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希望の言葉

2024-11-17 14:06:47 | メッセージ
礼拝宣教  エレミヤ32章6-15節、36-44節  

「希望」とは何でしょうか。「実現を待ち望むこと。」です。私たちの日常においても「希望」があるから生きることができます。当座の目標や目的を立て、それに向かって努めています。Gemiさん、Eimiさん夫妻が12月に日本語の検定試験を受けられるとのことです。みなさんもお祈りに覚えてください。お二人はきっと、希望をもってその実現を待ち望んでいることでしょう。私たちはそれぞれに人生の課題やその時々の困難があるかと思いますが。「希望」が生きるうえで大きな力と支え、元気の元になっているといえるでしょう。
本日はエレミヤ書32章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

ユダの民の都であったエルサレムはバビロンの軍隊に包囲されるのです。そのような中エレミヤはユダの王宮にある獄舎に拘留されていたのです。それはエレミヤがユダの王に「バビロンと戦っても負けるので止めなさい」との主の言葉を語ったため、それに反感を抱いた王がエレミヤを拘留したのです。このような絶望的な状況の中で、「伯父の子ハナムエルの畑を買え」という主の言葉がエレミヤに臨みます。(32:6-7)
エレミヤがそうした中でも主の言葉を敏感にキャッチできたのは、たえず主と相対してきたからです。人からは理解されず反感を買うような時も、又、投獄という不条理ともいえる境遇の中でも、彼は主に相対して祈り、訴え、嘆きつつも、同胞の民のために執り成し続けたのでした。そうした神との関係性を保っていたエレミヤに、主は御言葉をお与えになるのです。
彼はエレミヤ書15章16節でこう言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」。
どんなに神の御心を伝えても、世間は彼の言動を理解しようとせず、エレミヤは涙の預言者と言われていますが。彼はその中で主の御言葉を切に求め、主に依り頼み、主を望みとして希望を抱き、生きたのです。
それにしてもユダの全土が間もなくバビロンの手に渡るような中、しかも監禁されているような時に、一体だれが「畑を買う。」そんなことをするでしょう。一体何になるというのでしょう。それが常識というものです。
そういう中、主のお言葉通り、親族のハナムエルがエレミヤの監禁されている獄舎に来て、「アナトトの畑を買ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください」と申し出たというのです。
こうしてエレミヤは主のお言葉どおり、ハナムエルからその畑を、銀17シュケルを量って買い取り、購入証書をもって契約を完了することになるのです。(32:6-12)
それにしても一体なぜ主は、そのようなことを命じられたのでしょう。
獄舎に囚われているエレミヤがその畑の所有権を持つことは、この後ユダの地がバビロンの支配下におかれたとしても、やがてはユダの民が再び帰って来て、それを所有するようになる。そのような回復の実現を象徴的に表していました。しかもそれは「神の新しい契約」でした。先週も申しあげたように、神の契約には神の熱情の愛が伴います。罪にまみれたユダの民を神は正しく裁かれますが、主は熱情の愛をもってなおも愛し、再びその地に連れ帰り、これを与えると言われるのです。この約束の言葉は、やがて土地を奪われ絶望的状況に陥ったユダの人々の希望となっていきます。

私たちは苦難に遭い自分ではどうすることもできない時にどうするでしょうか。聖書は、主の御言葉の約束をにぎりしめ、決して落胆せず祈り続けるようにと奨めています。そこから主との信頼は築かれ、希望と平安に生きる確かな道が拓かれていくのです。日ごろから主との信頼関係を築いていくことが大切です。そうでないと、いざ何か起こるとすぐにつまずき、祈ることも出来なくなります。主イエスは、「暗闇に追いつかれないように光のあるうちに歩みなさい」(ヨハネ15:34)と言われました。暗闇に追いつかれないように、主と共に生きていることが大事です。自分の力が尽きて、どうすることもできないような状況になった時に祈りを知らず、生ける神の御言葉を思い出せず、主の御手の業に期待できないなら本当に残念なことです。主はすべてをご存じのお方ですが、私たちがそこで主と向き合うように語り合うように祈る。その生きた関係性をもたなければ、何も始まりません。高慢になって自分のことぐらい自分で出来る。放っておいてくれ、と考えている間は、主がいくらお語りになっても、それをキャッチすることができないのです。主は、心砕かれ、主を呼び求める者の声を聴き分け、御許に引き寄せてくださるのです。祈り求める者に生きた御言葉をお与えになります。エレミヤのように私たちも、主の御言葉をキャッチできる心を持ち続けたいものです。

