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国難に備えて

2019-08-11 14:35:42 | メッセージ

平和礼拝宣教 創世記41章37-57節

 

8月6日の広島原爆投下の日、9日の長崎原爆投下の日、今週15日の敗戦記念日と、平和の祈りを共にしております。

戦後の日本は、あらゆる戦力を保持せず、武力行使や戦力の威嚇を禁じる日本国憲法がブレーキとなり、曲がりなりにも戦争に組みするも、被ることもありませんでした。

しかし、沖縄に関していえば、この憲法9条は蔑ろにされ、沖縄の米軍基地から不条理な戦争のための戦闘機が爆弾を抱えて飛び立ち、多くの尊い命を奪ったことを忘れてはなりません。今は普天間基地の危険を除去する唯一の方法との名目で珊瑚やジュゴンが生息する美しい辺野古の海を埋め立てて新たな基地として移転する工事が多くの沖縄県民の思いを踏みにじるようなかたちで強行されています。

日本はアメリカとの日米安保条約の下、米国の戦力や核兵器の傘に守られて平和が築かれてきた、という方もおられますが。武力で平和を創ることは出来ません。今の世界の多くの人が抱える危機感や不安感がそれを露わにしています。まさにこのような時代だからこそ平和憲法を世界に発信していくことが、世界の平和に寄与することであり、それは神さまが私たち日本に住む者に託されている役割だと信じます。

昨今の韓国との関係、又ホルムズ海峡を挟んだ緊張状勢も、排除や分断によらず、寛容と粘り強い対話による平和的な解決に政治的指導者が舵を切っていかれますよう祈ります。

主イエス・キリストの和解の福音をかかげつつ、私たち小さき者ですが、主の平和の器として祈りつつ、歩んでまいりたいと願います。

 

さて、先週の41章の箇所は、エジプトの王ファラオが見た特別な夢について、ヨセフが「今から7年間の大豊作と、その後に7年間の飢饉が続き、それは国を滅ぼしてしまうほどのもの」だと解き明かしたのです。そこでヘブライ人、エジプトでは寄留者・流れ者と見下されていたヨセフはただ夢を解き明かしただけで終らず、その大飢饉に対して具体的に如何に対処すべきかの提案を、ファラオに示すのであります。

それは33節以降にありますとおり、「ファラオが聡明で知恵ある人物を見つけてエジプトの国を治めさせ、国中に監督官を立て、豊作の7年の間、産物の5分の1を徴収し、豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させる」というものでした。

ヨセフは「そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う7年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」と語ったというのが先週迄です。

 

本日の箇所の冒頭で、このヨセフの言葉にファラオの家来たちは皆、「感心した」とあり、ファラオはヨセフを「神の霊が宿っている人」と呼びます。この神の霊とは、天地万物の創造をなさった「神の霊」であります。

今日の39節でエジプトの最高指導者ファラオは、「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう」と言っていますが。

これは実に当時のエジプト人がひっくり返るような発言なんですね。なぜならエジプトは太陽神や月を崇拝しているのですが。ここでファラオが口にした「神」は、聖書の天地万物の創造の神なのです。ファラオはヨセフのうちに働かれる万物を統べおさめたもう神の霊を見たのでありましょう。

 

新約聖書のヨハネ福音書19章で、イエスさまが十字架に磔にされるにあたって、ローマの総督ポンテオピラトから尋問を受けるのでありますが。

そこでピラトは「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言いますと、イエスさまは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と堂々とお答えになられたのです。

ピラトは「自分が権限をもっているのだぞ」と言うわけですけど、イエスさまは「その権限は神がお与えになったものであって、そうじゃなかったなら、このことに対して何の権限もない」ということです。ピラトにせよファラオにせよ、地上の王や統治者は、すべての権威は天地創造の万物を統べ治めたもう主なる神にあるということを知らなければならないのです。主イエスさまのうちに働かれる「神の霊」をピラトもやはり見た思いがしたのでしょうか。

ピラトはイエスさまを釈放しようと努めた、ということであります。

どうか、地上のすべての国々の為政者、指導者がこの天地万物の創造したもう神を知り、神への畏れをもってその職務にあたることができますようにと、祈ります。

 

さて、ファラオはそのヨセフの提案にもとづき、聡明で知恵あるヨセフをエジプト全土を治める指導者として立て、彼に自分の指輪をはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをかけます。そして、自分の第2の車に乗せて、民を彼の前で敬礼させるのです。

