礼拝宣教 マルコ15:33-41 受難週
2月14日の受難節・レントから始まって、主イエスのご受難を覚えつつ、今日の受難週を迎えましたが。本日からの7日間、全世界の救い成し遂げるために主イエスが如何に歩まれたのかを偲びつつ、その恵みの深さを覚える時となりますように。30日金曜日は主の受苦日を特に覚え、午後3時から黙想と祈りの時がもたれます。時間の許される方はどうぞ、集って下さい。
この箇所はイエスさまが十字架にはりつけにされてから正午頃から午後3時の場面です。それから全地は暗くなり、午後3時までそれが続いたと記されています。
あの旧約聖書の出エジプトの直前、主の過ぎ越しを守る前も、主は暗闇の災いを起こされ、エジプト全域が暗闇に覆われて、人々は、3日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかった、ということがありましたが。それは神の審きが臨んだことを示していました。
このイエスさまが十字架にはりつけにされた3時間も又、本来は太陽が燦燦と照り輝く真昼の一番明るい時間帯であったわけですが、その時全地は闇に包まれます。これも神の審きが臨む現れであったということでしょう。
しかしこの暗闇は、かつてエジプト内だけに臨んだようなものではなく、ここに「全地」とありますように、全世界を覆う暗闇であったことを聖書は伝えているのです。
それは同時に、これから成し遂げられようとしている救いの業が、全地を覆う闇の支配と罪からの解放であることを暗示しています。
そのような中で、この3時になると、イエスさまは大声で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。
すると、十字架のそばに居合わせた人々はそれぞれに、「そら、エリヤを読んでいる」とか、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」といったとあります。又、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒につけてイエスに飲ませようとして、イエスさまがその痛みを自分で和らげようとするかを試そうとする者もいたようです。
聖書は、「しかし、イエスさまは大声を出して息を引き取られた」と淡々と伝えるのであります。
つまり、イエスさまが大声で「わが神、わが神」と、訴えたことに対して、神からの何ら答えや助けはなかった。どこから見てもイエスさまは神に捨てられた。そうとしか思えないようなお姿で息を引き取られた。
このところを読みながら思い起されましたのは、遠藤周作さんの「沈黙」という小説であり、これは実話でもあるわけですが。一昨年でしたかね、映画化され鑑賞もいたしましたが。
その中で、役人に捕まっても棄教しない、まあ転ばなかった隠れキリシタンの人々が、荒波迫りくる海岸沿いの岩場で、十字架にはりつけにされながら、ただ刻々と苦難の中で死を待つしかない。またそれを見届けつつ祈るほかない者らには、無残な「場面」であります。
神の沈黙。「神が生きているのなら、どうしてその信仰を守り通す人々を神はお見捨てになられるのか」という思いや疑問がそれを見る者には湧き起こるのであります。
私たちは、イエスさまの十字架の前で、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言った人たちと自分は違うと思うかも知れません。けれども果たしてそう言い切れるでしょうか。「おまえが神の子なら、そこから降りてみろ」「神が存在するのなら、その証拠や奇跡を起こしてみろ」。そういう声が内外に起こる。それが私たちの現実の世界ではないでしょうか。
親子の関係であれば、子どもがピンチに陥った時、子どもが「父さん、なぜボクを助けてくれないの」と強く助けを求められたなら、まあ、その子に助けの手を伸ばして救ってあげるのが親でありましょう。
けれども、神の子であるイエスさまが十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んでも、何の助けも応答もなく、ただ沈黙のみであったのです。誰もがこの人は神に見捨てられた、神の子ではない、そうとしか思えないそのような状況であった。
ところがです。イエスさまを十字架で処刑するため、その最初から最後まで指揮にあたり、
イエスさまのそばに立っていたローマの百人隊長は、「イエスがこのように息を引き取られるのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った、と聖書は伝えるのであります。
どうしてこの百人隊長はそのように言いえたのでしょうか?この人は何を見たのでしょうか?
