聖書 マタイ28章1-10節
宣教音声
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死を打ち破り甦られた救い主イエス・キリストを讃美します。
この素晴らしい時に、お証をして頂いたKさん、そして主イエスを信じる信仰の告白をなさってバプテスマを受けられたOさん、おめでとうございます。
Kさんは私たちの教会に来られて毎週の礼拝にほぼ休まれることなく出席されてもう2年近くなりますが。主が時を備えて姉妹を導かれ、こうしてさらに近しき神の家族とされて共に歩めますことを大変うれしく思います。また、Oさんですが。姉妹とバプテスマ式の打合せをした折、私が真水は冷たいのでお湯を入れますよ。そして、転倒防止もあり、従来のように横に倒すのではなく立たれたまま沈める仕方もできます、とお話したのですが。けれど姉妹はそのことでよくよくお考えになったうえで、後日「自分はほんとに深い罪を犯してきた者ですから、バプテスマは真水で、私を底まで沈めていただきたい」という思いがあるということを伺いました。主イエス・キリストにある新生の命、新しい人としての第一日目を、今日この日迎えられたことに感謝です。お二人の新しい歩みを覚えて信仰の歩みを共にし、祈り合ってまいりましょう。
さて、先週は受難週として主イエスの十字架の苦難と死を偲びつつ、一日一日共に早天の祈りから始めて過ごしてまいりました。朝一番に聖書を開き、主に祈ることから一日を始める。そんな瞬間を引き続き形づくっていきたいですね。
主イエスは受難の金曜日、十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、3日目の日曜日、週の初めの早朝に、アーメン・まことに主イエスは封印された墓を打ち破られて、復活なさいました。
キリスト教の信仰には、神の独り子イエス・キリストが、私たち人の姿となって誕生してくださった大いなる恵み。そして、そのイエス・キリストが十字架上で世のすべての人の罪を取り除く神の小羊として、贖いの御業を成し遂げて下さった大いなる愛と救い。さらに、そのイエス・キリストが人の罪によって生じた死と滅びを打ち破って、復活されたという大いなる生きる希望があります。
本日のマタイ28章1~10節は、その「主イエスの復活」の記事から御言葉に聞いていきます。
ユダヤでは安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、その期間は安息日の規定のため動くことができず、マグダラのマリアともう一人のマリアは翌日曜日の明け方にイエスさまが埋葬されていた墓を見に行くのです。彼女たちはイエスさまが十字架で処刑される折も、ずっとその最期を見守っていた女性たちでした。
目の前でイエスさまが傷つき、いたるところから血を流して衰弱していかれるのを、どれほど辛く傷ましい思いで寄り添ったことでしょう。彼女らはイエスさまが墓に納められ他の者たちが立ち去った後も墓の方を向いて座っていたとあります。その墓は横穴式の洞窟のような岩をくりぬいた造りになっていて、墓の入り口には大きな円盤状の石が置かれて封印されていました。
前章62節以降には、祭司長とファリサイ派の人たちがローマ総督のピラトに申し出て、「あの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』(マタイ16章22節)と言っていたので、弟子たちが来て死体を盗み出して『イエスは死者の中から復活した』と言いふらすかもしれません。三日目まで墓を見守るように命令してください」と言うと、ピラトは「番兵にしっかりと見張らせるがよい」と彼らに伝え、墓の石に封印し、番兵をおいたと記されています。
そうして安息日が明けた週の初めの早朝、二人のマリアがイエスさまの埋葬された墓を見に行きますと、大きな地震が起こったというのです。先週の27章もイエスさまが十字架上で息を引き取られた後に「地震が起こった」とありました。神の子によって完全な贖いの御業が成し遂げられた重大な出来事の折に地が震えた。ここを読みますとき、この地球上の全被造物が共にうめきつつ神の子の出現を待ち望んでいる、というローマの信徒への手紙8章19節が思い浮ぶのであります。
そうしてそこに現れたのが主の天使でした。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。他の福音書などによりますと、長い衣を着た若者とか、二人の天使とか、それぞれの表現がありますけれども。いずれも、神のご意志を伝えるために遣わされた存在であることは間違いありません。
この主の天使が、墓の石をその「わきへ転がし、その上に座った」。世の力が神の子を葬り去ろうとしても、すべての権能は神のものであり、神こそが全ての上に座しておられるのです。その「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった主の天使の姿を目にした番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。神の栄光が顕わされるそのとき、神の子を十字架にかけた世の力と神への反逆者は恐ろしさのあまり震え上がり、もはや死人のようにその力は打ち砕かれるのです。
