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神の物差しで生きる

2019-08-25 17:05:24 | メッセージ

礼拝宣教 創世記45章1-15節

 

先週はヤコブの子ユダがエジプトの大臣となった弟ヨセフに嘆願する記事から聞きました。ユダはヨセフがエジプトの大臣となっていたことを知りません。がすべてをご存じであり、生きて働かれる神を認め、神に立ち返り、悔い改めへと導かれたのです。彼は神の前に新しく変えられた者としてヨセフに語りました。それは、父を、もう二度と悲しませたくないから、自分が父の愛する弟ベニヤミンの代わりに奴隷となるという、具体的なものでした。

このユダの悔い改めは、単なる後悔ではなく、神さまのお力、お働きによるものであり、ユダはそれを神の前に言い表わした、そのような告白であり、宣言であったことを知りました。
本日の45章は、このユダの言葉を聞いたヨセフの反応が記されております。

1-2節「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ」。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かし、声をあげて泣いた」とございます。

それまでヨセフは兄たちを試していろいろと無理難題を押しつけていたわけですが。ユダの神の御前における悔い改めの言葉がヨセフの心を揺さぶったのでしょう。そしてヨセフにしてみれば、かつて自分を捨て、見殺しにした兄の口から「弟のベニヤミンの身代わりに自分が奴隷になる」など言う言葉が出ること自体考えられなかったので、ものすごくいい衝撃を受けたのだと思います。

ヨセフは、本心から語ったユダが以前とは全く違い、変えられていることを目の当たりにしました。そうして「ヨセフは、兄弟たちに『わたしはヨセフです』」と、遂に自分の身を明すのです。

この言葉に、「兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった」とあります。彼らは驚き怪しみ、そしてうろたえ、恐れたでありましょう。

ヨセフはその兄たちを近くに呼び寄せて、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、重ねて言います。

そしてヨセフは続けてこう言うのです。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」

悔やみ責め合いによっては何も救われません。

ヨセフは兄たちの恐れや不安を察知したのでしょう。しかしそれは単に思いやりから出ただけの言葉ではありません。

ヨセフ自身が傷つき、苦難の日々を経験する中で、すべての出来事が神の御手のうちにあって、救いの目的とその御計画のために自分が生かされてきたということを知ったからです。

 

ここで注目すべきことは、ヨセフが兄たちに対して「あなたたちを許す」とか、「許さない」とか一言も言っていないということです。もちろん、兄たちが自分に対して犯した咎の負い目をずっと引きずって恐れ苦しみ続けることをヨセフは望んではいません。

けれども、その咎を本当に「ゆすし」「さばく」主権はヨセフにではなく、神さまにあるということを、聖書は伝えているのです。

 

「神がすべてを」

そうしてヨセフはこう言います。

5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

7,8節「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」

このように、いっさいが神の壮大なご計画の中にあることを兄たちの前に言い表わすのです。

ヨセフは兄たちの仕業によって異国の地で奴隷として、また囚人としてとうてい言い尽くすことのできない苦しみの年月を送らねばならなかったのでありますが。

その全てを、彼は、神さまのみ業として受け止め、神を主語、また神を主体として語り語り直しているのです。

兄たちが自分を憎み、殺そうとし、奴隷として売ったこと。主人の妻が無実の罪で自分を訴え、囚人としたこと。ファラオが、夢を解き明かした彼を大臣に抜擢したことども、それは人を主語として語ればそういうことになります。

しかし、彼はそれらの全ては神さまのご計画であり、神さまがご自分の民を救うために、私を先にエジプトへと遣わされた、と言うのです。

そして実際にこのことを通して、世界規模の大飢饉の中でも、イスラエルの12部族は救われ、神の祝福の約束が実現されることとなっていくのです。

これが信仰です。すべての物事を神の物差しで見ていくということです。日常の出来事が神との関係の中で、自分の全ての体験、喜びにせよ悲しみ苦しみにせよ、神さまを主語として、神さまを主体として語り直されるとき、私ども一人ひとりの人生には意味があり、そのために生かされている、決して無駄なことはありません。神さまは全てのことを何らかのご計画、目的をもって導いておられると、知る者されるのです。

