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福音を共に生きる

2018-01-14 17:29:22 | メッセージ

礼拝宣教 マルコによる福音書2章1節ー12節 

 

新年を迎えてもう二週間が経ちますが一日一日がとても早く感じます。

私はなぜか今年はお正月気分がほとんどありませんでした。歳のせいかも知れませんが。次々と起こる災害や被災地のことがどこか心にあるからでしょうか。今年も1月17日、23年目となる阪神淡路大震災の日がめぐってまいります。今も言葉に言い表わすことができない思いを抱えておられる方々に、祈りを寄せつつ主の御前でしばし黙祷しましょう。

先週は寒い日が続き、体調を崩された方もおられるようで、快復をお祈りいたします。

水曜日の夕方の祈祷会に冷たい雨の中来られた方が、祈祷会の帰りに「今日はほんとうに来れて良かったです」と、来られた時は重たい表情でしたが、帰りにはとっても素敵な笑顔になられていたのが印象的だったのですが。

聖書をきちんと学ぼうと自分で努力をされていたようですが、それがしんどくなられたということで、礼拝に集うのも重たくなっていき、それでも何とかその日の夕べの祈祷会に足を運ばれたということでした。

そうして共に聖書を読み、祈り合っていく中で、聖霊がお働きくださったんですね。重たかった思いが解放されいかれたようです。

 

一つ思いましたのは、一人で聖書を読み黙想し祈りの時を持つことは大事ですけれども、

イエスさまがおっしゃった通り、23人が主イエスの御名によって集まるところに、主が共にいて下さるんですね。特に教会は常に祈りが捧げられている場でありますから、なおさらのことです。礼拝を捧げ、聖書を読み、祈り合っている場に、身をおいていくことをとおして、魂に霊の息吹が吹きかけられ、平安といやしに浸るということが確かに起こっていることを幾度も知らされるものであります。

「ああ今日は教会にいきたくない。体が重たい、しんどい」という時もあります。又、「天気が悪いので行きたくない」と思う時もあるかも知れません。しかし、そういうときにこそ、礼拝や祈祷会に足を運んでみると、教会を出るとき、「ああ今日は来てよかった!元気を頂いた」という体験をなさった方が、ここに多くおられるのではないでしょうか。私のために祈ってくださる姉妹兄弟がいる。祈ってください、祈っています、という関係の中に、主の御言葉によってとりなし合い、ゆるし合い、仕え合う私たちの間に天の国は開かれているんですね。それが、共に礼拝し、共に祈るところに主の霊、ご聖霊がゆたかにお働きになっておられる証でありましょう。

 

さて、今日の聖書はそういう事とも関係のある記事であります。

それは「あなたは誰と、どのように、具体的に主イエスの福音を共にしていますか」という問いかけであります。

そのことを示すために、聖書は2つのグループを対比させています。1つのグループは「中風の人を運んでイエスさまのところに連れて来る4人の人たち」。もう1つのグループは、当時のエリートである律法学者たちです。

 

当時ユダヤでは、体に障害をもつ人や心の病をもつ人は、何かその人に罪があるからそのようになったのだという社会通念がありました。まあいわゆる因果応報律が幅を利かせていたのです。

この中風の人は、そういった社会通念によって、自分や親、先祖に何か諸々の罪があったのか?それだからこうなったのか?という責めを人々からも、何より自分自身の中にもって苦しみ悩み続けてきたのではないでしょうか。そんな中イエスさまの噂を耳にしたのでしょう。

人を分け隔てせず、神の愛と人を活かす教えと共にいやしをなさるお方だと。その方に私も何とかお会いしたい。そういう願いをもったのだと思います。けれど、身体も一人で動かすこともできない。

諸々の罪のゆえに病んでいると言われる自分のような者に、イエスさまは会ってくださるのだろうか、というような引け目をこの人は感じていたのではないかと想像します。身も魂も解放されたいという切なる思いをイエスさまに寄せながら、自分一人では動けない、踏み出せない。そういう中、しかし幸いだったのは、彼には心強い信仰の友がいたのです。彼の周囲には彼のことを普段から気にかけ日々祈りに覚え、彼のために神にとりなしていた人たちがいたのです。この4人の人たちもそうでした。彼らはイエスさまのもとに彼を運んで連れてくるのです。

 

多くの人びともまたイエスに会うために押し寄せていました。家の中と外はいっぱいに埋められた人びとによって、身動きもとれない状況でした。

とても担架に乗せたまま入れそうにありません。この4人は考えに考え抜き、最終的にとった方法は、屋根をはがして、彼の寝ている担架をイエスさまのところに吊り降ろすことでした。

 

パレスチナ・ガリラヤ地方の家の屋根は、梁に小枝をかぶせその上に泥を塗って造られていたので、比較的簡単にはがすことができたようです。屋根にも登れる階段があったようですね。

この4人は何とか中風のこの人の思いを叶えてあげたいという一心で、それを実行するんですね。それは実に突拍子もなく、無鉄砲ともいえるような仕方であります。けれども、彼らは一人の魂が救われるために、そこまでやるんですね。それはやはり、イエスさまの御前にこの人を連れて行きさえすれば、何かしてくださるに違いないという強い期待、確信をもっていたからだと思うんですね。そのイエスさまへの信仰のゆえに、彼らは屋根をはがす労苦やその代償をもいとわず、批判も恐れず、そうしたのではないでしょうか。

そこには、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」との旧約聖書の神の教えを生きる、彼らの証が現れているように私は思います。それはとても具体的で、他者の痛みや苦しみを自分のことのように思いやる彼らであったということです。彼らは主なる神さまの愛と慈しみを知って生きていたから、そのようにできたのではないでしょうか。

