礼拝宣教 マルコ14章43-52節 受難節(レント)
先週は、よく知られたナルドの壺エピソードでした。ベタニアの重い皮膚病のシモンの家でイエスさまが一緒に食事をなさっていた時に、一人の名もない女性が非常に高価なナルドの香油の入った壺を割り、イエスさまの頭に注ぎかけます。するとそこにいた何人かが、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。香油を売って貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨して、この女性を厳しく咎めたところ、イエスさまはその人々に「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたし体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」のだと言われました。 この「葬り」とは、イエスさまがそれまで再三に亘り、弟子たちに語った「受難の死」を意味しています。この女性は、そのご受難を前にしたイエスさまに、ただ親愛と感謝の思いを込めてこのような行動をとったのですが。イエスさまは「わたしの葬り準備をしてくれた」と、この女性をたたえます。 マタイ福音書では、その女性の行動に憤慨したのは弟子たちであった、と記されております。又、ヨハネ福音書ではイスカリオテのユダと名指しされています。いずれにしろ、弟子たちはイエスさまご自身の思いを図り知ることができなかったということですね。
このところの前の27節以降で、イエスさまは弟子たちに「あなたたちは皆わたしにつまずく」とおっしゃっていました。そこでゼカリヤ書13章を引用されて、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と、あなたたちは事が起こったらそのような状態に陥ってしまうだろうと言っておられたのです。さらにイエスさまは筆頭格の弟子であったペトロもイエスご自身のことを「知らない」と否認するだろうと予告なさいました。この時驚いたペトロは猛烈に、「わたしは決してそんなことはしません」と否定するのでありますが。
さて、本日の「イエスさまが裏切られ、逮捕され、弟子たちも皆逃げ去ってしまう」という暗闇のような出来事でありますけれども。 この事が起こる直前まで、イエスさまはゲッセマネの園で、必死に父の神に「あなたは何でもおできになります。この杯(十字架にかけられること)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と祈られます。
弟子たちは少し離れたところで「目を覚まして祈っているように」と言われていましたが、イエスさまが戻ってご覧になると彼らは皆眠っていました。その居眠りをしていた弟子たちに向けて、イエスさまは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」とおっしゃるのであります。まさにそのゲッセマネの園での祈りを遮るかのように、この裏切られ、逮捕される出来事が起こっていくのであります。
イエスさまはすでに十二人の弟子のうちの一人、イスカリオテのユダが自分を裏切る者であることを、ご存じでした。あの「最後の晩餐」の場面でイエスさまが「あなたがたのうちのあの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」とおっしゃると、弟子たちは心を痛めて「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、ということが記されています。まあユダ以外の弟子たちは皆、わたしはイエスさまを裏切るようなことはない、と思っていたということですね。
私たちは「ユダって何て非道な人間じゃないか」と思いますよね。イエスさまを売った銀貨30枚といえば当時1デナリオン銀貨が、だいたい労働者の1日分の日当であったことから、まあ30日分、1か月分の賃金、いわば月給に価するということです。まあ、そのような価値でイエスさまを売り渡したユダってどういう神経をしていたんだろうか、と思われるのではないでしょうか。
しかし今日の43節を見ますと、イエスさまを裏切るユダについてわざわざ「十二人の一人である」と記されていますね。これは十二弟子全員がイエスさまを裏切った。見捨てた。その中の一人のユダなんだと言っているように読み取れるのではないでしょうか。 そういう意味で、確かにユダはイエスさまを売り渡した張本人でありますが。そのイエスさまを裏切る弱さを他の弟子たちも持っていたし、実際にイエスさまを捨てて逃げ去ってしまうのです。筆頭格の弟子であったペトロさえもそうです。彼はイエスさまが逮捕されて行った官邸にまで後を追っていきましたが、最後は保身のためにイエスさまを否み、関係がないと否認したのです。
「心は燃えても、肉体は弱い」。イエスさまがおっしゃったように私たちも又、この弟子たちの弱さを笑えない、裁けない、もろい存在にすぎないということを考えさせられるものであります。
さて、そのユダについては、イエスさまを捕まえる時のときの合図として、「自分が接吻した相手がその人だ。捕まえて、逃さないように連れて行け」と、祭司長や律法学者、長老たちが遣わした軍団に伝えていました。そうしてユダがイエスに近寄り、「先生」と言って接吻すると、この人々はイエスに手をかけて捕らえた、とあります。 日本の文化では接吻をあいさつとしたりしませんが。聖書に出てくる文化圏では日常のあいさつであったり、敬意をこめた表現として接吻するわけですけれど。
