礼拝宣教 Ⅰヨハネ手紙1章1~10節
先月、道頓堀のカニ料理店の店先においていた巨大なカニのオブジェが壊される事件がニュース等で流れましたが。先週新聞に、その後の顛末が大きく取りあげられており、要約するとこんなことが書かれていました。『カニ店を経営する社長さんは電話で事態を知った。「現実を受け止められなくて、しばらくオブジェに触ることもできなかった」。脚はバラバラになって散乱していた。「心がポキッと折れてしまってね。コロナにも勝てないかと思った」。事件後、「絶対に許せない」として、警察にも被害届を出し、防犯カメラの映像を報道各社に提供した。破壊行為を捉えた映像はテレビの報道番組などで繰り返し流された。オブジェが壊されてから3日後。社長さんの元に防犯カメラに映っていた2人が訪ねて来、「申し訳ありませんでした」と対面するなり土下座した。2人は最近まで同じミナミにある飲食店で働いていたが、3月末で解雇された。事件の当日の深夜、二人は落合い、ミナミで大酒を飲んだ。「どうして俺たちの仕事がなくなるんだ」。さんざん愚痴を言い合って店を出ると、酔いもあって気が大きくなった。 2人は過ちの経緯をカニ店の社長に全て告白し、オブジェの製作費を全額弁償した。社長の心境には変化が生じた。「この子たちもコロナの被害者で、自分と同じなのかも知れない。ただ怒るだけじゃ駄目かな」。そうして警察に出した被害届を取り下げた。4月25日、2人の姿は大阪浪速区のあるキリスト教会の礼拝堂にあった。クリスチャンであるこの社長さんが、「本気で償いたいなら、神の前でざんげしてはどうか」と、自身も定期的に通うこの地に誘ったからだ。讃美歌が流れる中、十字架に向かって両手を組んで目を閉じる2人。「人に迷惑をかける行為はもう二度としません」。心の中で何度もこう誓った。社長さんは「彼らの人生はこれから新たなスタートを切ってほしい」と励ました。2人は「今思い出しても苦しくなることもあるけど反省し続けるしかないと思っています」と話し、社長から「また会おうな」と肩をそっとさすられると、深々と頭を下げ、「将来社長のような人になって飲食店を切り盛りしたい」と夢を口にした』ということです。
この福音の力、罪の悔い改めとゆるしの和解に、何かと世知辛い今の世の中に光を見た思いでした。
さて、本日のヨハネの第一の手紙1章ですが。
同じヨハネが書いたといわれるヨハネ福音書1章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されています。それは、今日のヨハネ第一の手紙1章の「命の言」「わたしたちに現れた永遠の命であるキリスト」、さらに「神は光であり、神には闇が全くない」「神は光の中におられる」という記述とも共通のメッセージとして響いてくるものであります。
まず、キリストとは、どんなお方かいうと。「初めからあったもの」、天と地が創造された時すでに存在しておられる方であり、すなわち、永遠の神であられるということです。
さらにキリストは、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの」、すなわち弟子たちが実際に出会い、触れ合うことのできるお方として、肉をとって人となり、世界とその歴史の只中に来られたという事実。そうしてこのお方はその命によって世の罪を贖い、死より復活された生ける神の子、救いの主、キリストであられるのです。ヨハネはその自分たちが見、また聞いた、生けるキリスト、永遠の命キリストを、改めて伝える目的を語ります。それは、「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあるように、キリスト者の信仰生活に不可欠な主イエス・キリストにある信徒の交わりについてです。それはキリスト者が神との交わりを継続するため欠くことの出来ないも
のものであるからです。
本書はその実際が如何なるものであるか、又、どのように捉え、どのように思いを持ち、どのように交わりを保つべきかを教えているのです。主を信じる人々は、肉眼でイエス・キリストを見ること、手で触れることができなくても、主にある交わり(コイノニア)を築いていく中で、キリストの命に与る者とされていくということです。ここでの「交わり」とは、その原意、元の意味は「分かち合う」とか「共有(シェア)する」ということです。