一方、女性たちは主の天使から「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げられます。
そうして、彼女たちは空っぽの墓を見ることになるのです。この女性たちも、大きな地震と起こっている目の前の出来事に恐れを抱くのです。しかし、番兵たちと違っていたのは、彼女たちはイエスさまが前もって告げていた死の後「三日目に復活する」という言葉を心に留めていたのです。そして主の天使があの方は「復活なさったのだ」との神の御言葉を彼女たちは受取ったということです。
同じ出来事に遭遇して、片や不信の中で死人のようになった番兵たち。片や天からの御言葉に聞く希望をもっていた女性たち。大きな違いが生じます。大事なことは、神の言葉は、それが実現した時、信じる人、受入れる人には喜びと希望となる。それを拒み、不信をもつ人には恐れに囚われ、絶望となるのです。
さて、主の天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。すると、それを聞いた女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。
「恐れながらも大いに喜んだ」。一見相反するようなその様相ですが。彼女たちはイエスさまの無残な死、大きな地震、主の天使の思いがけない言葉と、次々と想像もつかないような出来事に遭遇し、様々な感情の嵐のような状態になっていたに違いありません。
けれども、天使から「ガリラヤ」という言葉を聞いたとき、あの「ガリラヤの春」と呼ばれる、イエスさまが弟子たちと共に神の国の福音を顕わされたその懐かしい想い出が一瞬にして甦ってきたのではないでしょうか。さらに、主とそのガリラヤで、お目にかかれる、と聞いたとき、絶望の暗闇にまぶしい光が射しこんだような大きな喜びが湧き起こってきたのですね。そうして彼女たちはこの喜びを知らせるために、もはや急いで墓を立ち去って弟子たちのもとへ向かうのです。
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」というのです。この「おはよう」はギリシャ語の原語で、「喜びなさい」という日常交わす挨拶のような言葉であります。以前礼拝の中で聖歌隊が「リジョイス」という讃美合唱をなさったのを思い出しますが。復活の主イエスは直接この二人の行く手に立ち、常日頃おっしゃたように「おはよう」「喜びなさい」とお声をかけられるのです。彼女たちは復活の「イエスに近寄り、その足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。その喜びがいかばかりであったか、伝わってくるようです。
主はこの女性たちに伝えます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。復活の主はこのとき弟子たちのことを、「わたしの兄弟」と呼んでおられます。肝心な時に、イエスさまを見捨てて逃げ去っていった弟子たちを「わたしの兄弟」とお呼びになるのです。あの者たちでも、彼らでもなく、「わたしの兄弟」と。なんと寛大なまねきでしょうか。ここに私は主イエスのゆるしと愛を深く見る思いがいたします。人の弱さのゆえにつまずき、大きな取り返しのつかないような失態をさらした彼らを、復活の主はもはや師弟の関係を超え、「わたしの兄弟」と呼び、「ガリラヤ」、それはまさにあなたたちの生活の場、日常のフィールドで「わたしに会うことになる」と、約束してくださるのです。
本日は「復活の主イエスはどこに」と題し御言葉に聞いてきました。今日、Oさんの信仰告白とバプテスマを通して、主の救いの御業を私たちは仰ぎ見ることができました。これはまさに、復活の主イエスが私たちのうちに、私たちと共におられ、歩んでくださっているという証しです。復活の主は私たちの生きているこの人生の日々、日常の営みの中で私たちと出会って下さる。そこに大きな喜びがあるのです。
その延長線上に、やがて訪れる主と直接顔と顔を会わせるそのときが用意されている。再び主が来られる折には、死から復活のからだの甦り、永遠の命に至るという大いなる希望を与えられているのです。
さらに、Oさんの信仰告白とバプテスマを通して、主が私たちの救いの原点、初めの愛を思い起こさせて下さいました。罪深い私たちが主の憐みによって、如何に計り知ることのできない恵みを頂いているという、そのピュアーで新鮮な信仰を保ち続ける者でありたいと願うものです。
コロナ禍にあって先行き不透明に見える時代でありましても、復活の主イエスが共におられる私たちのガリラヤ、私たちの日常へと、今日の喜びと希望の御言葉をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。