礼拝宣教 コリント二4:1-16
先週もお話しましたが、このコリントの教会にはパウロとその使徒職について、彼にその資格を問い、十字架の救いの教えにも否定的な人たちがいました。
そういった状況を受けてパウロは、今日の1節で「主の憐みを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」と述べます。
自分が使徒賭して召されたのは、自分が何か立派であるとか、何かができるとか、才能があるとかいうことでなく、それはただ事実「主の憐みを受けた」ことによるというのですね。
パウロを非難し混乱を巻き起こして人たちは、知識や誇らしい能力をもって福音そのものもではなく、パウロ曰く「混ぜ物」をしたようなことを教え説いていました。
どこかで仕入れてきた知識を巧みな話術や演出でふくらませる人たちは、あたかも神の栄光に光輝いているかのように人々に映ったかも知れません。
私が西南の神学部に在籍した時、新約学の青野先生から「彼らは栄光の神学をもっていた」と教わりましたが。それを私なりに理解したのは、熱心に信仰に励む者は祝福され、豊かであり、いわば御利益があるという。逆に実際に御利益が起らないなら、それはあなたの信仰が足りない。そういう自己傲慢とさばきの神学です。
こうした考え方のもとでは、十字架で呪われた者のように死なれたイエスさまの姿はただ敗北の意味しかなく、復活されたイエスさまの勝利のみが強調され、「十字架を負ってわたしに従って来なさい」と言われたイエスさまのお言葉がかき消されていくのです。パウロはそうした状態を「混ぜ物」と表現したのでしょう。
そんな彼に対して、パウロは「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」と言ったということであります。
さらにパウロは「わたしたちの福音に覆いがかかっている」「福音の光を見えなくした」と厳しく指摘しています。
「福音の光」とは具体的に、主イエスの十字架の苦難と死を通してなし遂げられた御救いであります。これこそ十字架の苦難をとおして示された神の栄光なのです。
このコリント書を読み出してもう、またかとお思いになるかも知れませんが。
パウロはキリスト教会とその信徒の迫害に燃えて進んだダマスカス途上で、主イエスに出会い、神に敵対するという恐ろしい自らの罪を知り、パウロは迫害者から180度の転換をして、キリスト者となり、実体験であるキリストとその救いを宣べ伝えることとなります。
彼はこの十字架の苦難と死を経たキリストの救い、この福音を「宝」と呼ぶのであります。そしてさらに、その宝を私たちは「土の器に納めている」というのです。
すばらしい宝を入れるのに金の器とか有名な何々焼きならよくわかります。
高価で価値ある宝物を納る入れものがみすぼらしく、ちゃちなものだったら、その宝物まで価値が下がるように思ったりしないでしょうか。
でも、パウロはその宝は、土くれから作られた器、もろく、ひび割れやすく、壊れやすいような器に、その宝が納めている、というのです。ここがいわゆる世の考えや基準とは異なっているのです。
今週の水曜日は3回目となります「こども食堂・おいでや」が開かれます。どうぞお祈りに覚えて下さい。
日本のこども貧困率は13.9%、7人に1人が深刻な貧困の状態にあり、先進国36のうちの29番目と7番目に貧困率が高いことになるそうです。成人の場合はもっと深刻なのでありますが。このような状況の中で全国各地にこども食堂が立ち上げられているとのことですが。
2日(土)に沖縄でこどもカフェを開いておられるアットホーム教会の砂川牧師から直接詳しいお話をお聞きする機会が与えられました。ご紹介下さったのは、いつも熱い思いをもって「おいでや」でボランティアやご献品をしていて下さるお二人の方ですが。
砂川牧師のお話によりますと、開拓伝道を始めた時、祈りながら随分それにふさわしい場所を探したけれども、どれもうまくいかず、最終的に残ったのが、古びた商店街の、それもほとんどがシャッターのおりた如何にもゴーストタウンのような店舗であったそうです。まさに欠けだらけの器のようなところで始められたんですね。
砂川牧師は当初、まさかこどもカフェを始めようなんて思ってもいなかったらしいのですが。牧師のお連れ合いさんがフードバンクという業者と、必要とするボランティア団体をつなぐお働きをお始めになったことがきっかけで、こどもカフェが始ったということでした。