さて、畑の売買契約後、エレミヤはその証人たちとそれを見ていた獄舎の全てのユダの人たちに主の言葉を語ります。
14節、15節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イエスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」。
主なる神は、バビロンの侵攻とその捕囚後、長い時間を経たのちに、捕囚の民はユダの地に帰還し、家や畑を再び買うようになると告げられました。その預言の象徴的行為として、エレミヤはこの荒れ果てたぶどう畑を買い取るのです。それはその場に立ち会った人たちの記憶にしっかりと刻まれたことでしょう。それが後の世のユダの人々の希望となっていくのです。


本日のもう一箇所の37‐42節を見てみましょう。
そこにも破壊されたエルサレム、ユダとその民を主が回復される約束が預言されています。
ユダの民は神が語られた言葉への背信と罪のゆえに、剣と飢饉と疫病により破壊され、バビロンの王の手にわたされていました。多くの人々がその破壊されたエルサレムに、もはや回復の余地はないと考えます。しかし主は何といわれるでしょう。
37-38節「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰られ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。
これは驚くべき神のご計画です。神はユダの民が悔い改めの後、民を新たにされるのです。

その回復の約束は、第1に、「約束の地への帰還」です。
神でないものを神として拝み、忌むべき行いを止めず、神の強い怒りを引き起こしたユダの民。彼らは神の裁きとして約束の地から追われ、諸国に散らされますが。しかし主は、その散らされた民をすべての地から集め、再び約束の地に帰らせ、安らかに住まわせようと、約束されるのです。
第2の回復の約束は、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と語られます。
罪による裁きによって国を失い、散らされたユダの民。しかし主はなおも、その民を背信の滅びから救い出し、新しい契約を結ばれるのです。
主は39節で、「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とによって幸いとなる」と語られます。
主は民の心を新しくされます。それは民の内面的変化、覚醒による神との関係性の回復です。ユダの民が罪に陥ったのは、神への背信と忌むべき行いからでした。しかし、後に主に立ち返り、悔い改めと救いを待ち望む日々を通して、主は彼らに「一つの心と一つの道を与え」、主の御心に生きるようにされるのです。
主は40節で、「わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることがないようにする。」と語られます。
主の裁きは、民を滅ぼすことが目的ではありませんでした。彼らが主に立ち返って「主の民となり、主が彼らの神となる。」しかもそれを「永遠の契約」として結び、神の民の世々の子孫に恵みを与えてやまないとまで仰せになるのです。これこそ天地を創造され、私たちのいのちの源であられる主なる神さまの望まれる御心なのです。
さらに41節で、「わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いを下したが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」。と仰せになります。
ちなみに口語訳では、「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心を尽くし、精神を尽くし、真実をもって彼らをこの地に植える。」となっています。何と、ユダの民が神さまに対して心を尽くし、精神を尽くしてということではなく、神さまご自身が「心を尽くし、精神を尽くし」て彼らを約束の地に植える、との回復をなさるというのです。それは42節で、主が「かつてこの民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。」とありますように、ユダの民の罪を神は、厳格に裁かれ、懲らしめをもって臨まれるのでありますが。主が心に望んでおられることは、主御自身が彼らのために心を尽くし、精神を尽くして、回復を与えると仰せになられるのです。神の愛はその民に対してどこまでも誠実で変ることはありません。その主の誠実な愛は、キリストにより神の民として接ぎ木された私たちに対しても変わることはありません。

さて、ここまでエレミヤを通して主が語られた「回復の約束」の言葉を読んできました。
43節以降には、ユダの地の全土で人々はまた畑を買うようになる。と主は回復の予告をされます。それはユダの全土で見られるようになるというのです。その最初に回復される土地をエレミヤが売買契約したアナトトの畑のあったベニヤミン族の地であると告げられています。
ユダの民はバビロンの捕囚から解放され、約束の地に帰還が適ったとき、再びエレミヤが先に買い取ったアナトト畑があるベニヤミンの地をはじめ、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々などで畑を買うようになるのです。エレミヤが主のお言葉通り、荒廃していたぶどう畑を買い取ったのは、人々が絶望の中で主の言葉に希望を見出して生きるためでした。
ヘブル人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」とあるとおり、彼らはエレミヤを通して示された神の言葉を希望として待ち望み、遂にその実現を確認するに至るのです。

私たちはどうでしょうか。いかに揺さぶるような出来事が起りましても、神が与えて下さる救いと命のことばを確信し、確認の日々をもって希望としているでしょうか。
今日の世界をとりまく状況、この日本の状況も、このエレミヤの時代のように「国々は騒ぎ立ち、地の面は揺さぶられている」事態といえますが。これを主イエスは「生みの苦しみ時」(マタイ24:8)と言われました。それは大変厳しく困難苦ともいえます時代の中にあっても、主が再び来られるという、主の来臨の希望が語られているのです。今、与えられたわたしたちの命の日々が、その希望の実現に向けた歩みとなりますよう、祈り求めてまいりましょう。
お祈りします。
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