元旦礼拝宣教 テサロニケ一5章16-18節 2018/1/1
主の御名を讃美して、新年明けましておめでとうございます。
2018年の元旦を迎え、こうしてその初めの日に皆さまと共に、主に礼拝をお捧げできます幸いを感謝します。主にあって本年もよろしくお願いいたします。
日本ではお正月を前に大掃除、門松やしめ飾りをしたり、家内安全、商売繁盛と人の名や牛などの偶像が祀られた神社を廻ったりいたしますが。
私たちにとってこのお正月、元旦という年の初めは、天地万物をお造りになり、すべてを統め、導いておられる生ける神、救い主を讃える礼拝から始めます。
どうかこの1年主にあって心と体、そして魂が健やかで平安のうちにありますように。又、一切が主のもとにあり、御心にふさわしいあゆみができる祝福が与えらますように、お祈り申しあげます。この元旦にそのような祝福が整えられますよう、今日も御言葉に聞いていきたいと願います。
「昨年の出来事」
さて、昨年の国内外の情勢は益々将来の先行きが見通せない混迷に満ちた年となりました。それだけではありません。人間による自然破壊や大気汚染に加え、自然の脅威も相俟って、地球環境が益々悪化しているように思います。
昨年7月には九州北部地方にとてつもない集中豪雨があり、甚大な被害が生じましたが。その被災者に対して、感謝なことにバプテストの群である大名クロスガーデンの森牧師をはじめ、有志の教会の方々がボランティア活動を継続的になさっておられます。
先日、私たち大阪教会の有志で募った献金を送らせて頂いたのですが。ボランティアの風景を写した報告とこのようなお手紙が届きました。「丁度25日のクリスマスを朝倉の仮設住宅のみなさんと祝おうと準備中でした。そのような中で、励ましのメッセージにどれほど勇気を与えられたことでしょうか。闇の中に光宿るクリスマスを、共に祝いましょう」。これを読んで、逆にこちらが励まされ、こころ温まる思いにされました。
現在も東日本、熊本、九州北部などでは大切な家族や家を失い、今なお仮設住宅で新年をお迎えになっている方々がおられることを忘れてはならない、と思わされました。
主イエスの語られた終末のしるしを彷彿とさせる世相の中で、主イエスにある灯火を共に掲げ続ける希望を見せていただき、感謝であります。
また大阪教会の昨年のあゆみからは、特にアジア諸国、ミャンマー、インドネシア、台湾、タイ、中国、韓国などから日本語を学ぶために来日しておられる姉妹兄弟と礼拝や愛さん会をともにすることができて、私たちは本当にこころ豊かにされています。
言葉の違いや文化の違いをものともせず、同じ一つの救いを仰がせてくださる主の救いの恵み。本当に素晴らしいですよね。
そうした出会いをとおして、私たちも多くのことを彼らから学ぶ機会が与えられていることにも感謝します。今年、さらなる出会いを主に期待しています。
「喜び・祈り・感謝」
さて、先に2018年の年初の御言葉としてⅠテサロニケ5章16-18節が導かれました。「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」。
これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
私たちの人生には実に様々な事どもが起こってまいります。平々凡々とした日常にも感情が揺れ動くような時があります。又、時には自分の思いを超えるような出来事も起こってまいります。それが良いことならいいのですが。どうしたって喜びようのない事、
何と祈ったらよいのかさえ分からなくなるような出来事やとうてい感謝できないような事があるでしょう。
けれども聖書は、そのような時も、イエス・キリストにおいて「いつも喜んでいなさい」というのです。
喜びって何でしょうか?調べますと「うれしい気持ち、満足な思い」とあります。
なるほどそうでしょうが。問題はその気持ちや思いがどこから来るか?です。単に欲求を満たすことに留まるなら、それは一時的ですから「いつも喜ぶ」ことはできません。実はこの「喜ぶ」の漢字の「喜」の成り立ちは、「楽器を鳴らして神に祈り、神を楽しませる」という意味をもつそうです。
先に交読文で詩編98編を読みましたが。そこに歌われている「琴に合せてほめ歌え、琴に合せて、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」との賛歌がまさにそうですよね。
それは、たとえ苦難の中におかれた時も主の救いを信じて祈る時、私たちを滅びから贖い出してくださる共におられる神を賛美する時。それは神の楽しみとなり、私たちの喜びとなるんですね。旧約聖書の詩編はまさにそのような祈りの宝庫であります。
旧約の時代に生きた神の民は、苦難の中でなお祈り、賛美し、喜びをもって神を讃えています。
ましてや新約の時代に生きる私たちです。十字架にかけられてまでも私たち人間を愛しとおしてくださるイエス・キリストにあって「いつも喜んでいなさい、それこそ神があなたに望んでいることだ」と聖書は語るのです。
次の「絶えず祈りなさい」ということについてですが。
私たちが祈るときというのは何か問題が起こったときとか。願いごとがある場合は祈ります。けれどもこの「絶えず」というのは、途切れずに祈りなさいということなんです。
順調なときは祈りを忘れることがないでしょうか。絶え間ない祈り、不断の祈り、日常生活の3度3度の食事をするように日毎に祈り続ける。そこに日々の生活、日常の中に主の霊、主の臨在を身近に感じ取っていくことができるでしょう。
そしてさらに、この「祈りなさい」は、原意から、互いのために祈る、執り成しの祈りを示します。
それは心地よい人間関係の間、仲間内で祈ることに留まらず、愛せないような人、忘れられているような人、あるいは社会全体のためにも執り成し祈る。
人間的な思いや感情では祈れなくても、十字架で血を流し、体を裂いて私たちの罪を贖い、神さまとの関係を回復してくださった主イエスの御名によって、互いのため、執り成し祈るように私たちは招かれているんですね。
最後に、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めについてですが。
この「どんなことにも」というのは、私が遭遇する具体的な出来事を意味します。
主は今、私に起きている事。具体的な今のことを、感謝しなさい、と言うのです。
「感謝しなさい」と言われても。感謝できないような出来事を前にしたら、どうして感謝できるのかと思われるでしょう。
それも先の「いつも喜んでいなさい」ということと同様。イエス・キリストにあって「どんなことにも感謝しなさい。それこそ神が望んでおられることです」というんですね。
神の愛と救い、イエス・キリストによる恵みを魂いっぱいに受け取る時、本物の解放と平安が与えられるでしょう。
今年の2018年は、さらにこのイエス・キリストにあって「喜び・祈り・感謝して、今を生きる」ものでありたいと願います。なぜなら、「これこそ、神が私たち一人ひとりに望んでおられること」だからです。
祈ります。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(テサロにケ一5章23節)
主なる神さま。今日は2018年の最初の元旦を、このようにまず主に礼拝を捧げることから新しい年をスタートすることができました。本当に感謝であります。ここに集うことが許されたお一人お一人、そしてご家族のうえに神さまからの祝福と平安が、この1年豊かに臨みますように、お祈り申しあげます。
また、今ご家族のもとに帰省されているお一人おひとりに祝福を。そして、今病気、療養中の方々のうえに、御手が触れてくださり、いやしと平安が与えられますよう、切にお祈り申しあげます。
すべてのことに感謝して、救い主イエス・キリストの御名をよってお祈り致します