礼拝宣教 マルコ3章1-6節
先週は教会の総会資料の作成の際に、去年の出来事をふり返りながら特に気付かされましたのは、特に新来者の方が続けて礼拝にご出席なさっておられるということでした。主イエスの救いと出会われますようどうぞお祈りください。また、国内はもとより近隣のアジア諸国から学びやお仕事のために大阪に住んでおられる青年の方々が一緒に礼拝に与れているのは本当にうれしく、ゆたかなことです。
先日2件のお電話があり、その内容が共通していたのが驚きでした。それは、ミャンマーから日本に来られている方に関するお電話だったのです。大阪教会のブログを御覧になって「ミャンマーの人も一緒に礼拝を捧げている」ということを知って電話をしたということでした。私たちがどこへ行っても主は私たちを独りぼっちにはさせない。孤立させない。そういう素晴らしい恵みを覚え、心が熱くなり、うれしくされました。
さて、本日は「主イエスが大切にされる命」と題してマルコ3章1-6節より、御言葉を聞いていきたいと思います。
ここは前の頁の「安息日に麦の穂を摘む」という箇所と同じく、安息日に起こった出来事であります。ユダヤの1日は日没から始まります。私たちは夜が明けてから1日が始ると考えますが、そこがユダヤ教の人たちとちょっと違うんですね。それは聖書の神さまが天地創造のお働きをなさって6日目の夕べに「すべて良い」とされ、安息なさったということで、週の6日目の金曜日、日が沈んでから土曜日のまた日没までの時間を、神の前に聖別し、安息の日として労働も家事も休むのです。
その安息日に土曜日の朝頃でしょうか?イエスの弟子たちが空腹のため、歩きながら麦の穂を摘んで食べているのを知ったファリサイ派の人たちは、「安息日に麦の穂を摘む行為は、律法が禁じている。それは労働じゃないか」と、イエスさまを問いただしたというのですね。
それに対してイエスさまは、ダビデ王さまと、その家臣らが空腹であった時のことを引き合いに出され、「祭司以外だれも食べてはならい供えのパンをダビデ王も食べ、ともの者にも与えたではないか」とおっしゃいます。
そうしてイエスさまは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、ファリサイ派の人々をいさめられた。そういうことがあって今日のこの場面にもちこされるかたちで、この出来事が記されているのです。
まずイエスさまが会堂に入られると、片手の萎えた人が会堂の隅にいました。そこにいた人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた、と記されています。「訴えようと思って」とはただならぬ状況であります。
ルカの福音書にはそれが律法学者たちやファリサイ派の人々であったと記されています。おそらくこの律法学者たちは先週読みました「中風の人をいやされたイエスさまの言動」に対して不満をもっていたのでしょう。又その後の、イエスさまが徴税人のレビの家で、罪人といわれる人たちと一緒に食事をされた事に対する嫌悪感や、さらに先のイエスの弟子が安息日に麦の穂を摘んで食べたことに対するやりとりなどで、まあそういう強い不満が溜まっていたのではないかと思われます。そういう中で、彼らは自分たちの不満をはらすべく、この片手の萎えた病の人を、イエスを訴えるための手段としたのです。
その人々の罠に対してイエスさまは逃げることはなさいません。むしろ毅然として片手の萎えた人を人々の真ん中に立たせられます。
もしかしたら、この人は人々から邪魔扱いされ隅に追いやられてきたのかも知れません。彼は周囲の目を気にしながら会堂の片隅に小さくなっているほかなかったようにも読取れます。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、彼を一人の人間というより、イエスさまを訴えるためのただの道具としか考えていませんでした。
しかしイエスさまは、その片手の萎えた人を人々の真ん中に立たせられて、彼も又、神の前にひとりの命ある人間であると、その人のいわば尊厳をお示しになられたのだと思うんですね。
そして、イエスさまは周囲にいた人々にこう言われます。
「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」。
このようにイエスさまがおっしゃったのには、安息日の律法の精神を明らかにするためでした。安息日の律法の精神。
そもそも安息日とは、先にお話しましたように、天地創造のお働きを終えられた神さま
が安息なさった事から、その日を聖なる日として聖別し、安息の日として覚えるのです。
出エジプト記20章の十戒の中には「安息日を心に留め、これを聖別(特別なものとして取り分けるの意味)せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあります。
ですからこの安息日の本質は、すべての造り主なる神、救いと解放をお与え下さった神に感謝を捧げ、その真の安息にすべての人々、家畜までもが与っていくために定められたものなのです。それは神の御前に特別に取り分けられた日であるということです。
そこに聖書が語る安息日についての律法の精神があるのです。
ところが紀元1世紀頃になるとこの安息日に、してはならない仕事や労働についての規定が事細かに決められていきます。安息日に麦の穂を摘む行為も労働、仕事として禁じられ、さらには、安息日に生命の危機が及ばないような医療行為や治療をすることも労働、仕事にあたるということで禁じられてしまうのです。
