礼拝宣教 Ⅰコリント3:10-17
本日はコリント一3章より「生きる土台」というテーマで御言葉に聞いていきたいと思います。
皆さんは「生きる土台」というと、どのようなものをイメージなさるでしょうか?家族、健康、仕事等々。老後のことを考えると、年金や資産もリアルといえるかもしれません。今日は何を土台とし、何をどのように築いていくか。そのような聖書のメッセージであります。
先週はコリントの第一の手紙1章から、コリントの信徒たちの教会に分派争が生じて、排除や分裂が起こっていた背景の中で、人の知恵や力にではなく、神の力、神の知恵による救い、すなわち十字架の主キリストこそ、真に依り頼むべきお方である、と言う使徒パウロの勧めでありました。この今も「十字架につけら給いしままなるキリスト」こそが、義と聖と贖いの主であり、唯一つの誇りなのだから、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにして、(その主にあって)固く結びあいなさい」。そのようなメッセージを聖書から私たちもともに聞いていきました。
今日のところではさらに問題に切り込んで、コリントの信徒が自分はパウロにつく、わたしはアポロにつく、と互いに争っていたことに対して、パウロは「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」。自分たちはそれぞれの働きを担ったにすぎないと言います。
パウロが「植えた」と言うのは、具体的にコリントにおける福音の種まきと教会としての形をなすために働いたということです。又アポロは「水を注いだ」と言うように、パウロがこの地を離れ後、コリントの信徒たちを教え導くようなリーダー的働きを彼は担っていたのです。
しかし二人は主人ではありません。主とその教会のために仕える主のしもべに過ぎない。大切なのは命のもとなるお方。「成長させてくださるのは神」です。そうパウロは断言します。だから私は誰につく、いや誰々だなどと言った虚しい分派争いで教会が分裂することは、教会の土台であるイエス・キリスト、その福音を文字通り台無しにすることだ、と言うのですね。まあ、ここまで話を聞いてこのコリントのような分派争いなんて私たちには関係ない、問題ない、そうお思いになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。むろんそうであるなら主の守りに感謝でありますが。ただどんな教会も人の集まりには違いありませんから、主の教会を愛するゆえのいろいろな思いが起ってくることもあるでしょう。そこで大切になってくるのが、「キリストの教会とは何か」「私たちはどのような教会像をえがくか」という事です。
パウロは9節で、コリントの信徒たちに向け、「あなたがたは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と述べましたが。
私たちはイエス・キリストの十字架を通して罪赦され、救いに与り、確かな道を得て、その喜びと感謝によって、神のために働く者とされた。それも共に力を合わせて神の栄光をあらわすように召し出されているということです。
それは、お一人おひとりがその神のご計画によって呼び集められいるとも言えるわけです。
パウロはそのようなコリントの信徒たち、それは又私たちを「神の畑」さらに「神の建物」にたとえます。「神の畑」は先に申しましたように、「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です」というそのことですね。神によって成長する教会像です。
では、「神の建物」とはどのような教会像でしょうか。
パウロは「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と述べます。この土台は11節にあるように「イエス・キリスト」であります。
パウロは「すでに据えられたこの土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」と言います。
どのような建築に際しても、重要なのはまずきちんとした土台を据えるということです。
私たちの大阪教会も三代目の教会堂が2013年11月に完成しましたが。仮の礼拝の場としてお借りしていた道路越しのビルの玄関から、徐々に教会堂が建築されていく有様を見れたのは幸せでした。
それと、私はその現場を目で見てはいないのですが、起工式の前に大変大きな基礎杭を確か13本だったか打ち、地盤がしっかりと固められる丁寧な工事がなされた、ということを現場の建築業者さんから伺い、安心できました。
どんなに外観的に立派で頑丈に見えても、基礎となる土台がしっかりと据えられていないのなら、大きな災害が襲来すれば、どうなるかわかりません。
同様に、パウロはここで自ら熟練した建築家のように「イエス・キリスト」という救いの土台をしっかりと据えた。その「土台を誰も、他のものとすり替えることはできない」と言います。
パウロ自身はその救いの土台について、「神からいただいた恵みによって据えました(10節)と言います。この恵みとは、自分の罪のため十字架にはりつけにされ、その贖いの血によって罪のゆるしとして、新しく生まれ変わる体験を与えてくださったイエス・キリストであります。このお方なくして、生きる目的も、教会も宣教も何もないのです。そのキリストが、今も十字架につけられ給いしままなるお姿で共におられる。このキリストこそ私たち一人ひとりの土台なんだ、ということであります。
