礼拝宣教 創世記44章18-34節
先日、インターネットのある記事に目が留まりました。
戦地に赴く人々に渡す招集令状(赤紙)の作成業務に携わった人がいる。当時17歳だった西尾宣子さん(92歳)=鳥取市。高等女学校を卒業した1945年春、県全域の徴兵事務を取り扱う軍機関で補助にあたった。『たった一枚の紙切れで人の命が引き換えにになった。終戦から74年、今も拭い去ることができないつらい記憶がある。
旧日本軍の鳥取連隊区司令部近くの県立ろうあ学校の一室には、徴兵検査を受けた人の名前などを記した台帳が山積みになっていた。軍の担当者からの指示で、天井に届きそうな資料の山から(赤紙)該当者の台帳を探して渡す。任務に命じられたときは「『お国のため』の仕事にはいろんなもんがあるんだ」と特段気に留めなかった。「○番の△号び□□名前の名簿を取ってこい!」。戦況が悪化するにつれ、自分と同世代の少年たちの名前が呼ばれることが多くなった。自分の手を介した名簿が赤紙に変わった。「事務的な作業だった。人のいのちはこんなにも軽いものだったのか・・・・・」と良心の呵責(かしゃく)に押しつぶれそうになった。上官の口調も次第に激しくなった。「女、子供は邪魔だ!」「男はアメリカ兵と戦え!」。ある日、学校の2階でオルガンを弾いていた視覚障害の男児を怒鳴りつける場面に出くわした。西尾さんは「かわそうに」と思い子供をなだめた。仕事は約2ヶ月で辞めた。
現在は、平和な世を享受する一方、当時のことは一瞬たりとも忘れたことはない。赤紙を渡された若者は今はどうしているか、またどういう最期を迎えたのかー。友人らは次々に鬼籍に入り、戦争の記憶の風化も懸念する。『北方領土、沖縄。残された課題はいっぱいある。私たちの代で解決できなかったが、次世代でなんとかしてほしい』と願っている。」(阿部絢美)
戦争を経験された方々が高齢化していくなか、戦争を知らない世代が増えています。その戦争の愚かさ、悲惨さが風化されず、二度と同じ過ちが繰り返されないために、何が大切か、ほんとうに細心の注意を払いながら、私たち小さい者ですが、まず身近なところからの平和を祈り、その働きに参与していく者とされてまいりたいと願います。
さて、本日は創世記44章より御言葉を聞いていますが、先週までのところでは、囚人とされていたヨセフが、神の霊によってエジプトの王・ファラオの夢を解き、さらにその対策を提案したことから大臣に任命され、まさに神が示されたとおりの7年の豊作の間、その後に起る7年の大飢饉に備えました。そして実際に豊作の後7年の大飢饉がエジプトをはじめ、周辺諸国にも起っていくのですが。エジプトの国中の人々はこのヨセフの備えによって、大飢饉の難を逃れることができたというお話しでした。
それから本日の箇所までだいぶとびましたので、それまでの経過を簡単に要約しますと。その大飢饉がヨセフの家族らが住んでいたカナン地方にまで及ぶと、ヨセフの兄たちは「エジプトには食糧がある」との噂を耳にし、食糧を分けてもらうためにエジプトに向かいます。そして大臣となったヨセフと会うことができ、食糧を分けてもらうようにお願いするのです。
ヨセフはそれが自分の兄たちであることが一目で分かりましたが、兄たちは気づきません。ヨセフは、その時、20年前、父の家で見た夢を思い出しました。それは兄たち、さらに父母までがヨセフにひれ伏すことを象徴的に表わした夢でした。ヨセフは、そのような夢を見たと、無邪気に口にしたために、兄たちにひどく憎まれます。そこには父ヤコブがヨセフを特別扱いしていた妬みもありました。そうした兄たちによってヨセフは、荒れ野のほら穴に投げ落とされ、結局、見捨てられるようにしてエジプトに売られてしまったのです。
ヨセフはその兄たちが夢のとおり自分にひれ伏すのを見て、それらの出来事を思い出したんですね。ヨセフの心は騒ぎました、、、。
そうしてヨセフは兄たちを試し、兄たちに対していろんないいがかかりをつけ、右往左往させ、結局、末弟のベニヤミンをエジプトで奴隷にすると宣告したというのです。
そこからが本日の箇所となります。
ところで、ヨセフはなぜこのようなことを兄たちに対してなし、父をも困らせ悲しませるようなことをしたのでしょうか?