このユダが、予め合図として接吻すると伝えたその接吻はフィレイという単なる挨拶を表す言葉でした。ところが実際にイエスさまに近づいて接吻した、それはカタフィレイという、これは当時のラビ、指導者的教師に向けての敬愛の念をこめた接吻以上に、情熱的な思いを表す言葉なんですね。 それは例えば、罪ある女性がイエスさまの足に接吻して香油を塗ったという場面や放蕩息子の父親が駆け寄って来た息子の首を抱き、接吻したという場面にも同じカタフィレイが用いられています。ユダはここでそういう万感の思いをもってイエスさまに接吻したということなのでしょうか。
ユダはイエスさまの弟子として、その十二人にも選ばれ、固い信頼関係で結ばれていたはずでした。すべてを捨てて従って行ったはずのユダがイエスさまにどれ程の思いを持っていたか。裏切りを企ててなおこのような接吻をしたことに、彼の心の複雑さというものを考えさせられますが。そのへんは単に保身のために逃げた他の弟子たちと異質なものを感じます。
今日において、子どもの虐待やDVが事件となってしまった傷ましい報道が頻繁にありますけれども。その犯行に及んだ多くの人は、憎いから加害を加えたのではなく、むしろ「子どもを愛していた」とか、被害者を「とても好きだった」というそうでです。そこには何らかの強いストレスや心に噛み合わない齟齬が、そういう行為に結びつくことも多いそうです。いずれにしても、人の心の深淵を見せられる思いがいたします。
このユダの中にも、イエスさまの十字架を前にした言動に対しての不満や失望感が強いストレスとなって、こういうかたちで暴走してしまったのかも知れません。
けれど、イエスさまは十字架の出来事と共に復活の希望を語っておられるんですよね。イエスさまが「目を覚ましていなさい」と言われているのは、主の救い、そして希望を見出す事、それを見失わないでいる事であると言えるのかも知れません。
今日の夕暮れのゲッセマネでのイエスさまの逮捕という場面。この「暗闇の深まる中で神の救いが示されている」ことを見逃さないようにしないといけません。
48節-49節でイエスさまは、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった」とおっしゃって、こういう闇の力がすべてを支配しようかというその中で、「しかし、これは聖書の言葉が実現されるためである」。 そのようにイエスさまは宣言なさるんですね。「しかし」「これは聖書の言葉が実現されるためである」。ここに本当の主権、権能というものは神にあるのだ、世の力なんかじゃない、という宣言なんです。
ここでは、イエスさまには全く罪がないということ、その逮捕の理由に価するものが全くないこと、又、世の力は白日の下では手を出すことが出来ないため、あえて暗がりの中で、軍団となって非合法的に捕らえに来るわけです。しかしイエスさまは、それであるにも拘わらず、その身を世の力のなすままに引き渡されたのです。「これは聖書の言葉が実現されるためである」。ここに、世の力と人の罪の支配するような「闇の中で・・・神の真の権威と御救いの光」とが示されているんですね。まさにイエスさまは旧約聖書の時代から神のご計画されていたすべての人々の救いを成し遂げるために、ご自身を引き渡されるのであります。
こういう光と闇のせめぎ合うような時、その状況の中で、しかし「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とマルコは伝えます。聖書は、すべての弟子たちが、イエスさまを見捨てて逃げて行ったということを今政治の世界でも問題になっていますが、書き換えや改ざんすることなく、また加減もせず、正直ありのまま記録として残します。
51節の、名も記されていない一人の若者のエピソードもそうです。イエスさまについて来たけれども、捕まりそうになり身に着けていた亜麻布を捨てて、裸同然で逃げ去った、という恥としか言いようのない事を、ここにそのまま記しています。
マルコ福音書の記者は、ここで、本当にイエスさまの弟子と呼ばれるにふさわしい者は一人もいなかったということを言っているんじゃないでしょうか。
イエスさまが14章27節で弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』とおっしゃったように、彼らは皆つまずいてしまうんです。
順調な時は神さまをほめたたえ、感謝することはあっても。思い通りにいかなかったり、思いがけないことが起こった時、どうでしょうか。何か人間関係のほつれや、つまずきとなることがあった時、主への信頼までも崩れるようなことがないでしょうか。人の思いは、たとえそれがどんなに情熱的であったとしても、案外簡単に冷めてしまったり、離れてしまったりするものです。
主イエスは、今日の箇所に記されたような、ご自分を見捨てて逃げ行くペトロや弟子たちのために「信仰が無くならないように祈られた」と、ルカによる福音書22章33節にございます。そのような弟子たちであるにも拘わらず、主イエスはその弟子たちを、そして私たちを見限るようなことは決してなさらず、そんな弱さ、もろさ、至らなささえも引き受けられて、私たち、すべての人間の救いの道を開いて下さるために、十字架の道をあゆんで行かれるのです。
今日のイエスさまが裏切られ、逮捕され、見捨てられていくという、本当に闇としかいいようのない場面ですが。しかしその中で、聖書の言葉の実現、すなわち神の救いのご計画がなされるという私たちにとっての希望の光が射していることを知らされました。
主イエスが一貫して御神の御心に従いゆくものであった。そこに私たちはその救いの光を頂いています。 またここから新しい週のあゆみへと遣わされてまいりましょう。