礼拝宣教 Ⅱコリントの信徒への手紙5:16-21
高田ゆかり(平野バプテスト教会派遣伝道者)
私は平野区にあります、平野バプテスト教会の会員で高田ゆかりといいます。私の夫は3月まで平野教会の牧師でありましたが、体の不調の理由から3月いっぱいで牧師を引退しました。私は38年間牧師の連れ合いとして過ごしてきましたが、この4月から派遣伝道者として用いていただいています。派遣伝道者って何?と思われると思いますが、今日のように牧師がご用で不在だったり、ご病気だったり、休暇だったり、また無牧師の教会などに派遣されメッセージを語るという働きです。まだなりたての新米のほやほやです。今から約40年前に神学校を卒業し、長い長いブランクを経ての働きになりますので、いろいろ不十分な点はあるかとは思いますが精一杯務めたいと思います。
新しい年度が始まって2か月と少し経ちました。私の在籍する平野教会では先月やっと総会も終わり、もうすぐ新しく赴任される牧師を迎えようとしています。そして今年は創立50周年を迎える年なのです。50周年というだけで何かソワソワするようですし、新しく牧師先生をお迎えするという事も重なって、周囲の全てが新しくなったような気もします。が、しかしそういう気がするだけで、実は昨日と今日とでは何も違ってはいないのです。私たちが生きる現実はあまり変わることはありません。私たちが日ごろ背負っている重荷、苦しみ、悲しみは無くなる事もなく日常は続いているのです。
「古いものが過ぎ去り新しいものが生じた」今日の聖書の個所のように、こんな風に声高らかに言えたらどんなにいいでしょうか。しかし、パウロがこのように言っているのは、彼を取り巻く周囲の状況がすべて順調だったからではないのです。何かが一新されて変わったからでもありません。それどころか、パウロを取り巻く状況はとても厳しいものでした。パウロに大変批判的だった人もいましたし、陰口をいう人もいましたし、散々な目にあうことも多く大変に苦労したようです。
今日の聖書の個所、16節前半をお読みします。「それで私たちは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」
それで、とありますように16節は、前の文章を受けて記されています。16節の前、14-15節で、パウロはこう記しています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とあります。私たちは自分自身のためだけではなく、私たちに代わって死んで復活された方のために生きるものとされた、このように考えると、今後は誰をも肉に従って知ろうとはしない、このようにパウロは記しているのです。自分のためではなく、自分に代わって死んで復活された方のために生きるキリスト者は、人を評価する基準も変わってくるということです。肉に従ってとは、人間的な基準によってということです。パウロは今後だれをも肉に従って知ろうとはしないと記しましたが、これは積極的に言えば今後はだれをも霊に従って知ろうということであります。このことは、パウロがコリントの信徒たちをどのような者として知っていたかを考えるとわかります。肉に従ってコリントの信徒たちを判断するならば、彼らは決して聖なる者たちとは言えませんでした。
コリントの信徒への手紙の第一を読むとよくわかるのですが、イエス様が世を去ってから20年以上もの月日が経った頃の教会は様々な主張が入り乱れ、派閥ができ優劣を競いあっていました。パウロを中傷する者もおりましたし、信仰の弱い人につまずきを与えるような人たちもおりました。十字架の言葉ではなく人間の能力や知恵を誇り、そして崇拝するようになっていったのです。そのような問題だらけのコリントの信徒たちに、パウロはなんと言ったでしょうか。「あなたたちはそれでもキリスト者か、キリスト者失格だ」などとはいいませんでした。パウロはコリントの教会にこのように書き記したのです。
コリントの信徒への手紙第一1章4節-9節まで少し長いですがお読みします。
「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証があなたがたの間で確かなものとなったので、その結果あなたがたは賜物に何一つ欠けることころがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招きいれられたのです。」とあります。
なぜ、パウロは問題だらけのコリントの信徒たちにこのような言葉を書き送ったのでしょうか。それは、パウロがコリントの信徒たちを肉によってではなく霊によって知ったからなのです。パウロはイエス・キリストを信じない人たちを肉に従ってではなく、霊に従って知ろうとしていたからです。パウロはイエス・キリストを信じない人たちの行き着くところは滅びであることを知っていました。ですからパウロはだれよりも熱心に福音を宣べ伝えたのです。