兄たちについては、かつての復讐の思いがあったのかと考えられなくもありません。
「兄たちを試した」とありますことから、自分にひどい仕打ちをしたあの兄たちが、今はどのようであるかを知りたかったのかも知れません。
けれどもそれは、父ヤコブに対しては何の恨みもないはずです。
ヨセフは一人を捕えて人質にして他の兄弟を送り帰し、ヤコブが溺愛するベニヤミンを連れて来るように命じるのですが、それは当然父ヤコブを苦しませることになります。それがヨセフにわかっていながらなぜ無理な要求を突きつけたのでしょう。
もっと言えば、ヨセフがエジプトの大臣になった時点で、すぐに父に使いをやり、自分の無事を伝え、エジプトの大臣になっていることを知らせることもできたのでは、、、と考えたりもしますが。そういったヨセフの心の思いや考えについては何も記されておらず、推測の域をでません。
ですから私たちはむしろ、このヨセフ物語全体を通して、聖書が私たちに何を語ろうとしているのかということを聞き取ることが大事だと思います。
そしてそれは、まさに本日の18節以降のユダの言葉の中に示されているのです。
これまでヨセフの物語を読んでまいりましたが、その展開のすべては、今日のこのヨセフへの「ユダの嘆願」の言葉が語られるためにあったと言っても過言でないでしょう。
では、その聖書のメッセージにここから聞いていきたいと思いますが。
ユダがここでヨセフの前に進み出て、「僕の申し上げますことに耳を傾けてください」と言っている、「申し上げます」は、口語訳では「言わせてください」とかなり強い言い回しが使われています。
先週の祈祷会の聖書の学びの時に、飯塚教会のT牧師が来会され、この「言う」はヘブライ語で「ダバール」という原語で、「宣言する」という意味をもち、創世記の天地創造の折、神が光あれ、~あれと宣言され、そのとおりになった、出来事となった、ことを示す言葉と同じ言葉だということをおっしゃったのですが。
そのようにいわば、ユダは今から口にしようとしていることのすべては、神さまの力、お働きによるものであるということを、宣言しているのです。
この時点ではヨセフはまだ自分の素性を明かしていないわけですが、ユダはここで神さまの力、お働きによって自分がここに立ち、示されたことを明きらかにしているのです。
ここでユダが置かれている状況は、20年前と全く同じです。ユダと他の兄たちによって当時17歳のヨセフがあの荒れ野のほら穴に投落とされた時、ユダら兄たちによってヨセフの人生はまさに変えられてしまいました。そればかりでなく、ヨセフを溺愛する父ヤコブの人生をも変えてしまいました。
それから20年後の今、今度はヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンの人生がユダら兄たちの手に握られているのです。父ヤコブはヨセフを失ったとの思いから、末息子のベニヤミンを溺愛していました。ユダらはあの時のヨセフ同様、ベニヤミンを見捨てて父のいるカナン地方に帰ることも出来たのです。20年前に自分たちがしたことと同じように、帰って父に、弟はやむを得ない事情で失われました、と言うこともできるのです。このようにユダら兄たちは、20年前と同じ立場に再び立たされるのですね。
しかしこの同じ状況においてユダは、以前とは違っていました。
ユダはヨセフにこう言います。30節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子と堅く結ばれていますから、この子のいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのです。」
以前ヨセフがそうだったように、父ヤコブは今、兄弟の中でベニヤミンを溺愛しています。ヨセフに対してそうだったのと同じように扱っているのです。エジプトに食料を買いに行く旅にも、兄たちだけを行かせ、ベニヤミンは手もとに留めておこうとしたことにもそれが現れています。ですからヨセフと同様ベニヤミンも、兄たちの妬みを受けても当然なのです。
しかしユダは今、父のために何とかしてベニヤミンを連れて帰ろうと必死なのです。
「二度と父を悲しませない」ためにです。
そのために彼は、自分がベニヤミンの代わりに奴隷になります、とまで申出るのです。
あの20年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはこのユダ本人でした。
その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると申出たのです。
このユダに起った変化は何でしょうか?
