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イエスが歩まれたように

2021-06-13 12:25:49 | メッセージ

礼拝宣教 Ⅰヨハネ手紙2章1~11節 

本日はⅠヨハネの手紙2章1-11節から「イエスが歩まれたように」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

先週は1章より「光の中を歩む」という視点で、「御子イエスの血による清め」「神の前における罪の告白」「ゆるし」、そこに神との和解、さらに人と人との交わりの回復が起こされ、光の中を歩み続ける者とされるのだというお話しでありました。

本日の冒頭でヨハネは、「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」と記しています。

ここの「弁護者」と訳されている原語のパラクレートスは、真理の霊、慰め主、聖霊とも訳されますが、もともとは「誰々と一緒に呼び出される」というのが原意、もとの意味です。つまり、たとえ罪を犯してしまったとしても、神の裁きの御前に、私と一緒に呼び出されるお方、弁護者なるイエス・キリストがおられる、ということであります。まあ一般的な弁護士でしたら、被告の無罪を立証しようするわけです。ところが弁護者なるイエス・キリストは、神の前に申し開きのできない罪人、滅びの宣告を受けるしかない者と共に呼び出されて、御自ら罪人の身代わりとなられるのです。主が死の判決を受けて処刑されることで、罪人は断罪されることなく解放されるのです。それはただの弁護者の域を超えた、まさに救い主であります。

キリスト者はこのイエス・キリストの罪の贖い、驚くばかりの愛によってゆるされ、生かされているということを忘れることがあってはならないのです。私たち人間は主の御救いに与っていながらも罪を犯すということがあります。無意識、無自覚であったとしても人を傷つけたり躓かせたりしていることがあります。逆に、人の言動に苛立ち、傷つけられたと感じ、ゆるしがたい思いになることもあるかも知れません。人はほんとうに弱いものです。関係性は損なわれ、心は沈んで暗くなります。しかし主はそのような私たちを再び光の中を歩むようにと受け入れ、正しい道に導こうとしていて下さるのです。大事なことは、日々主と向き合い、御言葉に聞き、心を開いて主に従い生きるということであります。

それは、日々罪の古い性質に死に、罪ゆるされた者として新たな命に生きる道、光の中を歩むとはそういうことです。主は私たちがそれを見出し続けるようにと、兄弟姉妹、主の共同体、教会をお造りになって導いておられるのです。

ここにイエス・キリストは「全世界の罪を償ういけにえです」とありますが。それは言い換えれば、すべての人、どんな人のためにもということです。

ヨハネ3章16節に「神は、その御独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが。そのような寛大な神の愛を受ける者にふさわしく光の中を歩み、今の混沌とした先行きの見えない世界、神に逆らう力と勢力が働く世にあって、神の救い、神の愛と共にあるものとされていくことを願い祈ります。

 

さて、そのような私たちに、続いてヨハネは「神の掟を守ること」について記します。3節「わたしたちは神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。」

ヨハネは、私たちが「神の掟」を守っているなら、それによって「神を本当に知っている」ということが分かる、と言うのです。ヨハネはまた4節「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人のうちには真理はありません」と断言します。

ではその「神の掟」とは具体的に何でしょうか。続く5節では、その神の掟を「神の言葉」を守るなら云々とあるように、「神の言葉」と言い代えてます。実にこの「神の掟」「神の言葉」とは、十字架を前にしたイエスさまがお語りになった告別説教に語られたイエスさまの「掟」であり、その「言葉」でありましょう。

この時のヨハネの念頭にあったのは、ヨハネ福音書13章にあります最後にイエスさまが弟子たちの足を洗われた出来事であったでしょう。弟子たちの足を洗われた後、イエスさまは弟子たちに向けてこう言われました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたにするようにと、模範を示したのである。」

イエスさまの洗足で気になりますのが、銀貨でイエスさまを売り、裏切るユダの足をも洗われたということです。3度イエスさまを知らない、仲間じゃないと否んだペトロもそうです。イエスさまを置いてけぼりにして弟子たちは皆逃げて行ったのです。そうなることは分かっていたけれども、イエスさまは彼らを愛しぬかれ、その足を洗われたのです。そこでイエスさまは、「新しい掟」について語られます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13章34節)

逃げ去り、裏切り、見捨てて散り散りばらばらに去って行く弟子たち。それでもイエスさまは全身全霊をもってすべての弟子たちを愛し、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これこそ新しい掟であるとおっしゃるのですね。

ヨハネは今日の3節でこう記しています。「神の掟を守るなら、それによって神を知っていることが分かる」。この分かるというのは単に知識として知っているというのとは違います。自分の体験としてほんとうに知っているということです。それは5節の「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」の「実現している」と同様です。ヨハネは「これによって、私たちがほんとうに神の内にいるかどうかが分かる、と言うのです。

その「新しい掟」について、ヨハネはさらに7-11節「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」

ヨハネは6節で「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければならない」と記します。

まさに、弟子たちの足を洗われたそのイエスさまに倣って歩む。そのように歩み続けることによってこそ、この罪深く弱き私たちもまた「神のご性質」に与らせていただくものとされるのです。

先週は「光の中を歩む」という宣教題でした。今日のところにも「イエスが歩まれたように自らも歩む」と、「歩む」ということが繰り返されて語られています。

この「歩む」というのは、立ち止まらないということです。たゆみなく淡々とそうあり続ける。そのように努め続けるということです。ウオーキングはとても体にいいですね。認知症や心が疲れ、しんどさをおぼえる方も歩くといやしの効果があるそうです。走らなくてもいい。ゆっくりと足を軸にからだを動かすと、全身によい刺激が与えられ諸所のからだの器官、脳も内臓なども活性化されるそうです。歩行が難しくなったり、床から起きられない方も足を動かすリハビリ、マッサージをする病院等も多いようですね。

主イエスによる新しい命を頂いて、信仰の歩みもひと足、一足。足が汚れたら互いに洗い合い、ゆるしゆるされ励まし支え合い、イエスさまが歩まれたように互いに愛し合う主にある交わり、教会・エクレシアを志してゆきたいですね。

キリスト者の地上の歩みも、年齢とともに体は衰え、歩くことさえ困難になるかも知れません。しかし、その有限的な私たちが今日の「主の掟とお言葉」に応えて歩み続けるなら、17節「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」とのこのうえない祝福に与るのです。永遠の命イエス・キリストにあるかけがえのない交わりを保ち、本物の祝福、光の中を歩む人生を受け取っていきたいと願います。歩み遅く、立ち止まり、しゃがみ込もうとも、手本を示し、手を引き、ほんとうに歩けなくなったら背負ってでも歩んで下さる主イエスがおられます。今週もイエスさまに倣う歩みをなしてまいりましょう。

 

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