礼拝宣教 ルカ5・1―11
本日はイエスさまがシモンをはじめとする漁師たちを、最初の弟子として選ばれたその召命の記事であります。
ここを読みますと、奇跡的な出来事ばかりに目を惹かれるかも知れませんが。このルカ福音書が一番伝えようとしているのは何でしょうか。今日はそのことを聴き取って私たちの信仰の糧としたいと思います。
水曜午前の祈祷会では、次の日曜日の礼拝箇所をともに読んで学んでいるのですが。
今日のこの個所はよく知られた物語でありますが、これまでの読んでいて気づかなかった視点や発見が多くあり、聖書は深いなぁといった感想がありました。
今日のはじめのところで、「イエスさまがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。
魂が飢え渇き神の国の福音を求めてイエスさまのもとに続々と人が集まって来た。そしてイエスさまは押し寄せる人々で湖のほとりのそのお語りになる場所もないほどとなり、何とかしようとお考えになった視線の先に、漁師たちの二そうの舟があったのです。
その舟の持ち主であった漁師たちは、一晩中労したにも拘わらず、魚が一匹も獲れず、疲れ切った中、網を洗っていました。
私も魚釣りが好きで九州にいた時はよく海釣りに行きました。大阪に来てからは年に数回に、しかも海上釣り堀なんぞに行ったりもしています。釣れると本当にうれしいですね。写真に撮ったり多い時は知り合いに配ったりと。けれど釣れない時は本当に寂しく、残念です。空っぽのクーラーBOXを下げて帰ると、そのクーラーBOXにはエサも入れていたので臭いがついていて洗わないといけないのですが。洗う気持ちにもなれない虚しさ。ちょっと漁師の彼らの心境がわかる気もしますが。
まあそうした彼らにイエスさまは目をお留めになり、「そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り込まれ、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」ということであります。
シモンはイエスさまが神の国の福音を語られ、人々にいやしを行われ尊敬されていたことをよく知っていました。4章のところには、イエスさまがシモンの家にお入りになったとあります。それは彼の兄弟アンデレが引き合わせたのではないかと思われますが。その時にシモンは姑の病気を癒して戴くのです。そういったシモンには恩義もあったので、舟を出すことを断るわけにはいかなかったのでしょう。
そうしてイエスさまが舟の上から群衆に語り終えた時、イエスさまはさらにシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。
ここでは「沖に」となっていますが。本来は「深みに」という言葉です。
ですから、ここでイエスさまはシモンに「深みに漕ぎ出しなさい!」と、招かれているんですね。
沖へというと「もっと遠くへ」とイメージしがちですが。「深みに」というと大分ニュアンスが違ってきます。釣りをする者としてはまたちょっと感じるところがありますが。
釣りをする時、魚がいるポイントというのがあるんですね。ただ沖に出ればいいというもんでもありません。その日の天候、波と潮の状態、又海中の地形や棚をはかってみて、「これくらいの深さにハリスを落とせば魚のいる棚と合い、かかるな。エサは何にしようと考えます。ポイントや棚の深さはとても大事なんです。
さておき、シモンはイエスさまの言葉に反感をもったようです。なにせ彼は漁師であり、経験や実績、そのことに関する知識は素人のイエスさまにわかるものかと、自信があったからです。
夜中じゅう漁をして1匹すら魚が獲れなかったという現実、しかもこんな魚があがってこない真昼頃に漁をするなど非常識も甚だしいと思ったことでしょう。何のつもりがあってそんなことを命じられるのか。ほんとうに気まぐれとしか思えない。疲れているのにもうこれ以上無駄な労力を使いたくない。これがシモンの正直な思いだったのではないでしょうか。
私たちもどうでしょう。自分の知識や経験など自信のあることに対して、違う方法や方向に行くように言われると戸惑い、ムカッとくることがあるのではないでしょうか。
そこには自分の考えや経験や知識がベストだ、一番の方法だという考えがあるからです。
違った方法や方向に行くように言われると素直に従うことはなかなかできるものではありません。
しかしシモンはイエスさまの「沖に漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」とのお言葉に対して、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにします。
ここでのシモンの「お言葉ですから」という答えは、そこまで言われるのなら「まあ、やってみましょう」といったどちらかといえばあまり載る気でない思いからであったのでしょう。