次にパウロは、このイエス・キリストという土台の上に、「おのおの、どのように建てるかについて注意すべきです」と述べます。
建物を建てる人は、どんな建材を用いるかを考えるでしょう。なぜなら建材の種類によって建物の質が変わるからです。
ある人は「金、銀、宝石」と、イエス・キリストという尊い土台にふさわしいと思えるもので建てあげてゆこうと努め、又ある人は「木」という一般的な建材を用いるようにその土台の上に築こうとし、それから、ある人は「草」や「わら」で、一時しのぎ的なものでいいと、さっさと建てる。まあこれは信仰者としてその人生を、日々どう生きるかということをたとえているのでありますが。
つまり主イエスが示されたように「隣人を自分のように大切にし、どう仕え、生きるか」という、それは「信仰生活の質」であると言えるでしょう。
パウロは言います。そうした「おのおのの仕事は、やがては明るみに出されるかの日が来る。かの日は火とともに現れて、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味する。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」(13-15節)。
これは最後の審判の裁きのように響いて怖いようにも思えますが。
もちろん私たちはたとえ火で試されるような日が来たとしても、信仰者としての働きが残る、そんな生き方でありたいと願う者であります。
けれど、弱さを抱える私たちの信仰が燃え尽きてしまうような時も起こり得ますし、教会生活や人につまづいたり、教会や礼拝から足が遠のいてしまうようなスランプに陥ってしまう時もあるかもしれません。まあ世の終わりの日に、それまでの歩んできたすべてが火によって試されようものなら、すべてが焼かれ、残る者が何もなくなってしまうのではないか、と恐れ、不安に駆られるかもしれません。
しかし、パウロはそれが燃え尽きてしまえばすべてが滅びる、断罪されるとは言っておらず、その人は「損害」を受けると言うのです。そして注目すべきことに「損害を受けるけれども、ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と言うのですね。救いは、唯神のみの御手にあるのです。神さまの目的は人間を断罪されるためでなく、救うことにあります。
ですから、まあサンデークリスチャンでも、へぼクリスチャンでも何でも、とにかくイエス・キリストを土台としている限り、神さまの御憐れみによって救われる、ということです。
イエスさまはマタイによる福音書17章20節以降でこうおっしゃいました。
「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」。この「からし種一粒ほどの信仰」。これが、有るか無いかでは大違いです。イエス・キリストを生きる土台としていく。この信仰が私たちの人生をほんとうに有意義なものとしてゆくのですね。
人生を生きている限り、いろんな試練や予想もしなかった出来事を経験するかもしれません。けれども、そういう中で、決して変わることのない「生きる土台」を頂いているのなら、どんなに心強く、幸いなことでしょう。
主イエス・キリスト、その救いの土台の上に人生をどのように建て上げていくか。その土台の尊い価値に気づいた人は、その建て方、生きる質も変わってくることでしょう。それは本当に神さまの恵みであると思います。
最後に、パウロはコリントの信徒たちにこう言います。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
先程はイエス・キリストを土台としているなら、たとえ建て方が不十分であったとしも焼かれるようなことがあっても救われる、とあったのに、今度は滅ぼされると反対のことが書かれており、何がどう違うのかと考えて込んでしまいそうですが。
このところで特に強調されていることは、「あなたがたは神の神殿」「神の霊が自分たちのうちに」とありますように、教会とその信徒である「わたしたち」のつながり、関係性についてであります。
つまり、神の御憐れみ、イエス・キリストとその救いの土台そのものを蔑ろにする者や、キリストを土台として建てあげていく教会形成を壊すような者については、神は滅ぼされると、パウロは強く警告しているのです。
どのような指導者もカリスマ的な人物も、知者や有力者であっても、神殿の土台であるキリストにとってかわることはあってはならない。祭り上げることはあってはならない、ということであります。
パウロはコリント書の別の12章で「教会をキリストのからだ」にたとえていますが。主の恵みによって救いに与った一人ひとりがキリストのからだとして教会につながり、共に主の栄光を現すために召されている。そういう教会像です。
からだですから、どの部分も必要です。どこが必要でどこが不要なんてなりません。パウロは「からだ全体の中でほかよりも弱く見える部分、見劣りがするような部分がかえって必要であり、そうして誰もが大切な存在とされることによって、からだに分裂が起こらず、各部分が配慮し合う」と強調しています。そのことによってキリストのからだとしての教会は建て上げられ、神の栄光が現わされていくのです。
本日のパウロの「生きる土台」であるイエス・キリストを基とする一つのからだのように、生き生きと愛によって建て上げられていく、これこそ聖なる生ける神殿、キリストの教会なのです。
私たち一人ひとりは神に愛されている大切な存在である。この福音を共に喜び合うために、今日もここから遣わされてまいりましょう。