それは神の前により正しく生きていこうする熱意であったり、どこまで、どんな形で守ればよいのかを議論やトラブルを防ぐため明確にする必要があったのでしょうが。しかしそういった安息日の禁止項目が文字として事細かに規定されていきますと、ただ安息日の規定を守れば正しいんだ、守りさえすればいいんだというおごった考えにだんだんと陥ってしまい、先程申しました安息日のそもそもの精神が見失われてしまう事も起こっていったのでしょう。そうしてその安息日に禁止された規定や規約を文字通り守れる人は正しく、逆に守らない、守れない人は悪人と見なし、選別化されていくのです。
イエスさまはこの後7章で、食事の前に手を洗わなかった弟子のことでファリサイ派と律法学者たちに指摘された時、預言者イザヤの言葉を引用して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしを崇めている」と言われ、「あなたたちは神の掟を棄てて人間の言い伝えを固く守っている。神の言葉を無にしている」と、彼らにズバリと指摘なさるのであります。
今日のところで、ファリサイ派の人々はこの片手の萎えた人への関心など、実のところみじんもなく、ただイエスがこの人をどう扱うか。安息日規定をどうするか。そんなことばかりを考えていました。
確かにこの手の萎えた人の状況は、即命に関わるものではないと表面上見えます。しかし実際その彼の存在は物のように人々に見なされ、交わりから断たれ、見殺しにされていたような状態であった。実は命の危機に関わるものであったのです。その極めて冷酷な事態をイエスさまは敏感に見通しておられたのですね。
そういった事態が事もあろうに「安息日の聖なる日」に、しかも「神を礼拝する会堂」で行なわれていた。実はそこにイエスさまが「怒って人々を見回し、そのかたくなな心を悲しまれた」理由があったのです。
イエスさまはここで「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」と人々に問われましたが。並行記事のマタイ12章では、「安息日に良いことをするのは許されている」と大変明瞭におっしゃっています。安息日は神の前で「善を行って生きる」。又「命の救いの原点を思い起こし、その命の救いの恵みを分かち合っていく」。そういう日であります。
規定や規則はそうした安息日の精神を活かすためにあるに過ぎないという事を、イエスさまはお示しになられたんですね。これこそが、前の27節でイエスさまが言われる「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」ということの意味なのです。
イエスさまはその人をおいやしになりました。それは人の決め事に反していたかも知れません。しかしそれは、安息日が大事にしている本物の安息と解放を与えるものでした。
私はそのことを思う時、使徒パウロがコリント第二3章6節で述べている「文字は殺しますが、霊は生かします」という言葉を思い起こしました。
主イエスはまず彼を会堂の片隅から真ん中に立たせるということからはじめられます。その人が神に忘れられていないことを思い起こさせるために。人々の間でその人の尊厳が回復されるために主イエスは彼を人々の真ん中に立たせるのです。
そしてイエスさまはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われます。
私も左の肩がこの頃年齢のせいか思うように動かせなくて、少し無理して伸ばしたり、ちょっとひねったりするとズキンと痛みが走るようになってきていて、それを少しは動かした方がいいと分かっていても、痛みもあってなかなか動かすにも勇気がいります。比べようもありまえんが、多分この人にとってこれまでずっと萎えていた手を伸ばすということは考えてもいなかったことでしょうし、大変恐く、不安もあったのではないでしょうか。ましてや人々の冷たい視線の中でどんなにか勇気のいることだったんではないかと思います。
それでも彼はイエスさまの、「手を伸ばしなさい」とのお声に、そのとおり応えて伸ばしたのです。すると、「手は元どおりになった」。
それは単なるいやしではありません。肉体のいやしにとどまらない。全人的な命の回復、それは「安息」です。
イエスさまは、本来人のためにある安息日の本質をこのように表されました。
それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちのこだわる、世の言い伝えや知識、人の決め事による権威とは全く異なるものです。
イエスさまの権威には神の真理に基づく自由があり、あらゆる囚われからの解放といやしをもたらすものなのです。
今日の箇所で、イエスさまは会堂にいた、かたくなな人々にも、立ち返ってその自由と解放を受け取っていくようにと招いておられたのに違いありません。しかし非常に残念なことに彼らの心はさらにかたくなになって、ヘロデ派の人々(当時の政治的勢力の一団)と結託してまでイエスさまを殺そうと相談し始めます。イエスさまの「命を救うことか、殺すことか」との問いと招きに対して、この安息日に「命を殺すこと」を決意するのです。人の罪の深さがここに露呈されるわけでありますが。
今日は、神がお与え下さった安息日の真の意味を聖書から聞いてきました。
今や私たちは主イエスの尊い贖いの血が流された、その十字架の苦難と死によって、罪の赦しと、神の御前における命の回復というこのうえない「安息」に与っています。
私たちはこの礼拝において、主イエスがその命をもって回復してくださった安息を様々な人たちと分かち合っています。この素晴らしい安息によって私たちも又、すべての人の解放の日、真の平安のもたらされる日につながってゆけますように、心から願うものです。
今日もこの安息のもとからそれぞれの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。