そうして、「言われたとおり深みに漕ぎ出し、漁師たちが、網を投げ打つ」と、何と驚くことに、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」というのであります。
そこで、もう一そうの舟にいる仲間の助けを得て何とか網を引き揚げ、「二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」というんですね。
この素晴らしい主の御業が顕されるのに、シモンは一人ではなく共に労する仲間がいた。共に主の栄光を仰ぐ仲間がいた。そこに今も主が一緒に乗り込まれている舟、教会の姿を見る思いがします。
さて、この光景を目の当たりにしたシモンは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と、イエスさまの足もとにひれ伏します。
それまでシモンはイエスさまを「先生」と呼び、立派なお方だと尊敬していました。だからこそ舟を出し、さらに言われるまま深みに漕ぎ出して網を降ろしてみたのです。
けれども、もう肝がつぶれるほどの衝撃的なこの出来事によって、シモンの中に「主へのおそれが生じたと同時に、自分の信仰の至らなさ、罪の深さを思い知るのですね。
イエスさまを始め「先生」と呼んでいたシモンは、ここで「主よ!」とその呼びかけが変化しています。
シモンが自分の網の中に見たのは、網がはち切れんばかり溢れる神の恵みだったのではないでしょうか。
その時彼は、イエスさまが主なるお方そのものであられることに気づき、恐れをもってひれ伏すんですね。
この世界に聖書に興味をもって読む人は大勢います。なんかむずかしい。むずかしいがええことがかいあるのだろう。世界のベストセラーだし、教養としてと、読むのですが、わからない。
それは、このシモンのように岸を離れ、深みへと漕ぎ出していないからかも知れません。主のおっしゃる言葉に、御言葉の深みに「お言葉ですから」と漕ぎ出すとき。その私という小さな網を投げうってみるとき。自分がどれほど神を知らなかったか、と恐れおののくほどの主との出会いと、溢れんばかりの恵みを体験するものとされるのですね。
それはすでに主を信じている私たちも又、このシモンのような体験を通して、主の恵みを再確認させて頂く者なのです。
さて、シモンは「主よ、私は罪深い者です。私から離れて下さい」と言います。
自分が神の御前にいかほどの者であるか。その不信仰を思い知らされたシモンに向けて、
イエスさまは言われます。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間を取る漁師になる。」
原文では「人間を生け捕りにする」ということであります。
人間をとる漁師。それは「この世界」という大湖で、「イエスさまが乗り込まれた神の国の舟」に、神のものとして生きたまま獲得される、そういう働きをなす者となるということです。肝心なのはイエスさまが一緒に乗り込まれた舟がそこにあり、イエスさまが共におられる中で、その神の国に漁られる働きがなされる、ということです。
それを聞いた彼らはそこで、シモンをはじめ、ゼベタイの子ヤコブもヨセフも「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と記されています。
このすべてを捨ててという意味は、何もかも一切を捨ててとも読めますが。このルカ福音書5章全体から見れば、自分の正しさや自信によって生きていた生き方から、主イエスと出会い、主を信じて、従う生き方へ、舵を180度きる。その方向転換、メタノイア(悔い改め)によって従っていったということであります。彼らはこうして主イエスの弟子とされたのです。
このシモンは、後にイエスさまによって「あなたは岩、ペトロだ。わたしはこの岩の上に教会を立てる」と言われたペトロであります。今日の「自分の罪深さ、畏れおののきながら信仰の足りなさを告白して、全き方向転換、悔い改めたペトロ」。この信仰告白こそ、私ども主を信じる者にとっても、大きな救いであり、恵みであります。
今日は「沖へ漕ぎ出して;深みに漕ぎ出して!」という題のもと、御言葉を聞いてまいりました。
始めに、このルカ福音書はこの今日の箇所から一番伝えたかったことは何か、ということを申しました。みなさんはその答を得られましたか。
このルカ福音書は、奇跡の事象そのものではなく、イエスさまお言葉どおりに「深みに漕ぎ出して」従ったシモンが、主との出会いと大いなる恵みを経験し、畏れをもってひれ伏す中で、慰めと平安が臨み、イエスさまに従う弟子となったことにございます。
私たちも、もしかしたら日毎浅瀬で深みに漕ぎ出すことなく、まあこんなもんだろうと落胆することに慣れっこになっているような者かも知れません。そのような私たちを主は、深みへ漕ぎ出しなさい!と御言葉をもって招かれます。
今週も私たちもここから主の御言葉をもってそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。