本日の礼拝の招詞として読まれましたローマ8章28節をもう一度お読みしたいと思います。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 

第2次大戦中、アウシュヴィッツの強制収容所に監禁された、ユダヤ人でオーストリアの精神科医・心理学者のヴィクトール・エミール・フランクルの体験記、「夜と霧」(みすず書房)が邦訳出版されてから58年にもなりますが。未だにこの著書が伝える真理は多くの困難な中におかれている世の人たちに希望を示し続けています。

フランクルはこの著書の中で、「我を汝の心の上に印の如く置けーそは愛は死の如く強ければなり」(雅歌8章6節・文語訳)という真理を(死が差し迫る過酷な日々の中で)知った、というのです。(p,125)

それは、既に強制収容所において惨死していた彼の妻、その時点で彼は妻の死を知りませんでしたが、彼はこう綴ります。

「彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった・・・・すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。そして信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救いーこれである。(中略)収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただ・・・・その苦悩を耐えることだけであるような状態―このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。」(p,123-124

 

ヨセフは自分の身に起ったすべての出来事を、信仰、まさに神の眼差しから、神を主語として語り直すことによって、兄たちとの間に、真の平和な関係、シャロームを築くことができました。すべての出来事に働かれる神からいわばヨセフはその自分の存在の意味を示されていくのですね。それは「神の物差しで生きる」者とされたのです。

私たちも又、神さまがお示しになっている人生の意味、真に貴い価値を見出し、そのために働くものとされたいと願います。

 

「回復の始まり」

さて、本日の箇所の最後の所、45章15節に、「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。

このところは、このヨセフ物語で最も感動的な場面でありましょう。

この20年以上前、37章4節にあるように、父ヤコブがヨセフのことをえこひいきするので、兄たちはヨセフを妬み、それによって「穏やかに話すこともできなかった」のです。

兄たちはヨセフへの妬み、憎しみ、敵意のために、平和に語り合うことができなくなっていたのです。その関係性は全く損なわれていました。そのことから、あの出来事が起ったのです。

しかし今、兄たちとヨセフの間に、語り合いが、交わりが、平和が回復されていくのです。

神の御計画のもと、兄たちは神の御前に悔い改め、立ち返り、ヨセフは人生の苦難とその意味を神への信仰をもって受けとめました。こうして彼らが神の御前で顔と顔とを合わすことができた時、そこに、シャローム、真に平和、麗しい兄弟の関係が回復されていくのです。

この8月は平和月間として過ごしてまいりましたが。今日のこの兄弟である彼らの、神の前における麗しい情景に、人と人、家族、兄弟姉妹、国と国の、本物のシャロームの雛型を思い描くものであります。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

(詩編133編1節)

このシャロームに生かされ、平和を造り出す者とされたいと願います。

 

「仕えるために」

最後になりますが。

ヨセフは兄たちと父、母までが自分にひれ伏す夢を見て、まさに20年後それが現実となるわけですが。

けれども、本日の45章11節でヨセフはこう兄たちに言うのです。

「そこでお世話は、わたしがお引き受けします。まだ5年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。」

ここで、ヨセフは確かに兄たちから伏し拝まれるような立場になりますが。兄、父、家族、そのほかすべての者のために仕え、世話をする者となるのですね。これこそが、父ヤコブが、ヨセフの夢を心に留めたという本質なんですね。

このことについても、ヨセフの夢の解釈をめぐっていたことについて、兄たちは目からウロコが落ちるような思いで、ヨセフと語り合ったのかも知れませんね。

主イエスはおっしゃいました。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章26-28節)

わたしたち罪に滅ぶしかないような者を、滅びから救うために神さまは御独り子、イエス・キリストを世にお遣わしになりました。本来伏し拝まれるべき主は、自ら仕える者となられ、それも十字架の死に至るまで神の御心に従い、自らその私たちの罪を贖い出し、私たちを滅びの穴から救い出してくださいました。今もそうです。

神との平和、人と人の関係性の回復の路は、旧約においてヨセフに示されているように、新約において主イエス・キリストによってまさに明らかにされ、実現されたのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのです。まさに、「時は、満ちた」のです。

このみ救い、福音に生かされ、私たちも神をこそ、主として語り直しつつ、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

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