たとえ、キリストを肉眼で見ること、手で触れることができなくても、主にある交わりを通して、キリストの命に共に与れる喜び、感謝、恵みに溢れる経験をすることができるのです。それは単に都合の良い楽しみや仲間づくりのためでなく、キリストにある命の奥深さを知り、共に真のキリスト者として建てあげられていくための関係性です。そこで学ぶのは人の愛にまさる神の愛であります。キリストの命に共に与って生きる。これこそ著者ヨハネの「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と言った目的なんですね。
今、コロナ禍で教会に集まることができず悩ましい日々が続いていますが。友愛委員から互いに祈り合う課題を出し合った「祈りの表」が作成されました。毎日およそ6名から7名の人が自分のことを覚え祈ってくれる。また私も主にある兄弟姉妹の祝福を主の名によって祈る。それは素晴らしい励ましであり、霊性が培われる場となるでしょう。こういう時だからこそ、共に祈りを共有することで、キリストの愛の内に留まる実践となすことが、ひいては主の恵みと御業を見せていただく喜びにつながっていきます。世にはなき平安を得る時とされていきたと願います。
聖書に戻ります。5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」
ここには神のご性質が「光」であるということが語られています。闇はすべてを隠し、見えなくしてうやむやにします。しかし光はすべてを明らかにしま
す。後の文脈から見ると、闇は罪を表し、神の「光」のご性質は全き「清さ」だと考え
られます。 そこでヨハネは問いかけます。これは主にある共同体に向けての問いかけであります。 6-7節「わたしたちが、神との交わりを持っているといいながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
ここでの重要なことは、「わたしたちが光の中を歩く」ということは、「互いに交わりを持つこと」だということです。つまり御子イエスの血による罪の贖いに与り、全き清めと神との交わり与ったキリスト者は、主にある隣人との交わりに努めて歩むよう招かれているということです。ヨハネが呼びかけているように、主のもとに和解に与って共に生きるキリストの光の共同体としての交わりです。
8-10節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」
自分は正しいと正当化や絶対化をする時、その人はもはやゆるしの救いを必要としていません。逆に神から、本当に自分がゆるされていることを知る人は謙遜にされ、人を裁くことから自由にされます。光の中に歩む者は、自らも絶えず神の前に罪を告白し、悔い改めざるを得ない者であることを知っているのです。そこに起こされてくるのは、「罪の悔い改め」と「ゆるし」という関係性、すなわち神と人、人と人の交わりです。ここに「光の中を歩む」というキリスト者としての真実の証しが立てられていくのです。
ただ1つ注意したいことがあります。それは9節に「自分の罪を公に言い表わすなら」とあることです。この「公に」は原文にはなく意訳です。むろん明らかな他者への不当な言動があり、それに対する教会の忠告と共に本人が気づきと反省を持つ時、相手が謝罪を受け容れるならそれは素晴しい和解の出来事となります。けれどここでヨハネが教えるのは告解、つまり神の前で神に対して罪を言い表わし、ゆるしを得ることです。それぞれの状況、言い分がありますが。正しく裁くことのできるお方、罪をゆるす権威をお持ちなのは唯神だけです。
キリストス者はそこで何よりもまず、神の前で自らがどのようであるかを知り、罪を言い表わす、告解し、立ち返って新たに生きる決意をする時、神はゆるし、清められた人生へと連れ戻してくださいます。キリストの共同体は新たにされたその人の言動を喜びとするでしょう。こうして神と私たちとの真実の交わりが、光の中を歩み御子イエスの血によってあらゆる罪から清められるという信仰の証が、キリストの共同体を通して立てられていくのです。
冒頭にカニ店の社長の話をしましたが。社長は「本気で償いたいのなら、神の前でざんげしてはどうか」と誘い、罪を悔いる2人は神の前に罪を告白して、二度と人に迷惑をかけるようなことはしません、と何度も神に誓ったとありました。社長は「折れた心は同じ」と言ったそうです。
本日は「光の中を歩む」と題して、お話をしました。神の前に心砕かれた者の内には、一点の曇りのない神の光が射し込み、清々しい神との交わりと平安が臨んだのではないでしょうか。キリストの教会、そして私たち一人ひとりへの招きとして御言葉を受け取ってまいりましょう。