すると、そういったまあユニークな場所柄もあってか、こどもが集うようになり、ボランティアの方々の祈りと忍耐強い愛情をとおしてこどもたちが変わっていって、親や学校はどうしてあの子はそんなに変わったのかと驚いていたそうです。
いつのまにか、さびた商店街にこどもの声が響くようになり、商店街の人も喜んでかわいがるので、こどもは喜んで自分からお掃除を手伝ったりするうちに商店街の人も元気にされてゆき、その噂が広まってTVやラジオや新聞の取材が来るようになったそうです。 そのような欠けだらけの土の器とも思える場所に。それだからこそ福音の光がそこに入ってきた時に、その欠けたところから神さまの愛と救いの福音が輝きを放っているんですね。
私たちの「おいでや」はまだ始ったばかりですが。先日そのような証しを分けていただき、たいへん励まされた次第です。
話を戻しますが。
パウロ自身があの時打ち砕かれ、土の器に過ぎないことを思い知った。その中に、それだからこそ、主の救いの福音という宝が納められたのですね。
パウロのように自分が如何に罪深く、救い難いものであるかを知った者。又、弱さ、もろさを知り、主イエスの救いがなければどうしようもないということを思い知らされ、心打ち砕かれたその自分うちに神さまの福音が納められている喜びと感謝にあふれ、その救いの証し人へと変えられていくのです。そういった体験をもつクリスチャンは強いですね。弱いけど強いんです。
8節‐11節。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。なぜなら、わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」
イエスの死、すなわち十字架の救いを頂いてこのように生きることができる、とパウロは言うのです。
パウロは如何に激しい恐れと不安、苦難の日々を送っていました。
それは1章8節以降にありますように、彼は耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまい、死の宣告を受けた思いをしたほどであったのです。
しかし、なおそこでパウロは、イエス・キリストの死に終らない神の力を見出していました。ここにあるように彼は、もはや自分の力を頼りにするのでなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになったのです。
彼は1章10節で「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」と記します。
そして本日の4章14節「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に立たせてくださると、わたしたちは知っているからです」とパウロは確信をもって宣言します。
土の器のようにもろく、欠けがある私。
しかしそのような私のうちに、いやそんな私たちだからこそ十字架の苦難と死をとおって復活されたの主イエスさまが、私のうちに宝として納められ、輝きを放っておられる。ここに私たちの真の希望があります。
16節をお読みします。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」
今日は「土の器に納められた宝」と題して、御言葉を聞いてきました。
弱く、もろい、ひび割れをもつような私たちを用いて、神さまはゆたかなお働きをなさるのです。どんな器かということは、もはや問題ではありません。その中に何が納められているかということこそ重要です。
「土の器」 作詞・作曲 田中瑠美子
土の器 欠けだらけのわたし その欠けからあなたの
光がこぼれ 輝く 土の器 ヒビだらけのわたし
そのヒビからあなたの 愛が溢れ 流れる
こんなわたしでさえも 主はそのままで愛してくださる
だから今 主の愛に 応えたい わたしの全てで
用いてください主よ わたしにしか できないことが 必ずあるから
私たちが金や銀などの立派な器だったなら、自分を誇り、正しいと思っているので心開かれることなく、神さまの福音の光を通すことができないでしょう。
けれども私たちがもろく、弱く、ひびが入っているような器であることを本当に知るなら、そのもろく弱いひびの隙間から、神さまの福音の光が差し込んで来るのではないでしょうか。
私たち一人ひとりをあるがままに主の器としてお用いくださる神の憐れみと恵みをほめたたえつつ、今週もまた、それぞれここから主の器として遣わされてまいりましょう。
祈ります。