それは「悔い改め」です。ユダは、20年前に自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から顧み、悔い改めているのです。
そのことは、42章でユダら兄たちがエジプトの大臣となったヨセフから、「お前たちは回し者(スパイ)だ」といいがかりをつけられ、「兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁する」と命じられた時に、ユダら兄たち互いにこう言っています。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(42:21)
この時すでに、神さまは彼らのうちに働きかけておられたということです。
また、ヨセフがユダたちに言いがかりをつけるため、末弟のベニヤミンの袋に銀の杯を仕込み、それがヨセフの家来に見つけられて責められた時、ユダは「神が僕どもの罪を暴かれたのです」(44:16)と言っていますが。
それはヨセフの杯を盗んだ罪がバレてしまったということではなく、このように無実の罪でベニヤミンを失わなければならなくなったのは、自分たちがヨセフに対して犯した罪を神さまは忘れずに暴き、裁いておられる、と言うことでしょう。
ユダはこの一連の出来事を通して、20年前に弟ヨセフに対して犯した罪を見つめ、父を悲しませたことに対して、本当に心から神さまの前で悔いているのです。
ユダは神の前に立ち返り、悔い改めたからこそ「二度と父を悲しませない」「二度と同じ過ちを繰り返すまい」と固く心に決め、自ら奴隷となって差し出すほどに変えられたのでのではないでしょうか。
このユダの変化、これは単なる状況の変化によって自然に起ったことではありません。たとえば年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではありません。
私たち罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間関係を築いていくことができるとするなら、これは人の精進や成長することによってではなく、神の前に立ち返り、罪を悔い改めることによってなのです。
その単なる後悔でない、神の前における本物の悔い改めのみが、私たちが新しく生き始めることができる路なのです。
何度も礼拝でお話ししてきましたが。今年の大阪教会の年間標語は「新しく造られた私たち」であります。コリント二5章17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」との御言葉からですが。
私たちはいつも、どこからでも、主イエス・キリストの十字架のあがないのもと神さまに立ち返って新しく生まれ変わり、新しい人生を始めることが出来るのです。その日々新しい人生が開かれていることは本当に感謝なことです。
ここまでヨセフの物語を読んでいく中で、神のご支配とご計画、そしてお導きということを深く思わされます。神さまは目に見えるかたちでは現れなさっておられません。
けれども、確かに、このユダを悔い改めに導かれ、「二度と父を悲しませない」との思いを起こさせているのは、今も生きてお働きなり、すべてを御手のうちに治めておられる活ける霊なる神さまによるのです。
そして、ユダら兄たちが、真に悔い改めて立ち返るのを忍耐をもって待ってくださっておられるのも神さまである、ということですね。
このヨセフ物語を通して語られています一つの大きなメッセージは、神さまのご計画、
お計らいとお導きによって、罪ある人間が悔い改めへと導かれ、それによって新しく生かされていく、そこにございます。
私たちも又、ヨセフ物語からこのことをしっかりと聞き取ってまいりましょう。
最後に、本日の礼拝の招詞として、コリント二7章9-11節が読まれました。
もう一度お読みして本日の宣教とさせて頂きます。
「あなたがたはただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」
私たちも又、ヨセフ物語からこのことをこそしっかりと聞き取り、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。
祈ります。慈愛の神さま、今日は「ユダの嘆願」のところからあなたのメッセージを共に聞きました。「二度と父を悲しませたくない」とユダがヨセフに嘆願することができたのは、あなたのお導きのもとにあって、過去の罪をあなた御自身の前に悔い改め、あなたとの真の和解をユダが得ていたからです。そのためにユダはベニヤミンに代わって、自分が奴隷に引き渡されてもいいと願いました。このユダのように、私たち罪深い者の歩みをも、どうかいつも、あなたのお導きのもとおいて、お守りください。そしてどうか、あなたにあって日々誠実に歩んでいくことができますよう導いてください。
私たちの平和の主、イエス・キリストの御名で祈ります。