日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の恵みによって

2024-06-23 18:26:27 | メッセージ
礼拝宣教 Ⅱコリント8章1-9節、9章6-8節 

本日の6月23日は「沖縄慰霊の日」、私たちはこの日を「命どぅ宝の日」として覚えております。その主旨については週報の巻頭言に書いております。
沖縄戦の惨禍を心に刻みつつ、今の現状のことを心に留め、沖縄をはじめ、世界各地で起こっている戦争と紛争の即時停戦のために続けてお祈りください。
さて、私たちの日本バプテスト大阪教会は日本バプテスト連盟に加盟しています。全国には315のバプテスト連盟の諸教会と伝道所があります。その中で関西地方には36の関西地方教会連合に連なる教会と伝道所が協力関係をもっています。この関係は何か教団教派から指示を受けるというトップダウン方式ではなく、それぞれの教会がバプテスト連盟とつながりながら、互いに覚え合い、祈り合う関係を大切にしているのです。それは教会が風通しよく健全な信仰が保たれるため、また課題や問題が生じた時の助けともなります。また1つの教会では世界伝道や献身者を世に送りだす働きは難しいことですし、災害等に対応した慈善の活動も大きなことはできません。それが連盟や連合のつながり、ネットワークを活かして実現され、継続されていることも、うれしいことです。

本日は久しぶりにスティブン・クンケルさんが来会されました。現在は正式に宣教師となって日本の地に再び遣わされて、東京を中心にそのお働きなさっておられます。今日は何とご両親と共にこの礼拝にご出席くださいました。心から歓迎いたします。お父様は南部バプテスト宣教団の派遣宣教師として40年間以上南米の3カ国において尊いお働きをなしてこられました。私たちのこの大阪教会は、1950年、今から74年前、アメリカ南部バプテスト宣教連盟のギレスピー宣教師はじめ、貴連盟の諸教会からの尊い献げものによってこの天王寺の地における伝道が開始されました。そうしてこの地に初代の教会堂が献堂されたのです。ました。まさに、その南部バプテスト連盟の方々によると祈り、その尊いご支援と献金によって、今があるということを感謝しています。

本日読まれました箇所は、当時貧しかったエルサレム教会のことを覚えて、異邦人の諸教会が自主的に献げ物を募り、支援して来たその報告と、その献げものについてのお勧めの記事です。
こうした教会相互の支援は、申しましたように私たちの教会が受けて来たものであり、私たち教会の信仰の先達はじめ、私たちも献げてきたものであります。福音の恵みはこのように多くの人の祈りと献身、奉仕や献げものを通して受け継がれてきたのです。
パウロはまず、コリント教会の信徒たちに対して、この働きをどのように励むべきかを示すために、マケドニア地方のフィリピやテサロニケの諸教会がエルサレム教会に行っていた支援を紹介します。
その8章1-6節で、パウロはその働きを「神の恵み」「神の業」なのだと言っています。慈善の業と訳されているのは、正しくは恵みの業です。
2節には、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」とありますが。
この「貧しさがあふれ出る」とはどういうことでしょう。
このマケドニアの地方は、肥沃な土地に豊かな天然資源に恵まれた地域であったのですが。当時ローマ帝国の支配下にあったため、人々はすべての資源を採取する権利が奪われるなど搾取され、貧しい生活を余儀なくされていました。又、政治的な迫害を受け、過大に税をかけられていました。さらに、キリスト教会の信者たちはそれらに加えてユダヤ教徒たちからの迫害を受けていたのです。
それにも拘わらず、彼らは「満ち満ちた喜び」が「あふれ出て」、「惜しまず施す豊かさとなった」。そこには、試練や極度の貧しさの只中でこそ、共におられるキリストを見出した人たち、「神の国」に属する人たちがいたということです。
豊かな中から溢れ出てというのは、誰でもわかります。けれども、困難や貧しさを知るからこそ、、あふれ出る。これが「神の恵みによる」豊かさであります。
その豊かさによって、同じく激しい苦しみと貧しさの中にあったエルサレムの教会と神の恵みを分かち合おうとするマケドニアの諸教会。常識的に考えますと、貧しく困難もあれば他者のために、何ができるとは思えません。けれども彼らは神の恵みによる福音の力に満たされて、同胞の痛みや苦しみにも思を寄せることが出来た。彼らは真の豊かさを見出す者となったのです。
彼らの豊かさについてパウロはこう述べます。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
イエス・キリスト御自身が私のために貧しくなられた。この恵みを覚えるたびに、私たちは豊かな者とされていることを思い起します。

