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自由とされた者

2018-04-22 15:36:25 | メッセージ

礼拝宣教 コリント7:17-24 

 

私は1年の中で新緑が眩しいこの時期が大好きです。

私たちも主にあって日々新しくされるべく、今日もここから御言葉の糧を頂いてまいりたいと思います。又、先ほどはIさんよりお証を伺うことができました。主は生きておられます。
毎週、教会の看板に宣教題と聖書の言葉を吉田さんの達筆で書いていただいていますが。4日前に貼り出した「自由とされた者」という題と先に招詞として読まれました「真理はあなたたちを自由にする」との御言葉に、何人もの人が足を止めてじっと見入っておられ、中にはそれを写真に撮っておさめている方もおいででした。

それは実に多くの人が、自由にあこがれ、人生を有意義に生きたいと願っているか、という表れのように思えます。逆を言えば、どれほど人は、何かに囚われて人生を送っている、ということでもあるでしょう。

 

今日の週報の巻頭言にも記しておりますので、もう一度そのヨハネ8章31節~36節のところをお読みしたいと思います。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

 

この罪というのは単に何か悪いことをした、ということではなく、原語で「ハマルティア」は的外れという状態であるという意味のように、神とその祝福への招きに背を向け、地上の事どもに思い煩い、奴隷となって囚われている状態ということができます。

この36節の「奴隷はいつまでも家にいるわけがない」というのは、罪に囚われた人間も、やがてはそこを去らねばならない日、地上の生活を終えるその日が来るということです。

しかしそのような私たちの罪の奴隷状態から、神の独り子なる主イエスが十字架の血の贖いをもって私たちを自由にしてくださった。36節「だから、あなたたちは本当に自由になる」ということであります。

その救い主イエスさまによって私たちは「真理を知るものとされ、真理は私たちを自由にする」ということであります。

 

その尊い恵みを感謝しつつ、本日はコリント一7章17節~24節より「自由とされた者」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

まず22節~23節に「主によって召された奴隷は、主によって自由な身分にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」とございます。

「自由とされた者」は同時に「キリストの奴隷」なのです、と何とも独特な表現でありますが。これは奴隷であれ、自由の身であれ主の召し、主にあってすべてが解放され、自由とされているその救いこそ、重要であるということです。

次いで23節に「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」とあるとおり、先ほども申しましたけれども、私たちは神の御独り子主イエスの十字架の贖いという身代金を払っていただいて、罪と滅びの囚われから自由にされたのでありますから、その解放を与えてくださったイエス・キリストこそ主。私のあるじとして仕えて生きていきなさい。再び罪と世の力に囚われてはいけない、と言っているのです。

 

ところで、今日の箇所は「主が定めた生き方」と見出しがついておりますが。なぜかその前後には「結婚について」とか「未婚の人への奨め」ということが出てまいります。

もう23年ほど前になりますが。私どもの結婚式の時に、恩師で司式者の吉田晃児牧師からこの25節以降のところをお奨めの言葉として頂いたのでありますけれども。この7章全体には「結婚しない方がよい」というような意味の言葉が8回も出ているとおっしゃいまして、ドキッとしながら聞いていましたら、心あたりのある人たちがずい分いたようで苦笑いの声があちこちから聞こえてきましたが。まあ、このような個所が語られたのは35節にございますように、結婚するにしてもしないにしても、生活の思い煩いに囚われず、主を前にあっていつも整えられた者として、ひたすら主に仕えるように、というお奨めであったわけです。 

パウロはこの時点で少なくとも独身であったようです。この時点といいますのは、彼がクリスチャンになる前は最も厳格なユダヤ教のファリサイ派に属していましたので、ユダヤ教のラビの義務であった結婚を当然していたとも言われます。パウロがクリスチャンになった時点で、妻の方から離れていったという事も考えられますが、定かでありません。

興味深いのは10節のところでパウロは「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのはわたしではなく、主です」と言いつつも、11節で「-既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。また、夫は妻を離縁してはいけない。その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのです」と述べているのです。