さて、そうして4人の男が中風の人をイエスさまのもとに吊り降ろした時に、イエスさまは「その人たち(それはこの中風の人と4人)の信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたということであります。

 

その人たちの信仰を見て。それは中風の人を中心にとういうか、媒介として彼らの間に起こされた信仰です。病のいやしを共に祈り、こうして主イエスのもとに共にやって来た。その彼らの信仰を、主は御覧になって「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃったということであります。

しかしこの「赦される」という訳は不十分です。原語に正確に訳せばここは、「あなたの罪は赦されている」とイエスさまは言われているのです。

「罪が赦される」というのと「罪が赦されている」というのとは随分ニュアンスが違ってきます。赦されるは「今から赦されますよ」というふうに聞こえますが、「赦されている」というのなら、「もうすでに赦されていますよ」という宣言に聞こえます。それはたとえば、お医者さんにかかって「あなたは治りますよ」と言われているのと、「あなたはもぅ治っていますよ」と言われるのとは全く違います。

イエスさまは彼らの間に働く信仰、祈り、とりなしと共に、神に向かうその信仰を御覧になって、「あなたの罪は赦されている」と宣言なさっているのですね。

 

さて、イエスさまが中風の人にこの「罪の赦し」を宣言すると、そこに座っていた律法学者たちが動揺し始めました。

彼らの心には、イエスのこの言葉は神を冒涜するものと映ったのです。罪を赦すことが出来るのは「神」しかいないというのが、律法学者たちの考えです。それは確かにそうでしょう。けれどイエスさまはご自分が赦すと言われたのではなく、唯「神は赦されている」とおっしゃったのです。とにかく残念なことに、律法学者たちは本当に大切なことを見失っていたんですね。それは先程申しましたように、この中風の人が、これまでこのようになったのは罪のせいではないのか。神は赦しては下さらないのか、と苦しみ悩み続け、周りに対しても肩身の狭い思いをせざるを得なかった。その事が律法学者たちには見えていなかったということです。

又、彼を担いできた4人の、「何とか彼を救いたい」という切なる思いをも知ることができなかったということです。

この律法学者たちは律法について豊富な知識をもち、それをよく知っていました。

正論は語ります。でも神さまの愛と憐れみ。そして「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃる神の律法の本質に生きているかどうかが、問われることになるのです。

大切なのは、神の慈愛をどこで、だれと、共にあずかっていくのかということであります。それは裁きではなく恵みの共有であります。

 

4人の男が中風の人を担架に載せてイエスさまのもとへ何とかして連れていこうとする。それもその具体的な行動でした。

私たちは年齢や体力や、そのおかれている状況も様々ですから、だれもが担架に乗せて

運んで来れる体力をもっている訳ではありません。おそらく今日の箇所の場面には、4人の彼らの他に、イエスさまの居場所を調べたり知らせたりした人、家で担架を準備したり、ひたすら祈って帰りを待っていた人たちがいたでしょう。そのように私たちも、

福音に生かされている者として、福音を共に生きるゆたかさを、私にできる具体的な何かで分かち合えるとよいと思います。

たとえば、お誕生日のカードを書いて送られる方もいらっしゃいます。毎日教会のお一人おひとりの名前をあげて主に執り成し祈っておられる方も、礼拝の奉仕や教会の役員を担っておられる方も、食事を作ってくださっている方もおられます。病気の人を訪ねて下さる方もおられます。中には「私は何もできなくて申し訳ないです」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、礼拝に集われること、祈祷会や夕礼拝に集われることもまた、福音を共に生きる具体的な証であると思います。

又、それは教会の中だけに限ったことではなく、家族や友人、近隣の方、出会った方との関係の中で、福音を共に生きる幸いへと、主は私たちを日々招いておられます。

 

さて、最後にイエスさまは律法学者たちにこのような質問をなさいます。

「中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。」みなさんはどのように思われるでしょうか。

 

4人の男と中風の人がイエスさまの御前に来た理由は、身体のいやしのためでした。

つまり「起きて床を担いで歩く」という目に見えるいやしであったのです。

にも拘わらずイエスさまは、罪の赦しを宣言なさいます。なぜならイエスさまはその人にとって最も回復されるべきもの、それが何かを見抜いておられたからです。

 

人の存在にとって最も重要な問題。それは人としての尊厳です。その人の存在そのものが大事にされる、ということですね。それは神から造られ、神の霊の息吹を吹き込まれ生きるに価する者とされている。そうして自分自身も、又人からもかけがえのない大切な存在、一人の人として認められている。

イエスさまは、今日の箇所で「あなたの罪は赦されている」という事と「起きて床を担いで歩け」という事を両方、示されますが。この中風の人にとって先行するべき救いは、神との和解であり、その人の尊厳が取り戻される事でした。そこからしか真のいやしはあり得なかったからです。

 

私たちはこの地上を生きていますと、こうして週に一度でも共に神に立ち返る日を作らなければ、食べること、労働など生活に追われ、自分が神に造られ、生かされている霊的な存在であるという、その魂の生き死にについてはあまり考えることはありません。

生活も身体の病や心の病が癒やされることも大事ですが。何より大切なのは、命の根源である人が人であることの尊厳が取り戻されること。それは神さまとの関係の回復と、かけがえのない存在とされていることを喜べること。それこそが聖書が語る福音なのです。

イエスさまは、罪の赦しの宣言をお与え下さるために来られました。それは十字架の苦難と死をとおして成し遂げられた神の権威による福音です。

 

今日の箇所の終わりにこう記されています。

「『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」

 

この「福音を共に生きる」私たちとされて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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