしによって莫大な1万タラントンという借金を無条件に赦された者。それも又、主なる神さまの前にとても償いきれない罪や咎を憐れみのゆえに赦されている私であり、主イエスの十字架の愛によって肩代わりして頂いている私であるのです。
そのようにこの家来同様ただ主の憐れみに与る外ない存在であるということを自覚した者、それがクリスチャンでありましょう。唯、主君の憐れみと恵みに与って赦しを得ている。ここに「天の国」が示されています。私たちはいまここにおいてこの天の国に与っているのですね。

しかしこのたとえは、そこで終わらず、この家来は借金のある仲間を憐れまず、ゆるすことなく、借金を返すまでと牢に入れた。その非情な姿を示します。それも又、些細なことに腹を立て、何度も思い出しては苦々しい思いが頭をもたげてくるような私自身の姿かも知れません。このたとえの王、主君はそんな家来に「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきでなかったか』
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」とあります。
主は言われます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。

この最後のイエスさまのお言葉は、単に私たちが自分の感情や思いを押し殺して、見逃してやりなさい「ゆるしてあげなさい」とおっしゃっているのではありません。「クリスチャンは何でもゆるさなければいけない」と言うのは思い違いです。神の前に違うことは違う、いけないことはいけない、と言ってよいのです。傷つけられ痛んでいる人に、相手を「ゆるしなさい」ということは憐れみに欠くことです。人の心に受けた傷はいえにくいものですし、その痛みや感情は第三者がゆるせと言っても赦せるものではないでしょう。
私たちはここから何が何でも赦せということを聞くのではなく、ここでイエスさまがおっしゃっている「ゆるし」とは、天の父こそが「ゆるし」の主であるということです。その深い憐れみの中にわたし自身がまずゆるされている。100%の愛とゆるしの中に、すなわち「天の国」に迎え入れられているということにまず気づき直すこと。それが、同時に主にある兄弟へのゆるしへとつながってゆくであろうという期待がここに語られているのですね。それは又、天の国に与る私たちに対する実はユーモアーとあたたかなまなざしに満ちた主の招きと励ましなんですよね。

現在私たちが礼拝の中で共に祈っている「主の祈り」は、マタイ6章とルカ11章でイエスさまが弟子たちにお教えになられた「祈り」がベースになっています。
その祈りの中で「ゆるし」についての祈りがあります。それは「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(文語訳)となっていますが。もともとイエスさまのお教えは、まず「わたしたちの罪(負い目を)をゆるしてください」という祈りが先なんですね。そこには「如何に自分は主にゆるされるのでなければ救い難い者であるか、どうかこの私の負い目(罪)をおゆるしください」という信仰の告白があります。そうしてから「わたしたちも自分に負い目のある人をみなゆるしましたように、と言うんですね。ルカではさらに「わたしたちが赦しておりますように」という現在時制で語られていますが。
いずれにしろ、主の祈りの「ゆるし」は人間の側から出る感情ではなく、神さまから頂くゆるしに与るという神の国の訪れによって、自ら意志をもってゆるしと和解の御国を造り出していく者とされていく、そこにございます。


最後なりますが。バプテスト連盟医療団の機関誌「シャローム」の聖書の小道というコラムにチャプレンが書かれたエッセイにたまたま目が留まりました。少しご紹介します。
「トルストイ原作の『火は早めに消さないと』という絵本は、隣家といがみ合う息子に父親が繰り返し伝えた言葉がタイトルになっています。たった一個の卵から始まった二軒の農家の争いが、最後は村の半分近くを焼いてしまう火事に発展しました。物事が大事になり、その時始めて息子は自分とその心に目を向け、悔いるのでした。
人の魂の痛みは「ゆるし」に関するものがあり、これはスピリチュアルケアにおいて、人生で、特に最後を迎えるにあたって取り組む大切な仕事の一つに数えられています。
マザーテレサは言いました。「誰かをゆるしていない痛みはないか。誰かからゆるしてもらっていない悲しみはないか。」

受難節を迎えた私たちそれぞれもまた、主の十字架の深い愛とゆるしの恵みをおぼえながら、今日の主イエスの真理と、ユーモアーに満ちたたとえ話に背中を押されつつ、兄弟姉妹、隣人との和解に「天の御国」を求めてまいりましょう。


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