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ろばの子に乗った主イエス

2017-03-12 15:36:22 | メッセージ
宣教 マタイ21章1~11節 

「主イエスのエルサレム入場」
さて、受難節・レントの第二週を迎えましたが。今日のマタイ21章の箇所からイエスさまは救い主としていよいよここからエルサレムに入城されます。しかしそれは世に言う勝利者のようなエルサレム行進ではなく、十字架:受難へと向かわれるための道なのであります。
今日の箇所は他のマルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にも共通して記されています。それほど聖書は「イエスさまのエルサレム入城」を、神の救いの重要なご計画として示しているということですね。
中でも、9節「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という讃美は、全ての福音書に同じ言葉で記されています。それはこのイエスさまこそ、すべてを統めたもう神さまによって「救いのご計画」を成し遂げるために来られた救い主、キリスト(メシヤ)であるということを表しています。その主の名によって来られるお方、イエス・キリストは、今も世界の一人ひとりの魂を救い続けておられ、私のところにもおいでくださり、生きてお働きになられる救い主なのです。まさにアーメンです。

「ろばに乗った柔和な王」
さて、イエスさまはエルサレムに入城されるためにろばを用いられたということであります。王としていかにも勇ましく格好のよい軍馬ではなく、ろばに乗られるのです。
私も幼少の頃、親に到津動物園・遊園地に連れられてろばによく乗せてもらった思い出がありますが。ろばは、通常旅行者がその旅の便宜のために乗ったり、荷を運ぶのに用いられていました。又、労働力として家畜用にも飼われていたのです。ろばは労働や奉仕をするための動物だったのです。一方の馬は、軍事的な戦力、又王の行進のために用いられるなど、権力を象徴するものでした。
イエスさまはエルサレム入城というここ一番の時に、自らを英雄としてアピールしようなどとはなさいません。自らの勇ましさや力を誇示するために馬をお用いになるのではなく、軍事力や権力とは関わりのない、人々の日常の生活ときってもきれないろば、地道に奉仕し、労働するろば、しかもまだ一人前とはいえないような未熟で小さく弱々しい子ろばをお用いになられるのです。

そのことについて、4節以降に「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とございます。そしてその預言者ゼカリヤの「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」という言葉から引用されています。ちょっとそこを開いてみましょう。旧約1489頁。ゼカリヤ9章9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。」まあ少し違いますが。
いずれにしましても、ここで大事なことは、旧約時代において「娘シオン、娘エルサレム」は、つまり、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマなどの大国の支配のもとで打ちひしがれ、翻弄され、神に見捨てられてしまったかのようなユダヤの人々のために「救いの王である主が来られる」という神のご計画と約束が記されているんですね。その預言が、イエス・キリストによって今や実現されるに至ったということであります。
そのように救世主である王は、「高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って来る」という預言が今まさに目の前に実現されているのです。
人々の熱狂的な歓迎ぶりには、そのような重く暗い時代背景と祈りとがあったのです。「ダビデの子にホサナ」。このホサナは「主よ、救ってください」「主の救いバンザイ」というような意味合いがありますが。まさにイエスさまの到来にユダヤの民はかつてのダビデ王の統治と栄光の時代が取り戻されることを大いに期待していたんですね。
とりわけこの群衆の多くをしめていたのはガリラヤやエリコといった都エルサレム周辺の地からイエスさまを追って来た人たちでした。エルサレムの都の傀儡政権のもとで比較的安定した生活を送る人たちより、貧しく置き去りにされたような郊外の人たちの方が切実さもあって救い主の到来を歓迎したのです。この5節の「柔和なろば」の「柔和」というのは、国語辞典等見ますと「性質や態度がやわらかであること」とありますが。その言葉の原意は詩編37:11の「貧しい人々は地を継ぎ」の「貧しく打ちひしがれているさま」。あるいは又、イエスさまが「貧しい人々は幸いである」とおっしゃった、その貧しさと区別できないほど同じ意味だということですね。

救い主を待ち望むほかない打ちひしがれた貧しいシオンの娘、取るに足りないもののようにされたエルサレムの住民たち。その痛み苦しみ、悲しみ悩みを神は知っておられる。柔和というよりどこか貧弱ともいえるようなそのろばの子に乗って来られたイエスさまのお姿にイ彼らも、そして今も、私たちも神の救い、ご慈愛を見るのであります。

「主がおいり用なのです」
今日の箇所はこれまで何度も読んでいたんですが、今回改めて気づかされたことがありました。それは「主がお入り用なのです」というお言葉についてであります。

これまで私はこのくだりを読むとき、今日はイエスさまのエルサレム入城について聖書から聞いてまいりましたが。私は個人的に、自分をこの2人の弟子に置き換えて、主の御言葉に聞き、お言葉に従っていくことによって主は栄光を顕わされると、そこに焦点をおいて読んでいたのです。まあ牧師という仕事がら、自分はイエスさまの弟子であるから罪や悩みに縛られている人の縄目を解いて主のもとに連れてくるようにと主イエスが言っておられると、そこを気にかけて読んでいたんですね。気負いがあったのです。
けれど、今回この「主がお入り用なのです」と言いなさいという主のお言葉を聞くとき、この引いてこられた「ろばの子」こそ、まさに私、自分なんだと思ったんですね。私はこの子ろばのように、神の前には何も誇れるものが一つもなく、未熟なものであるということにハッとさせられたのです。ろばが「つないであり」というのは、罪につながれ、その縄目に縛られている自分であります。主イエスの救い、「あなたの罪は赦された」という宣言によってしか自由になることのできない私自身であります。そんな私を主は罪の縄目から解き放ち、ご用のために用いてくださる。主は私のような罪深き者、取るに足りない者を、救い、解放の喜びのうちに用いてくださる。そのもったいなさといいますか。アーメン、唯感謝です。主が勇ましく戦いに優れている軍馬ではなく、小さく未熟な子ろばを神の救いのご計画のためにお用いになられる。それは人の業がたたえられるのではなく、だれも誇ることがないように。唯主のみ救いであることが明らかにされるために敢えて、ろばの子のような者をお用いくださるのですね。

私たちは自分の能力や賜物を用いて神さまの栄光を表したいと願います。もちろんそれは良いことに違いありません。けれども、すべてに優って大事なことは、罪や囚われから解き放ってくださる主、それも自ら貧しく小さき者、柔和な者となられる主の、その愛と救いに生かされている証しと感謝です。それを主は、何が出来るかということにも優っていることなんですよね。

レントの只中、この「柔和なろばの子に乗って来られた私たちの救い主イエスさま」に、「ホサナ」と、感謝と喜びを賛美しながら今日もここからそれぞれの生活の場へ遣わされてまいりましょう。

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