今日の聖書の個所に戻ります。「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」パウロのこの言葉は先ほどもお話したようにパウロの取り巻く状態が改善されたので言ったわけではありません。17節に「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。キリストと結ばれる、そのことによってわたしたちは新しく創造された者となる、そこにパウロのいう新しさがあるのです。キリストと結ばれる、以前の口語訳聖書では「だれでもキリストにあるならば」となっていました。キリストにある、キリストに結ばれる、これはどういうことでしょうか。キリストにある、これは英語で言うと、「イン クライスト」キリストの中にあるという言葉です。キリストの中に包まれる、すっぽり入ってしまう、こんな感じでしょうか。パウロは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。パウロはキリストの中にあって、中からキリストを知るというのです。反対に外から知るというのは、それが「肉に従って知る」ということです。人間としての、目に見える外面的なところにおいてのみキリストを知ることです。パウロ自身も以前はそのように肉に従って外からキリストを知っていたのです。それは、ダマスコへ向かう途中で復活された主イエスとの出会いがある前のことです。それまでパウロは救い主メシアとは、昔のダビデ王のようなイメージ、イスラエルの民のために勇敢で異邦人である敵を打ち破る、イスラエルに繁栄をもたらす英雄としてのキリストのイメージでしょうか。
そして人間の基準でキリストを評価し、その弟子たちを迫害していたのです。そして、それはまたイエス・キリストを信じない多くのユダヤ人たちもそうでありました。イエス様は最高法院によって神を冒涜する者と判断され、ポンテオ・ピラトの手に引き渡され十字架にかかり死なれました。十字架につけられた者は神に呪われた者と考えられていました。旧約聖書の申命記21章22節にこう記されています。
「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」とあります。パウロは、神様に呪われて死んだ者が、約束のメシア・救い主であるはずがないと判断して、十字架につけられたイエスは、救い主メシア、キリストであると主張する人たちを、パウロはそんなことは救い主キリストの栄光を汚し、神様を冒涜する教えで許しがたいと思い、そのように信じて宣べ伝えている教会やキリスト者たちを迫害していたのです。つまり、パウロはサウロと言われていた当時、キリストのことを自分は知っていると思っていた、キリストはこんな方だというイメージを抱いていたのです。少なくても木の十字架にかかって死んだ、こんな方ではあり得ないという確信を持っていたのです。しかし、その知り方がまさに、肉に従っての、外からの知り方だったのです。しかし、そのパウロが肉に従ってではなく、霊に従ってイエス・キリストを知ることになるのです。
そのことが使徒言行録の9章に記されています。1節-9節までをお読みします。「さてサウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら男女問わず縛り上げエルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然天からの光が彼の周辺を照らした。サウロは地に倒れ「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」呼ばれる声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 このように彼は、ダマスコの途上において、復活された主イエスと出会いました。そしてその後パウロは肉に従ってではなく、霊に従ってキリストを知るものとされ、そしてキリストを宣べ伝える使徒として召されていくのです。キリスト者を迫害していた者が一転してキリストの伝道者となったのです。十字架にかけられた主イエスこそまことのキリスト、救い主であられる事を示していったのです。その時彼は、キリストについて、救い主について、全く新しい知り方を与えられました。自分の思いによって、自分の考えや、期待や、望みによってキリストを理解し、判断し、知るのではなく、むしろ神様ご自身の思いによって、そのみ心を内側からキリストを知るようになったのです。その時パウロに何が見えてきたでしょうか。それをパウロは14、15節で語っているのです。「わたしたちはこう考えます。一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んで下さった。その目的は生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
