新年礼拝宣教 マルコによる福音書1・1-15
新年を迎えて7日が経ちました。みなさまの中にはお正月に今年の目標やビジョンを掲げて祈ったという方もいらっしゃるでしょう。
さて、1月から3月のイースターまで、礼拝ではマルコによる福音書から御言葉を少々丁寧に読んで御言葉に聞いていきます。
このマルコ福音書の記者マルコについては諸説ありますが。その一説として、このマルという人物は使徒パウロと共に伝道旅行に同行し、途中何があったわかりませんけれど、心疲れ帰ってしまう(使徒行伝13章)のですが。まあそれから再度働き人として立ち上がり、パウロの殉教後はローマでこの福音書を書いたとも言われています。そこでマルコはどんな点でイエスが救い主メシアで神の子であるのかをこの福音書に書き記したのでした。
12月のクリスマス礼拝とキャンドルライトサービスで読みましたルカ福音書とマタイ福音書には神の御子イエス・キリストの生誕物語があったのですが、このマルコ福音書にはその記事はありません。
ただ、最初の1章1節の表題に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き記されています。この「はじめ」とは原語でアルケー、その原意は、起源、開始、出発点、基礎という意味の言葉だそうです。
ここには、イエス・キリストが神の子であり、旧約聖書が預言したメシア(王、救世主)の福音(よき知らせ)は、このお方、神の子イエス・キリストを起源とし、このキリストから湧き出ものであることがここで言い表わされているんですね。
福音といえばみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。お正月だったら「福袋」「福餅でしょうかね。まあとにかく「福」となるような幸いなものとかでしょうか。
お正月JRのホームで、紫色のうなぎのような新幹線が留まっていて人だかりが出来ており驚いたのですが。なんでもアニメのエバンゲリオンというのをモチーフにして造られた新幹線だそうで、直接関係があるか知りませんが。
この福音(よき知らせ)という原語:正しくはギリシャ語のユーアンゲリオンは、1世紀のローマ帝国の時代、新しい王が即位し新しい国のはじまりを告げられる時にも使用された用語であったそうです。
つまりこの世の皇帝の即位と統治を福音といったのですね。
しかしマルコは、その本物の福音(よき知らせ)とは、神の子イエス・キリストによる統治、神の国のはじまりを告げるものだ、と明言いたします。
このことは、まあ当時はローマの支配と権力が圧倒的であったわけですから、衝撃的なことだったでしょう。
マルコは、まず旧約のイザヤやマラキといった預言者の言葉を引用しながら、主が御自分に先立つ使いを遣わされると語ります。マルコはそれがバプテスマのヨハネであると伝えます。
彼は、荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。この荒れ野とは、草木も生き物もいない砂漠ではなくて、放置された、ほったらかしになった荒れ地や荒れ放題の牧草地だったようです。
マタイ9章でイエスさまが、「ガリラヤの町や村を回われたとき、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれいるのを見て、深く憐れまれた」とありますが。飼い主のいない、野放しにされたままの羊のように神の祝福と恵みが届かない人々がいる荒れ地。
文明科学がどんなに進み、物質的に物がいくらあったとしても、そういった人々の荒れ地、荒れ野が私たちの社会のいたるところにございます。そういう意味で、私たち先に主の救いに与った者は、その喜びの知らせを伝えていくことが主に期待されているわけでありますが。
さて、そのような地に現れたのがバプテスマのヨハネでした。
多くの人々が彼に共鳴し、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていたというのです。
それ程多くの人々がどうしてそんなにもヨハネに共鳴したのでしょうか。
それはヨハネが人々に施した「悔い改めのバプテスマ」にありました。
悔い改めは原語でメタノイア、単に悔いるということだけでなく、悔いたその上で神に立ち返る、ということを表します。単なる後悔ではないのです。罪を告白した後に神に向き直って生きる。そしてそれにふさわしい実りのある生き方をなす。それがメタノイア、悔い改めです。
そのヨハネが授けたバプテスマですが。まあこれも諸説あるようですが、有力なのは、彼が神の終末的な最後の裁きへの備えとして、自分の罪を告白して、象徴的に水で体を清める(バプテスマですね)という儀式を行なっていたということのようです。
そういうヨハネのバプテスマが、先程人間の荒れ野ということを申しましたが。
いわゆる見た目問題もなく日々を過ごしていたような一般のユダヤの人々や都エルサレムの住民たちの魂に強く訴えかけるものであったということですね。
むろんエルサレムには神殿もシナゴーグもあったわけですが。日本人が正月になればとりあえず神社に行っておみくじを引くような宗教儀礼になっていたのかも知れませんし、律法や戒律もその本質が損なわれ、人を活かすものではなかったのか。その魂の飢え渇きが人々を荒れ野にいたヨハネのもとへ向かわせたのかも知れません。
このヨハネのバプテスマによって、人々は魂のうちから揺さぶられ、悔い改めの思いを起こされる体験をし、それにふさわしい実を結んでいこうとする、そのような大きな覚醒運動(ムーブメント)となっていったようであります。
しかしヨハネはそうした大衆の心理をつかんで有名になる世のヒーローには決してならなかったのです。なぜなら「主の道を整え、準備させる」という自分の役割を自覚していたからです。
マルコは、このバプテスマのヨハネの言葉をこう伝えます。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」(7s)
ヨハネは何て謙遜なんでしょうかね。しかしそれは、彼が自分の後から来るお方の存在を知っていたからではないでしょうか。
ここで重要なのは、ヨハネが「自分は水で悔い改めのバプテスマを授けるが、このお方は、聖霊でバプテスマをお授けになる」と言っていることです。
悔い改めは、神の子、メシアが来られるための準備、道備えにはなりますが、それは神の子、メシアによるよき知らせ、福音とは違うものなのです。それはよくよく考えてみますと、自分が悔い改めて神に向き直って生きていこうとする、人間の側からの意志や決意です。それだと、たとえが悪いかも知れませんが、滝に打たれて心を入れ替えて生きていこうみたいな考えと近いのかも知れません。ともかく人の側からの行為であることには違いありません。
一方、神の子イエスさまの聖霊のバプテスマは、人間の決意や行為によるものでは一切ありません。それは神さまからの一方的な大いなる愛の贈り物なのです。
12月にバプテスマを受けられたNさん。バプテスマを受けたばかりの時はお感じにならなかったかも知れませんが。その後は御自分が主イエスの福音に与ることができたことは、自分の決意や行為によってではなく、唯、聖霊のお導き以外ないということを今ひしひしと実感なさって主への感謝を送っておられます。
私たちは何か自分で修行のような事をした、徳を積んだ、あるいは儀式を行なったから救われるのではありません。それは福音ではございません。唯、神の子イエス・キリストの御血汐によって罪赦される中で、神に受け入れられて生かされているのです。日々お働きくださるご聖霊がそのことを証明してくださっています。
さて、マルコはイエスさまがヨハネからバプテスマを受けられた時の事をこう記します。
「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(10-11s)
罪のないお方がわざわざなんでヨハネからバプテスマを受ける必要があったでしょうか。けれどもそれこそが、神の子であるお方が、徹頭徹尾低みにへりくだり、人間のお姿となってくださったことの表われです。それは又、罪のないイエスさまが人間の罪の身代わりとなって十字架におかかりになったこととも重なります。
さらにここで大事なのは、イエスさまにご聖霊が降り、留まられたという事であります。
そして、イエスさまは父なる神さまによって「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神の子として認証されるのです。
イエスさまの神の子、メシアとしてのそこからのご生涯は、すべてこの神の霊の先立ちと導きによってなされていくのであります。
聖書はその後、この「神の霊」がイエスさまを荒れ野へ送り出したと記しています。
送り出したという原語エックバローは「追いやった」というもっと強い意味をもちます。荒れ野へイエスさまを霊が追いやったのです。
この荒れ野は、先程申しましたように荒れ放題、殺伐とした処であり、野獣もいたのですが、それは主イエスに危害を加えることはありません。又、そこに天使たちが仕えていたとあるように、その荒れ野は神の支配と守りがあるのです。
マタイ福音書の荒れ野の試みの場面ではイエスさまがサタンの誘惑にすべて勝利なさったようになっていますが。このマルコの場合はその霊的闘いがそこで終るということは何も記されていません。その荒れ野の試みのような状況は、イエスさまがガリラヤの地から福音伝道に出かけられてからも変わることなく、イエスさまの十字架にいたるまでずっと続いていくのであります。
これは、現在私たち主の御救いに与っている者にとりましても同様ではないでしょうか。この地上の生活は私たちとってある意味、荒れ野の旅路ということができるでしょう。
喜び楽しみも束の間。悲しみや苦しみ惑わしの中で、激しい葛藤や闘い、深い苦悩や孤独感、不安や恐れも経験いたします。
けれど主イエスがお受けになったように、私たちが受ける数多くの苦しみの時も又、すべて神の前での鍛錬、訓練の過程であります。苦しみの長いトンネルにも必ず出口はあります。この荒れ野を支配するのはサタンではありません。主イエス・キリストにあって神の霊とともに私たちはおかれているということを忘れてはならないのです。
さて、マルコは、バプテスマのヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたと記します。
イエスさまはガリラヤから福音宣教を開始されます。それはエルサエムから見れば片田舎のガリラヤ、「ガリラヤから何のよいものがでようか」と見下されていた地です。
そういった神の国から遠いと思われている辺境の地に住む人たちのもとに、「時は満ち、神の国は近づいた。人の側から近づくのではなく、神の国の方から近づいて来た。だから悔い改めて福音を信じなさい」と説かれたのです。
それは始めに申しました、神の子イエス・キリストから湧き出 福音です。旧約のゼカリヤ書4章6節にあるとおり、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」もたらされた福音です。
神の子イエスは、人間のお姿となりへりくだってバプテスマを受けられました。あの海抜のもっとも低いヨルダン川の底の底の低みにまで降られた。そうして神の子の霊をお受けになったお方であります。その霊に導かれるままに従いとおされ、最期には私たちの罪を背負い十字架にかかられるという死の低みにまで降られた主。
処刑の指揮をとっていたローマの百人隊長はそのイエスの最期を見てこう言いました。「本当に、この人は神の子だった。」
私たちは今日からマルコ福音書を3ヶ月に亘って読んでいきますが。このように低みに降られた「主イエス・キリストから湧き出でる福音」を味わい、それを体験していく者とされていきたいと願います。
イエス・キリストが福音をどこで、だれと、どのように分かち合われたのかを読みとっていく。そのことを大事にしながら、今も変わることなくお働きになっておられる聖霊によって、私たちの日常の中に神の一方的な恵み、福音の力を体験するものとならせて頂きたいと切に願います。今年も私たちの主イエス・キリストから湧き出るゆたかな福音の力、そして聖霊のお働きに全身全霊(バプテスマ)浸されながら、あゆんでまいりたいと心からお祈りいたします。今日もここから遣わされてまいりましょう。