ここに、マケドニアの諸教会の献げものは、「人に惜しまず施す豊かさとなった」とありますが。
この「豊かさ」も献金の額が大きいとか、多額であったということを意味するものではありません。
マルコ福音書12章で、レプタ2枚を献げた貧しい女性に対して、イエスさまは「他の誰よりもたくさん献げた」と言われました。それは、自らを献げるその心をご覧になったからです。
フィリピ2章には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記されています。
キリストは、しもべ(僕)となって神と人とに仕え、最期は人の罪をすべてその身に背負い十字架で死なれたのです。主が自らを献げ尽くされたので、神の前にすべての人間の罪は赦され、贖われたのです。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
この神の御子、イエス・キリストのお姿こそ、本物の尊い献げもののであり、大いなる恵みの豊かさそのものです。
マケドニアの諸教会の献げもの、その豊かさはまさにこのキリストが十字架を通して与えて下さったはかりがたい大きな愛から溢れ出たものであったのです。感謝と喜びは尽きることなくあふれ、欠乏している兄弟姉妹や諸教会に分かち合われていきます。

また、マケドニアの諸教会の信徒たちは3節にありますように、「自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願った」と、パウロは述べます。
それは強いられてそうしたのではなく、むしろ自ら進んで、願い出たのです。
そこで重要なことは、5節にあるとおり、「彼らはまず主に、献げた」ということです。
ローマ12章でパウロは「自分の体を神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と述べたように、その基盤となるのは、主なる神を礼拝するということです。旧約聖書のネヘミヤ記8章には「主を喜び祝うことこと、あなたたちの力の源である」と記されてありますが。
まず、神への礼拝から、マケドニアの信徒たちは、「神の御心にそって」、苦しみと貧しさの中にあったエルサレム教会と同信の友のために自分自身を献げたのであります。

さて、パウロはそのマケドニアの諸教会の献げものを例にして、コリント教会の信徒たちに勧めしました。
実はコリントの教会も貧しいエルサレム教会を支えるための献げものについては、8章10節にあるように、願いつつも、どうもそれが途中で頓挫していたようです。
そこで、パウロはコリントの教会に、同労者であったテトスを派遣し、それを「やり遂げるように」と勧めをなしたのです。
それは先に読まれました9章にまで続きます。
パウロはコリント教会の信徒たちに次のように語ります。
9章6-8節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。
この刈り入れとは福音の実りであり、救いの収穫です。キリストは神の国の収穫のため、1粒の種として地に落ち、死なれました。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆるよい業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。アーメン。
この「わずか」とか「豊か」というのは、分量の多い少ないかを言っているのではありません。
献げものが少ないのはいけないとか、それが多いから良いということではありません。ここで戒められているのは、額の事ではなく、物惜しみする心です。
「豊かに」というのは、多額の献げものを勧めているのではなく、物惜しみしないで神が喜ばれる出来事につながるようにと、心から献げる勧めです。
8章4節によれば、具体的には福音の拡がりとそのための働き、人の支援や活動のためであることが4節に記されています。その献げものは慈善の業や奉仕でもあります。バプテスト連盟、またバプテスト女性連合、バプテスト壮年会連合、そして関西地方教会連合ではそのような協力伝道や献身者の支援、また海外への宣教師の支援、また震災支援の活動などもそうした働きであります。
それらすべては、「受けるよりは与える方が幸いである」との御言葉の豊かさに、私たちが共に与る喜びを見出しているからにほかなりません。
マタイ6章21節には、「あなたの富みのあるところに、あなたの心もある」ともイエスさまは語られています。私たちの心と富はどこにあるのでしょうか。主が語られた豊かさ、祝福に与る者とされたいと願います。
今日の9章8節に、「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
神さまは、私たちに必要なものをご存じであり、その必要を備え与えてくださいます。私たちを豊かに祝福し、あらゆる善い業に満ちあふれさせて下さる方を賛美します。

本日は、神の恵みに与った人たちの自発的献げもについて聖書から聞いてきました。
私たちのこの尊い命をはじめ、からだ、持てるもの、すべては創造主なる神さまから与っているものです。何よりも罪に死んで与えられた新しいいのち、ニューライフは、救い主なるイエス・キリストから賜ったものです。それは私たちが自我のため、私利私欲のために生きることから、自分たちのために死んで復活して下さった方の御心に生きる人生です。
神を愛し、他者を自分のように大事にするために戴いている「神の恵み」に感謝しつつ、日々励んでまいりましょう。
お祈りします。
「天の父よ、今日もこうして主を礼拝できます幸いを感謝します。私たちバプテストの群れは協力伝道とそのつながりを通して起される相互の主にある交わりを大切にしてきました。本日は沖縄の人々がうめきをもって願う、命と平和の祈りを共にしています。差別や偏見、誹謗中傷がどれほど命と社会をむしばんでいるでしょうか。かつては琉球王国であった沖縄の歴史から、それを顕著に知らされます。それは沖縄にのみならず、天地創造の神であられるあなたがお造りになった世界、そのすべての人の大きな課題です。すべてを統治しておられる主であるあなたを畏れ、あなたに立ち返り、その教えと戒めに聞き、従い、命と平和、和解に努める世界となりますように祈り願います。
また、聖書から「神の恵みによて」共に生きる豊かさを覚えました。今在る恵みは、あなたの救いとともに、その救いに与る方々の祈りと献身、奉仕や献げものを通して与えられていることを忘れることなく、不平や不満を退け、感謝をもって自らも分かち合う喜びで満たしてください。
救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン




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