「一人の方がすべての人のために死んで下さった」主イエスは私たちすべての者のために死んで下さった救い主であられる。そのことが見えてきたのです。そして、主イエスが私たちのために死んで下さったことによって、私たちも死んだ、それは、私たちももう生きられないのだということではなくて、古い自分が死んで、主イエスが復活されたその復活の命にあずかる新しい自分を生きるということです。そのために主イエスは死んで下さったのです。この主イエスの十字架と復活によって、私たちは「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」者とされている。それが新しい自分です。つまり、私たちは、私たちのために死んで下さったキリストによって新しく生きる者とされたのです。このキリストを知ること、それが肉に従ってではなく、キリストと結ばれる者として、キリストの中にある者としてキリストを知ることです。それによって、私たちは新しく創造された者となる。古いものは過ぎ去り新しいものが生じたというのは、このことを言っているのです。このことにおいて働いているのはキリストの私たちへの愛であり、キリストを遣わして下さった神様の愛であります。
私たちは、この神様の愛に包まれていて、その中で生かされている、それがキリストと結ばれる、キリストの中にあるということです。このキリストの愛に包まれることによって私たちは、新しくなるのです。自分のために死んで復活して下さった方のために生きる者となるのです。それは具体的にどういうことか、それが18節にこのように語られています。
「これらはすべて神から出ることであって」これら、とは私たちが霊に従ってキリストを知る者とされたこと、また私たちがキリストに結ばれて新しく創造されたことをさしています。これらはすべて神様がして下さったことであるのです。その神様がキリストを通して私たちをご自分と和解させ、和解のために奉仕する任務を私たちに授けられたのです。
神様が示してくださった和解は、神様の側からの一方的な行為、十字架の死という形でなされました。私たちの罪のために破れてしまっていた関係を回復して下さったのです。神様が和解の手を差し伸べて下さっているので、私たちはそれを感謝して受け取ることができるのです。和解という言葉でここで大切なのは、先ほども言いましたように、神様が人間の罪を何ら問うことなく示されているものであるということです。お互いに争いやもめごとがあった時に、歩み寄ったとか、譲り合ったとか、妥協しあったとかいうものではありません。神様と人間がお互いに非を認めて歩みよるこういうことではありません。全くの神様からの一方的な行いなのです。パウロは「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられた」と記しています。私たちはイエス・キリストによって新しくされ、神様との和解を与えられたことによって、その和解の言葉を携えてそれぞれの生活へと、そこで出会う人々のもとへと遣わされていくのです。「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」とはこのことです。新しいものが生じたといっても、最初にも少し申し上げたように、私たちが生きている現実は大きく何か変わるわけではありません。負っている苦しみはなかなか無くなるわけではないし、急に豊かにされる訳でもありません。しかし、その中でも私たちは確実に新しくされていくのです。和解の使者として遣わされる私たちができることは、一所懸命に良い行いをするように努力するとか、勉強して資格を得るとか、そういうことではありません。ただ、主イエス・キリストが私のために死んで復活して下さったことを信じて、この方のために生きる、そのことです。和解の言葉を委ねられて、和解の使者として生きるなんて難しそうに聞こえるかもしれませんが、キリストの中にあるものとして、その愛に生かされている事を知るものとして、他の人々のことを見つめていくこと、キリストがこの人のためにも死んで下さった、そしてこの人のためにも復活して新しい命に生かそうとしておられる、そのことを常に覚えて人と接していく、そのことです。そして、それが誰をも肉に従って知ろうとしないということです。
そして和解のために奉仕するとは、この和解の言葉が公に語られるこの礼拝こそが和解のための最もたると言えるのではないでしょうか。ですから、今日こうして礼拝をご一緒しているみなさん、またここに来ることは出来なかったかもしれませんが、礼拝を覚えて祈り支えて下さる方々、お一人お一人が和解の言葉を委ねられたキリストの使者として、それぞれの生活の場に派遣されていくのです。
どうぞ、この新しい一週間が主によって愛されていることを実感する時がありますように。誰かとの出会いの中でその方を思う時、この方のためにもイエス様の十字架の出来事があったことを思い出せますように。何も良いことはなかった、体や心の不調があった、その時にその苦しみの中であなたのその苦しみを一緒に味わって下さった主の存在を知る時がありますようにと心から願います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます