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主イエスの眼差し

2018-03-04 13:12:06 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ12・35-44 受難節(レント)

 

先日は息子の卒業式でした。彼の通っていた学校は心身に様々な症状を抱えた人、いわゆるハンディを負った人が多かったり、又、それぞれの事情から学校に行けずに小・中学校を引きこもって過したり、逆にやんちゃで手におえない学生も、配慮をもって受け入れるそんな学校です。

私は卒業式には行けませんでしたが。母親が行って来てこのような感想を聞かせてくれました。

卒業式でまず最初に出て来た人が、いきなり「よくぶつかりました。ケンカもした、けどこの3年間でほんとうに成長しました」と泣き出したそうです。すると「がんばれー」「まだ泣くのは早いよ」と学生席から声援が飛んでから、父母席から徐々に笑いが広がったらしくて。

それはその口火を切った人が学生ではなく、若い男の先生だったことがわかったからということで。はじめは学生代表なのかと思っていたのでほのぼのして思わず笑ったそうですが。

その後、卒業生の一人が、「先生はボクがどんな話をしても聞いてくれた。むちゃをした時も見捨てないで受けとめてくれた」というようなことを言ったのを聞いて、ほんとうによい信頼関係が築かれていく中で子どもの成長があったんだなあと、知ったそうです。そして最後に卒業生代表の中の一人の女の子がこういったそうです。「私は入学する時、自分はこんなんでいいのかなと心配ばかりでした。クラスでも仲良くできるか、まわりに合わせられるか、不安ばかりでした。けれど通い続けるうちに私は私でいいんだと思えるようになりました。今はほんとうにそう思います」。

その言葉にジーンときていると、式場のあちこちでも涙をぬぐう人の姿があったそうです。「それぞれ何らかの生きづらさをかかえて来た子たちばかりだから、その言葉は生きてた、重みがあった」。「あの子が『自分は自分でいいんだ』と思えたことは、あの子の命が救われたのに等しいと思った」と、卒業式から帰って来てそんな話をしてくれました。

 

本日は、マルコ12章35節~44節より「主イエスの眼差し」と題し、御言葉に聞いていきます。

先週はイエスさまのエルサレム入場までの個所でしたが。

その後、イエスさまはエルサレムの神殿で商売をして貧しい者たちからお金をだまし取っていた両替屋や商人たちを追い出して、神殿は神の家であり、すべての人に祈りの家と呼ばれるべきところであることをお示しになります。いわゆる宮清めですね。それから弟子たちには、祈りについて教えられ、律法学者たちとは権威の問答や死者の復活に関する問答などをなさいます。そして今日のこの個所の前では、一人の律法学者の「最も重要な掟とは何か」という質問に対するやりとりが記されていますが。

イエスさまは、第一に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと、第二に「隣人を自分のように愛しなさい」と言われ、この二つに勝る掟はほかにないと明確にお答えになります。この二つの最も重要な教えを心にとめつつ本日の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 

まず、今日のはじめの35節~37節をお読みになった方の中には、これはどういうことを言っているのかという方もおられると思いますので、少し説明をしますと。

ユダヤの律法学者たちは「メシア・自分たちを救ってくださるお方は、かつてのイスラエル建国の父ともいえるダビデ王の子孫」ということを主張してきました。そこには、王にふさわしい権力、政治的指導力を受け継ぐ人物が救世主、メシアとして到来するという彼らのメシア像というものがあったのです。それをご存じであるイエスさまは、詩編110編のダビデの詩を引用されて、ダビデ自身が聖霊を受け、メシアを自分の子孫などとは言わず、「わたしの主」と呼んでいる。つまりメシアは王の血統によるのではないということをおっしゃるのです。

ダビデはイスラエルの王として政治的な権力をもっていた王でしたが、主メシア、つまりキリストは、天的な王、全世界をすべおさめられるお方であるということであります。

 

このイエスさまの教えに、エルサレムの民衆は喜んで耳を傾けたというのでありますが、

その一方で、このイエスさまの権威ある教えや言動に対して反感と妬みをもっていたのが、ユダヤの熱心なファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

彼らの中には、ダビデの子孫に象徴されるような権力、世の権威に対するあこがれが高じて、それに執着し依存していった人たちがいたのです。

しかし、メシアは彼らが求めるダビデのような政治的な指導者、この地上の権力や武力でもってユダヤの民を解放し、救われるお方ではないということです。先週、主イエスが仕えられるためでなく、仕えるためにおいでになった、ということお話しましたとおり、救い主であられるイエスさまは、律法学者たちが理想としていたメシア像とは根底から異なっていたのです。

では、主、メシアとはどういうあり方で解放と救いを実現なさるのか。そのことについては、これまで三度もイエスさまが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」とご自身について予告されてきたとおりです。

主イエスはこの地上の権力によっては真の解放や救いにならないことをご存じでした。

今シリアでは凄まじい空爆が政権側の勢力によって繰り返され多くの市民の命が奪われているようで心が痛みますが。昨今の世界情勢の中で繰り返されていますように、軍事力や武力行使は真の解決にはならず、むしろ新たな戦争の火種、憎しみや争いの連鎖を生み出すばかりであるという悲惨な現実を、私たちも知らされるわけであります。

 

イエスさまはそういう世の権力や武力によるのではなく、神の愛と救い、すなわち「神の国」の福音を宣べ伝え、体現なさるのです。そうして、十字架の受難と死をもって、すべての人間のもつ罪を自ら背負い、十字架に磔となり、その死なれたのです。

そこにあるのは、人の力のおごりとは真逆の、自分を与え尽くすお姿です。この愛を知ることによってしか私たち人間は本当の意味で救われない。この父の神のご計画に、イエスさまは従われ、その身をゆだねられて、自らを十字架に引き渡されたのです。あの十字架の処刑の壮絶な苦しみの中で、「父よ、彼らをおゆるしください」と執り成されたイエスさま。

それこそが、先の12章29節以降でイエスさまが最も重要な掟であるとおっしゃった「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということ。そして、「隣人を自分のように愛する」という最も具体的あらわれです。どこまでも、神と人を100パーセント愛し抜かれたその帰結が、十字架の道であったのです。

 

さて、この[U1] 「最も重要な掟についてのメッセージ」を受けて、ここからは今日の個所の38節以降を読んでいきますが。それは、主イエスの弟子たち、又、初代教会の信徒たちはもとより、そして終末の時代に生きる私たちと教会に向けられたものでもあります。主イエスの心をしっかりと受け取っていきましょう。

 

ここで、イエスさまはまず、「律法学者に気をつけなさい」と言われます。もちろん中には優れた律法学者もいました。前段の最も重要な掟について、28節でイエスさまに質問した一人の律法学者は、イエスさまの問いかけに、適切に答えたので「あなたは、神の国から遠くない」と言われたとあります。

しかし、律法学者の中には「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、、、」とイエスさまが指摘されますように、まあ、自分の宗教的地位や律法に対する高度な知識があるということで、人々から最高の敬意が払われて当然であるというような行動や態度をとる人物もいたのです。

律法学者たちは、神の義を学び教える立場でありました。それは神と人とに仕え、自らも模範として努めて生きることが求められていたのです。それがいつの間にか、その知識が自分を高ぶらせるものとなっていったり、自分をよく見せること、称賛されること、敬意を受けることばかりに心奪われ、神の義、神さまの御心を第一とすることをなおざりにする人たちが多くいたということです。

さらに、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」というのは、一部の律法学者たちは、ユダヤの人々の家に祈祷に行っては報酬を受けていたそうですが。

それが祈り祝福するため訪問すること自体はよいことであっても、貧しいやもめの家で、たくさん包んでもらうために心のこもらない長ったらしい祈りをしたり、見せかけの教えを説く者がいたようです。又、時には貧しいやもめたちは律法学者たちから生活費用を借りることもあったようで、その返済ができず滞納になった折には、住まいまでも要求されることがあったようです。

まあ、律法学者みんながそうであったわけではないでしょうが、中にはその宗教的、社会的立場や信用を悪用する者も絶たなかったようであります。

 

イエスさまはこういう神と人を蔑ろにする人に対して、「人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われます。恐ろしいことですね。

律法の事細かな知識は豊富にもっていても、その本質を見失っている律法学者たちの姿。

神の義ではなく、自分が義人であるかのように思い込み、良心までも腐敗させ、貧しい隣人を食い物にしていた彼ら。

神を愛するということと、隣人を愛するということは密接につながっている。このことを聖書は教えています。

たとえばマタイ25章31節以降で、イエスさまは終末の最後の審判の時のことをたとえでお語りになりましたが。羊飼が羊を右に、山羊を左に分けるようにして「すべての国の民」が王の裁きを受ける、とおっしゃっています。そのお話の中で非常に興味深いのは、神の国を受け継ぐ者とされた人たちに対して、王が「お前たちは、わたしが飢えたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」というと。この人たちが「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着かせしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられるのを見て、お訪ねしたでしょうか」と王に尋ねます。この人たちは王の貧しく、弱く、困ってお姿を見たわけではありませんでしたが、目の前にいる貧しく、弱く、困っている人に対してできうることをなしただけだということです。

すると王は「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えた、というお話をイエスさまはなさるのです。その後、逆にそういう生き方をしなかった人に対する裁きも語られているわけですけれども。

ここを読みますと、神への愛、神に従って生きるということが、具体的な隣人愛、とりわけ弱い立場や状況にある人との関係性にも表れてくるものであることがはっきりと示されています。それは決して大げさなことではなく、日常の何気ないその時その時、その瞬間その瞬間の中で、神の愛を受ける者が、どう人との関係性をもって生きるかということが語られているんだと思います。先の律法学者たちの姿は、反面教師として、まず自分自身がいかにあるべきかを問い続ける者でありたいと願うものです。

 

今日の個所に戻りますが。

イエスさまは、神殿にあります賽銭箱の向かいに座って、群衆がそこに金を入れる様子を見ておられました。

大勢の金持ちがやって来てたくさんの献金を入れています。もしかすると、そこには先のやもめの家を食い物にしていた律法学者たちも来て、人に見られようと大きな音をならせながら献げていたのかもしれません。

その賽銭箱は13個ありそれぞれの箱に、献金の使途が記されていたそうで、献金者は、自分の献金の使途と金額を、声高に告げたそうです。まあ近くにいる人たちにもそれは聞こえたでしょうから、イエスさまもそれをお聞きになっていたのかもしれません。

ところが、そこへ「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァンドランスを入れた」のをイエスさまはご覧になります。するとイエスさまは弟子たちを呼び寄せて言われます。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、貧しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。

 

この貧しいやもめについては、先に律法学者たちの一部から食い物にされていた、そういった存在であったことが想像できます。

そういう中でも貧しいやもめは、自分のもっている生活費のすべてレプトン銀貨2枚を神に献げます。

この金額は当時としては貨幣の最小単位であります。ラビの規定によれば、一レプトンのような些少の金額は施しにも禁じられていたそうですが。そんな小さな金額であっても、このやもめにとってみれば、生活を支えるほどの貴重なお金であったんですね。

イエスさまはおっしゃいます。「金持ちは有り余る中から献げたが、彼女はだれよりもたくさん入れた」。

私たちはややともすると世の目に見えるものだけで物事を判断したり、あるいは裁いたりする過ちを犯しやすい者であります。けれどイエスさまの眼差しは、いつも救いの喜びや感謝をもって生きる人、訴え祈る人に注がれています。そのような主の大きな愛を頂いて、私たちも又、その恵みに生かされていくものでありたいですね。

主イエスが教えてくださった神の最も重要な掟の本質、その愛とはどのようなものであるか、今日の聖書のメッセージから再確認して、恵みに応えるべく、またここからそれぞれの場所へ遣わされてまいりましょう。


 [U1]

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