目に見える限り、イエスさまの死は、神からも見捨てられた絶望にしか映りません。
並行記事のマタイの福音書では、イエスさまが十字架上で息を引き取られた後、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とあり、これらの出来事を見て、百人隊長らは非常に恐れて、「本当に、この人は神の子だった」と言ったと伝えております。彼らは目に見える衝撃的な現象を目の当りにして、そう言ったのです。これならわかりやすいですが。
けれどもこのマルコの福音書は、そういうことは一切触れていません。
イエスさまが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫された後、何ら奇跡的な現象もないまま息を引き取られた。その有様を見て、「本当に、この人は神の子だった」と、このローマの百人隊長は言っているのですね。
実はこのマルコの福音書の中では、イエスさまを「神の子であった」と言い表した人物は、この人が最初で最後の人であるのです。
イエスさまに従って寝食をともにしていた弟子たちではありません。又、いやしや奇跡を目にした民衆でもありません。あるいは、神殿や会堂にいて宗教儀礼を行うユダヤの宗教家や律法学者や指導者たちでもありませんでした。殊に彼らには、イエスさまが民の数にも入れられない人や汚れているとされていた病人や罪人といわれる人たちと一緒に食事をしたり交流していることが理解できませんでした。民衆にもてはやされるイエスさまに憎悪をも抱いて十字架に引き渡していったのは彼らでした。
ところが、このイエスさまの十字架刑の指揮をとっていた百人隊長が、絶叫して息を引き取られたイエスさまを見て、「本当に、この人は神の子だった」、イエスは神の子と言ったのです。
神の祝福と選びとは、アブラハムから始まって、モーセの十戒からなる神の民としての契約を経ながら、ずっとユダヤの民に限られたものでした。
しかし、そのユダヤの民がイエスさまを全く理解できないでいる中で、イエスさまを十字架刑にかけていった異邦人のローマの百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言った。実にここから世界に神の国の福音、罪の贖いと赦しの福音が全世界の人々にまでもたらされていくことになるのであります。
イエスさまが息を引き取られた後に、エルサレムの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けるという出来事が起った、と記されてあります。
これまでは、神が人と出会う場所は、神殿の幕屋の奥まった至聖所であったわけであった。
神殿の幕屋には、ユダヤの特別な階層、宗教家や律法学者、祭司、レビ人といった人たちのみが近づくことを許されていました。それ以外の庶民、ユダヤの社会で小さくされた人々、罪人されていた人、汚れた人とよばれていた人、ましてや異邦人などは決してそこに内に入ることも、近づくことすらできなかったのです。
しかし、神の子イエスさまがすべての人の罪を贖うために死なれたその時、神殿の垂れ幕の上下が真っ二つに裂けた。それは先ほども申しましたように、永い間特別な人やそういう人
介さなければ入れず、近づくこともできず神と人とを仕切り、隔てていた、その覆いが取り除かれ、ユダヤの民のみならず文字通りすべての人々、全世界の人々が直接神さままと出会い、神の国に入る御救いに与ることができる道が開かれたのです。
私たちは言うまでもなく、その救いの福音に与っている者でありますが。それはまさに、主イエスの十字架の受難と死によってもたらされました。
イエスさまが、すべての人間の苦しみ、痛み、悩み、弱さを負い、罪の審きを十字架をとおして担い、神のゆるしと和解の内に招き入れてくださったのです。
この百人隊長は、信仰的既成概念やユダヤの宗教観にとらわれることがなかったからこそ、まさに幼子のように、神の子の本質に目を開かれ、「本当に、このイエスこそ、神の子であった」と言えたのではないでしょうか。
私どももそのような柔らかな感性をもって神の御心と御業とを、状況にとらわれることなく察知できる者でありたいと願うものです。
さて、最後になりますが、40-41節を読みますと、このイエスさまの十字架の出来事の目撃者として、「婦人たちも遠くから見守っていた・・・この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた」と、聖書は伝えます。
神と人との関係が大きく更新されるような、その新しい契約が立てられていく決定的瞬間に立ち会ったのは、この女性たちでした。イエスさまが、語られ、行いによって示された神さまの愛と解放、救いの福音を本当に受け取っていったのは、当時の社会的に小さくされ、弱い立場に立たされることが常であった女性たちだったのですね。すでに福音に生かされて十字架のもとにまで近づき従っていた彼女らは(次週の話にもなりますが)この後、イエスさまの復活の証人となっていくその重要な役割をみなこの女性たちが担っていくことになるのです。
ゴルゴダの丘とその周辺には様々な人々が、それぞれの思いをもってこの出来事に注視していました。
今日の、イエスさまの十字架の受難と死のお姿を前に、「あなたはどこに立ち、何を見つめているか」。問われる思いがいたします。
今日の個所から、神さまの御救いの業というのは、私たちの人間の思いや考えを遥かに超えていることを思わされます。
十字架上での「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」という絶叫の中に、主が私たちの人間の罪、咎、苦悩、苦痛のありとあらゆる苦しみを身に負い死なれたという、計りがたいほど大きな神の愛と救いがなされた、神の義と愛が示された。
たとえ闇ともいえる私どもの現実、そして時代の流れに遭遇したとしても、神はともにおられる。救いは成る。それが聖書のメッセージであるのではないでしょうか。
私たちはこの主イエスの十字架によって、新しく生まれ変わることを許されていることをもう一度心にとめ、感謝と賛美をもって主に応えて生きるものとなるべく、今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
「十字架の言葉は滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われている者には神の力です。」コリント一1章18節。