ファラオはさらに、ヨセフにツァフェナト・パネアという名(エジプト名)を与え、オンの祭司ポティ・ファラの娘アセナトを妻として与えた、とあります。

この時、ヨセフは30歳であったといいますから、つまりエジプトに売られて来てから13年の歳月が流れていたのですね。彼は13年間、奴隷として、囚人として辛い苦難の時をずっと過ごしてきたのですが、遂にはエジプト全土を治めるいわばエジプト王に次ぐナンバー2、いわば総理大臣という高位に就くのであります。

しかし、その代償としてヨセフはエジプトの名に改名され、異邦人の女性と結婚し、エジプト人として生きていくことになるのです。イスラエルの子であったヨセフの内にはきっと複雑な思いが交差していたことでしょう。

そうしてエジプトの総理大臣の高位に就いたヨセフが最初になしたことは、「エジプト全土の巡回」でした。それにしてもエジプトの全土を回るというのは大変なことであったでしょう。どれだけの時間と労力を要したかことかと思いますが。でも、彼は何よりもエジプト中の町々に足を運んでいくことを大事にしたのです。おそらくその町々の人たちと出会い、知ることで、ネットワークやつながりを作っていったのでしょう。彼は井の中の蛙になることなく、エジプトの全土の状況を把握することができたのでしょう。

むろんそれは、神がファラオに告げた7年の大豊作とその後に起る大飢饉に備えてのことでした。何事についても言えることですが、備えって大事ですね。

 

ヨセフは豊作の7年の間、エジプトの国中の食糧をできるかぎり町々に蓄えさせます。具体的には町の周囲の畑にできた食糧を、その町の中に蓄えさせた、とあります。

それができたのは、ヨセフが時間も惜しむことなくエジプト全土を巡り、その町その町に足を運んで、地元の人たちと会い、備蓄の要請、神からのメッセージを確信をもって丁寧に町々の人たちに説明し、伝えていったからではないでしょうか。お役所仕事のように書面を送りつけるだけでは、そうはいかなかったのだろうと思います。

そのような7年に及ぶ政策と実践によって、49節「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」と記されています。

これはヨセフがファラオに提案したとおりのことを、政策と実践に移した中で、ということでありましょう。

私たちも日常の生活、お仕事において、また信仰の歩みにおいても、神の御心を祈り求めること、ビジョンをいただき、計画をもってたゆまず実践していく中で、神さまの恵みの豊作の時が与えられる、と信じるものです。

 

さて、聖書は「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」ことを記します。長男の名はマナセで、ヘブライ語で「忘れさせる」という意味をもつ名です。「神がわたしの苦労と父の家でのことをすべて忘れさせてくださった」ということを表わす名です。これはヨセフが兄たちの恨みと憎しみを買い苦しんだこと、それが元となりエジプトに売られて奴隷の身となったこと。さらに、ぬれ衣を着せられ囚人の身とされたその13年に及ぶこれらすべての苦しみや痛みを、神は忘れ去らせてくださった、と万感の思いを込めて「マナセ」と名付けたのですね。

 

来たる8月15日は、1945年8月の敗戦の日から今年で74年目を迎えますが。

戦争をご経験された方々にはその痛みや苦しみ、無念さや無残さが忘れがたい記憶として残っておられることでしょう。

以前、Sさんが東京大空襲のほんとうにおつらい体験を礼拝の中でお証しくださいましたが。焼夷弾によって燃えあがる町々の中炎をくぐり抜けて必死に逃げたこと。道に目を向けると、いたるところに焼き焦げた人の遺体が転っていたという生々しいお話しを伺いました。又、Yさんからは朝鮮半島から戦後引揚者としての壮絶な命がけの体験のお話しを伺ったこともあります。OさんとNさんは満州からの引揚者として大変なご経験をなさいました。その他にも大阪空襲に遭われた方もおいでです。教会の書庫から広島の原爆に遭われた教会員の方の証言が出てきたこともありました。そのみなさまそれぞれにも、そのような忘れたくても忘れることのできない心の傷を、どうか神さまが癒やしてくださるように祈るものです。

 

ヨセフは又、次男の名をエフライム、ヘブライ語で「増やす」という意味を持つ名をつけます。神はこの異教の地、苦しみの地において子孫を増し加えてくださった、とヨセフは言っているのです。

