礼拝宣教 創世記41章1-36節
先週の箇所では、牢獄に投げ入れられたヨセフがエジプト王の給仕役と料理役の見た夢を神によって解き明かし、その夢の示したとおり給仕役は元の職務に復帰したわけですが。ヨセフはその給仕役と約束をしており、それは「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、ここから出られるように取りはからってください」と言っていたのです。
「ところが、この給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった」ということでした。
「ファラオの夢」
今日のところですが。始めに、ここにある夢、英語ではドリームと訳されていますが。夢という時2つの意味合があります。「寝て見る夢」と「将来への願望を表わす夢」ということであります。
たとえば私の場合、小学校の卒業式で、卒業生の一人ひとり将来の夢を書いた言葉が講堂の正面の壁に映しだされたりしました。ちなみそのときの私の将来の夢は、「画家になってパリに行くこと」だったかと記憶しています。まあ、そのようにドリームと訳される夢にはこの2つの違った意味合いがあります。
前回の給仕役や料理役の夢、そして今日のファラオの夢は、確かに寝ているときに見た夢のことでありますが。
しかしその夢は単に意味不明のものではなく「神のご意志」「神のご計画」が隠されているというものです。マーティン・ルーサー・キング牧師はアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者として活動さrたことで知られていますが。彼の「さまざまな違いをもった人たちが同じテーブルにつく日」を夢見て語り、多くの人の共感を呼びました。「わたしには夢がある」と語った夢には、確かに将来への願望、もしくは志を夢ということで表わしましたが。それは彼の個人的な夢と言うよりも、神さまの幸いなご計画を告げる、そのような夢であったのだろうと思います。
さて、本日の箇所は先週の給仕役の長がヨセフを忘れてから2年間という歳月が経ちました。ヨセフの望みも虚しく、忘れられたこの2年間はどんなにか長く感じられる苦しみの日々であったことでしょう。
しかしそうした後、聖書は41章1節「2年の後、ファラオは夢を見た」と記します。
このエジプトの王、ファラオは2つの夢を見るのです。
1つは、「ナイル川から、つややかな、よく肥えた7頭の雌牛が上がって来て、芦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った7頭の雌牛が川から上がって来て、よく肥えた7頭の雌牛を食い尽くした」というものです。
ファラオ再び夢を見ます。
今度は「1本の茎から太って、よく実った7つの穂が出たが、その後から、東風で干からびた実の入っていない7つの穂が出てきて、太ってよく実った7つの穂をのみ込んでしまった」というものです。
ファラオはこの夢のことでひどく心が騒ぎました。
そこで、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて、自分の見た夢のことを話すのですが、だれもファラオに解き明かすことができなかったのです。
これは、エジプトの魔術師や賢者がどんなに優れていても、神を知らない者に神が見せた夢を正しく解き明かすことはできないということであります。
「神のとき」
さて、このファラオの夢をだれも解き明かせないということを先週のあの給仕役の長が知ったそのとき、彼は2年間すっかり忘れていたヨセフのことを思い出すのです。
そこで彼はファラオに、「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出ました」と申し出ます。
彼の言った過ちとは、自分が見た夢を解き明かしててくれた、恩人ヨセフと約束したことをすっかり忘れてしまっていたということです。しょう。
そこで、この給仕役の長は自分がもとの給仕役に戻る前に起きたことをファラオに説明しながら、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを話します。
この給仕役がヨセフのことを思い出せたのは、彼が思い出したということもありますが。
一番大きなきっかけは、ファラオが夢を見たということです。しかしそれは「神のご計画」によるものであったのです。
神さまのなさったその導き、業によって、給仕役はヨセフのことを思い出すことができたのです。
牢獄の中で2年間忘れられていたヨセフが遂に思い出されるのです。
ヨセフは切望していたこととは裏腹に2年間も牢獄で忘れられた人として耐え難い苦しい日々を過ごしました。いや、正しくは濡れ衣を着せられて投獄された時からですからもう何年か分かりません。
詩編105編18節には、ファラオの牢獄に入れられた時のヨセフの状態について次のように記されています。口語訳聖書で読みます。
「彼の足は足枷をもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ」た、と。
まあこういう苦痛の日々が何年間も続いたというのですから、きっと、そこで身も心も折れるような思いにさいなまれ、それこそまだ若いゆえに将来の夢も希望も描けなかったことでしょう。
けれども、そういう厳しい苦痛の中でヨセフは唯神さまだけに依り頼み、あらゆる苦難を耐え忍んだのです。そのヨセフを神さまはお忘れになることはなかったのです。
コへレトの言葉3章1節以降に「何事にも時があり」とのみ言葉がありますが。この「時」には神さまのご支配のもとに何事にも時があるということです。続けて「神はすべてを時宜にかなうように造り」ともあるとおり、すべては神の御手のうちにあって、すべてをお導きになられる神のみ業があるということです。神を畏れ敬う者は、たとえそのソ来はそう思えなくとも、後になってみれば、やはり神のなさる業は何事も時に適って美しいと、そのご計画の確かさを確認するのであります。
さて、2年の時を経て14節、「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやり、ヨセフは直ちに獄屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た」のです。
まさにここから、ヨセフは神のご計画のための公生涯の場へ連れ出されるのです。
ファラオはヨセフに会うなり、「わたしは夢を見たが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と、訴えます。
このファラオの言葉には、エジプト全土を掌握する権力を有していた王でさえ解決することのできないこの夢の問題を前に、大きな不安の中におびえる彼の、ヨセフへの強い期待が読み取れます。
そのファラオの訴えに対してヨセフは、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えます。
投獄された奴隷の身分のヨセフがエジプトにおいては、絶対的的権力を持つファラオに
「神が」とさらなる絶対的権威あるお方である神について言い表わすのです。すごいことだと思いますが。
ここで、新共同訳で「幸い」と訳されている原語はヘブライ語で「シャローム」であるという点は1つの大きなポイントです。
前の口語訳聖書ではシャロームは「平安」と訳されていますが。ここでの「ファラオのシャローム」いう場合、まずファラオ自身が抱えていた大きな不安、魂の激しい苦痛に対する心の、又魂の「平安」ということがあります。
ファラオはエジプトを治める者としての苦悩を抱えていたのです。
それにしても、ヨセフはこのように堂々と臆することなく王ファラオの前で「神がお告げになられるのです」と言うことができたのでしょうか。
ヨセフ自身、牢獄で足枷、首輪をはめられて心身ともに日々激しい痛みと苦しみを抱えていた中、なおもそこで神にのみ依り頼んで堪え忍んでいくのです。
先週読まれましたように「神が共におられる」、唯そのことだけがヨセフのシャローム、平安であったのです。神が共におられるからこそ、シャローム、平安である、幸いである。ヨセフはそれを体験していたからこそ、王であるファラオに臆することなく、神がファラオの幸い、シャロームについて告げておられるのだと、伝えることが出来たのではないでしょうか。
そこで、ヨセフは確信をもってファラオに、「あなたの心と魂にシャローム、平安を与えることができるのは如何なる世の権力や世の能力ではなく、主なる神さまにある」と、いうことができたのです。
私たちもまた、すべてを統めたもう神にこそ、シャローム、平安、揺るぎない幸いを見出すものでありたいと願います。
さて、ファラオはヨセフに自分の見た夢について話します。
そのファラオの見た二つの夢の話を聞いたヨセフは、25節「夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、お告げになったのです」と、ファラオに答えます。
2つの夢は同じことを意味するもので、これが2度繰り返され強調されているのは、夢で予告された出来事が神によって定められ、間もなく神が実行されようとしておられる、ということであります。
ヨセフは、ファラオの見た夢から、「7頭のよく育った雌牛と7つのよく実った穂は、7年の大豊作を意味し、7頭のやせた、醜い雌牛と東風で干からびた7つの穂は、7年間の飢饉を意味します。その後の7年続くその飢饉はひどいものであるため、最初の7年の大豊作のことを思い出せないほど、全く忘れてしまうものだ」と、解き明かします。
ちなみに、エジプト南部で発見された文献には、紀元前2600年頃に数年間の豊作があった後、7年間の飢饉が訪れたという記録が残っているとのことです。まあいずれにしろ、
こういった長い期間に及ぶ大規模な飢饉がエジプトでは起り得たということです。
「幸いなものに変える夢解き」
先週は給仕役と料理長の見た夢の解き明かしだけで終っていましたが。
今日のヨセフの夢解きは、単にファラオの解き明かしただけでは終っていません。
ここでヨセフは、ファラオに「神がこれからなさろうとされる」ことと、実に3度に亘って告げました。それはつまり、必ずなさるのだから、ファラオもなすべきことをなさなければならない、ということを言わんとしているのです。
それは具体的に、34節以降にあるとおり「豊作の7年の間、エジプトの国の産物の5分の1の備収、穀物の備蓄と保管」です。それがやがて訪れる7年の飢饉から国が滅びることがない手立てになるというのです。
ヨセフは王さまの夢を神に示されたまま解き明かしました。しかしその事だけで終らず、危機的な状況を前にして、不安や恐ればかりが生じる悪夢のような将来にシャローム:幸いを与える夢を語ったのです。
この7年の大豊作と、その後に起る先の7年の大豊作を忘れ去るほどの7年の大飢饉はもう神が決定なさったことであります。
しかし、たとえそういった大飢饉が訪れたとしても、それに対応した生き方、備えや術によって、エジプトを国難から救うことができる道が用意されている、そのような幸いの道、シャロームの道がヨセフを通して提示されていくのです。
それだけではありません。このことがひいてはエジプト周辺の国々の人たちにとってエジプトが食糧の備蓄拠点となって、周辺諸国とその地域に住んでおられる人々を飢餓から救うことができ、ファラオの、そしてエジプト全土のシャローム、幸いにつながる道になるということです。
ファラオの夢は、神がファラオにシャローム。平安・幸いを告げるものだと、ヨセフが語ったことはこうして実現へと向かうのです。
今日の私たちの世界を取り巻く状況も、このファラオが夢を見た時と同じように不安や危機感を感じ、心騒がすようなことがあるのではないでしょうか、
しかし、今日の聖書は私たちがそのような状況の中にあっても、確かに共におられる主にあって平安と幸い、シャロームを見出す者となるようにと、、主が私たちを招いておられるのです。その幸いと平安の御心、シャロームの実現に向けたご計画を主と共に担う者とされていくことを主は願っておられるのではないでしょうか。
主の御心に耳を傾けつつ、平安と幸いを実現したもう主にあって、今週も今日のみ言葉をもってそれぞれの持ち場へ遣わされてまいりましょう。