そしてパウロが25節以降で未婚者に対して「結婚しない方がよい」と言っているのですが、その理由は、29節以降に「定められた時は迫っています。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい」という理由からであります。

つまり結婚も、葬儀や、又日常の仕事や商取引と同ように世の生活の一つに過ぎない事だからです。

パウロは多少手厳しくも感じますが、結婚や家庭生活のことだけに、心を使い尽くし、神のことに心が向かなくなるのなら、むしろ独身でいた方がよいという持論を述べます。それは結婚する、しないのどちらにいたしましても、主を主として愛し、主に仕えて生きていく恵みの大きさと対比させて、日常の思い煩い等で心も魂もふさがれてしまうことに対して危惧しているのであります。

この「定められた時」。それはクリスチャンにとりましては希望の日、待望の日であります。各々がこの地上において、主のしもべ(奴隷)としていかに仕え、又この地上のあらゆる捕らわれから解放された自由な人として召され、いかに生き、いかに主に栄光を現して生きてきたか、が明らかになる。その時が訪れるからだというのです。

 

ここから読みとれます事は、パウロの「結婚」に囚われない自由なあり方です。パウロは結婚について指図や命令をし、正しい回答を提示したりはしません。

彼はこの手紙を読んでいる読者に自由な選択の余地を残しながら、本日のテーマにもなっています「主によって召された者にふさわしい生き方」へと導いているのです。

 

そしてパウロは本日の17節のところで「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と奨めます。

特に興味深いのは、パウロはこの7章において「神に召された」という「神の召し」を、やはり「結婚しない方がよい」というようなことと同様、8回も言っているのですね。

そうしたうえで、「すでに割礼を受けている者が神に召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません」と言います。おそらくユダヤ人でクリスチャンとなった人のうちには、そのように考える人がいたのです。

逆に「割礼を受けていない者が神に召されたのなら、割礼を受けようとしてはならない」と言います。こちらは、ユダヤ人でクリスチャンとなった人たちのうちには、異邦人でクリスチャンとなった人たちに、ユダヤの割礼を受けることを強要していたことが読み取れます。

いずれにしろ、パウロは割礼の有無に囚われず「神に召し出されたときの身分のままで歩みなさい」と奨めます。つまり大事なことは、各々がそのときのそのままの状態で「主に召され、主によって自由とされ、主のものとされている」ということであります。

 

パウロは又、奴隷について「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と奨めます。

まあ、ここを読みますと、パウロはとんでもない、奴隷制度を肯定し、助長していると思う方もおられるでしょう。

しかしパウロは23節できっぱりと「人の奴隷になってはいけません」と言い切っています。

ここには、パウロがこの手紙をクロエという女主人の家の人たち(彼らはいわば奴隷であった)からの手紙に返信として書いている、という背景があったのです。

まあ奴隷と申しましてもこの人たちは、今でいえば専属の使用人や家政婦といった立場の人であったわけでありますが。

 

パウロはその奴隷の彼らに対して、「自由の身になることができたとしても、むしろそのままでいなさい」と言います。

パウロがそのようにいった理由についても、先の割礼を受けているか受けていないかの状態で神に召された人に言っていることと同様です。

 

奴隷であろうが、自由の身であろうが、主はその人のあるがままの状態で召し、解放し、自由を得させ、主のものとされているということです。

だから、奴隷であることによって思い煩うこともなく、主に自由とされた者として、地上の女主人クロエに仕えて生きるように、と促しているのです。

 

本日は、「自由とされた者」と題し、御言葉に聞いていきました。私たちは本当に聖書が語りかけているように、自由とされている者でしょうか。

確かに今の現状を思いますと、幸いある程度の自由があるといえます。

自分の思いの向くまま、気の向くまま、好き勝手に生きること、これも許されているわけでありますけれども。しかしほんとうに自由を得た人、何ものにも縛られない人は、自分の欲望や自我をも制し、コントロールできる人であるといえるでしょう。

 

私たちそれぞれが、主の十字架を通して「自由とされた者」として、主イエスの御跡に従い、世にあって神と人に仕えるために主が与えてくださった自由であることを、心に留めつつ、今週も喜びと希望をもってここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

結語

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

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