ここで注目すべきことは、ヨセフが二人の息子の名前をエジプト名でなく、ヘブライ語名にした点にあります。それは、信仰の父祖アブラハム、そしてイサク、さらに父であるヤコブ、すなわちイスラエルの、神の祝福を受け継ぐ者としての信仰が強くあったからでしょう。

それは決して忘れるわけにはいかないヨセフのアイデンティティー、存在意義ともいえるものだからです。辛い過去を忘れさせてくれる新しい人生。しかしその一方で、決して忘れてはいけない主なる神さまと、その祝福を受けている者としてのアイデンティティーを読み取ることができましょう。そしてこのヨセフのこの二人の子、マナセとエフライムはイスラエルの12部族のうちの2つの部族となっていくのです。

先週の祈祷会の聖書の学びから出されたことですが。興味深いのは、そのマナセとエフライムの母親はエジプト人であり、それもエジプトの太陽神の祭司オンの家系であったということですね。異邦の国の神々は、天地万物の創造の神の支配の下にあります。又、異教の国と民も又、この神のものであり、神の御手のうちにおかれているのです。

 

さて、ヨセフが解き明かした通り、7年の豊作が終ると、7年の飢饉が始まりました。それはエジプトの国はもとより、周辺のすべての国にまで及ぶ非常に大規模で深刻なものでした。次週出てきますが、ヨセフの故郷であるヤコブの家族たちが住むカナンの地にまで、その飢饉は及んだということであります

そうして時至って、豊作時に蓄えていた食糧でもってエジプトの人々がひどい飢饉から救われる時がやって来ました。それは又、当時の世界各地の人々、中近東の国々やアフリカの国々の人々までも、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった、つまりひどい飢饉から救われることとなったということです。

神さまからの夢による啓示と解き明かし。又、聡明さと知恵による働きによって、豊作の7年の間に計画的に食糧を豊かに備蓄していたことが、こうした大規模な災害といえる飢饉の時に、活かされていくことになるのです。

しかしこれらすべては、ファラオが冒頭で語っているように「神の霊」のなせる業です。

ひるがえって、わが国の穀物自給率について発表された最新のデータによりますと、過去最低の37%ということでした。残りの63%は輸入に依存することでまかなうことができているということであります。

まさに集中豪雨、巨大台風など災害の多い日本において、今計画的に農業を保護していかなければ、農産物を育てる土壌もやせ細り、後継者も育たず、日本の食糧の生産量もその倉もやがて朽ちていき、貿易さえできなくなるような事態が生じたら、これは私たちの食生活に大きな支障をきたし、ひいては死活問題となりかねません。これは漁業や畜産業においても同様でありましょう。自然災害が頻繁に起っている今日の時代において、神がお造りになった自然、いのち、人としての営みが、平安で、平和であり続けるために必要な対策と計画的実行が、急務であると思います。「神の霊」なるお方の計らいと働きを祈るばかりです。

 

本日はヨセフがエジプトの「国難に備えて」いった箇所からみ言葉を聞いていきましたが。確かにヨセフには政治的指導者としてたけていたことが読み取れます。しかしヨセフがそのように行動できたのは、その彼のうちに「神の霊」が宿っていたからです。

それは彼がいつもどのような時も、神への畏れ、信頼と望みをもって神さまとのシャローム、平安、幸いを得ていたからであります。その個人的な神と自分との平和と幸いの絆、関係が、世の人々との平安、幸いの絆、関係へと拡がっていくのです。

すでに主イエスの御救いに与り、聖霊によって日々の歩みが導かれている私どもクリスチャンは、その主の御救い、主の平安と幸いを、まだ主のことを知らない方々との出会いを通して、日々主の福音にを証しする存在とされてまいりましょう。ただ主からの力と聖霊のお働きを祈り求めながら。

今週もここから、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

 

祈ります。

主なる神さま。今日は特に平和をおぼえての礼拝を捧げ、あなたの御言葉を頂きました。感謝します。私たちは小さく弱い者でありますが、今日のヨセフの記事から、この地上にあって私たちが主に救われ、活かされている者としてなし得る務めに、どうか感謝を忘れることなく、あなたへの誠実とをもって励むことが出来ますよう、お導きください。

私たちの平和の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

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夕べの礼拝・主の食卓を囲んでのご案内

2019-08-11 07:53:45 | 教会案内

どなたでも気軽にでれます。

日時 8月25日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


みなさまをお待ちしています

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