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何が幸い

2021-04-18 18:16:15 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ5:1~12

 

先週は復活された主イエスのお言葉からメッセージを聞きましたが、その具体的教えの多くが、先に読まれたマタイ福音書5章から7章までに語られております。

ここには主イエスが山に登られてお話をされたということで山上の説教とか垂訓と言われていますが。本日はその始めの「幸いな人たち」について語られているところから御言葉を聞いていきたいと思います。

ところで皆さんはどのような時に幸せ、幸福だなとお感じになるでしょうか。おいしいものを食べている時。ひいきの選手やチームが勝った時。家族が変わりなく健やかであることなど、様々おありでしょう。また、どのような人を「幸せな人」とお思いになるでしょう。社会的に成功している人。お金に不自由のない人。世の中から賞賛されている人でしょうか。

先ほど主イエスの「幸い」についてのお言葉が読まれましたが。どうして、心の貧しい人、悲しむ人が幸いなどと言うことができるでしょうか。「何が幸いなのか」と、それは私たちが考え、求める幸福や幸いと思う価値観を覆すようなものであります。

 

①先行する「幸い」

ここをちょっと文語訳聖書で読んでみたいと思います。

「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福(さいはひ)なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。幸福(さいはひ)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣(つ)がん。幸福(さいはひ)なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽くことを得ん。幸福(さいはひ)なるかな、憐憫(あはれみ)ある者。その人は憐憫を得ん。幸福(さいはひ)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福(さいはひ)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称(とな)へられん。幸福(さいはひ)なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり。」

ギリシャ語の原文に則して訳すと、実はこの文語訳のようになるのです。つまり、すべての文頭に「幸いなるかな」と、主の一方的な「幸いの宣言」が心の貧しい人びと、悲しむ人びと、柔和な人々、義に飢え渇く人びと、憐れみ深い人びと、心の清い人びと、平和を実現する人びと、義のために迫害される人びとに、語りかけられているということであります。

②「心の貧しい人々は、幸いである」

ルカ福音書では「貧しい人びと」は幸いである、と記されていますが。このマタイ福音書は「心の貧しい人々」は幸いである、記されております。

「心の」ということが入ることで、単に物質的貧しさだけでなく精神的な貧しさをそこに含んでいるということであります。たとえば財産や富、地位や名誉をもち、世で成功をおさめていた人が、そういったものが人の世で通用しなくなる時に心にぽっかりと大きな穴があいて、うつろな空しい思いを経験するかも知れません。

価値ある人と自他共に認められてきた人が、その価値観を失われていく時。自分の存在の意味さえ見出せなくなるような心の貧しさ、飢え渇きを覚えるかも知れません。  けれども、この「心の貧しい人」の「心」は、単に思いや考えが貧しいというのではなく、「霊」の飢え渇きを意味しています。つまりそれは、すべてを司っておられるお方に嘆願せざるを得なくなった人のことなのです。その魂、霊の飢え渇きによって神の救いを切に欲している人、待ち望んでいる人。そのような人が神の前でほんとうに「幸いな人」だと主イエスは宣言なさるのです。

 

③「悲しむ人々は、幸いである」

悲しむ人々がなぜ幸いなのでしょうか。人は誰しも悲しまなくてすむように生きたいし、悲しい目には遭いたくないと願います。悲しむ人を見て、だれがあの人は幸せだなどといえるでしょう。

人生には喜びと共に悲しみが必ずあります。人の出会いの喜びと共に、地上での別れは辛く、悲しい経験です。けれどもその悲しみというものは生きていることのあかしでもあります。

大事なことは、世にあって様々な苦難や悲劇ともいえるような経験をする時にこそ、神は共におられ、慰めを与えてくださることを真に知ることであり、主イエスはそのような人は幸いとおっしゃるのです。

ところで、この「慰められる」の「慰め」はパラクレイトス、聖霊(慰め主)を表す言葉の語源となっているのです。わたしが悲しむ時、聖霊なる慰め主は十字架と復活のお姿を通して、その悲しんでいるわたしと共にいてくださる。だから幸いだと、主イエスはおっしゃるのです。

 

④「柔和な人々は、幸いである」

「柔和」と聞くと。普通、人間の心の寛容さや優しさを思い浮かべますが。この当時のユダヤにおいて「柔和な人びと」とは、実は「貧しい人々」と同様の意味をもっていたのです。それは「何も持たない」「とるに足りない」人びとという響きをもった言葉でありました。

この世界、社会にあってその存在すら忘れられ、軽んじられているような人びとのことであります。又、柔和な人とは「権力のない人」と訳すこともできます。

主イエスが「柔和なロバの子に乗って」エルサレムを入城なさったその様子を連想いたしますが。神の福音とその栄光を背に乗せお運びするのは、まさにそういう柔和な人びとだとおっしゃるのです。世は力ある人、能力や肩書のある軍馬のような人を期待します。けれども、主はやがて訪れる天の国、その地を受け継ぐ者となるのは柔和な人、神の御救いに頼る以外なく、たえず主を呼び求めるそのような人たちは幸いだ、と宣言なさるのです。

 

⑤「義に飢え渇く人々は、幸いである」

この「義」とは何でしょうか。それは「救い」とか「神のみがもつ正しさのこと」です。義の前で人は誰もその神の義に飢え渇く貧しい者でしかありません。そのことを本当に痛感し、自分の貧しさを思い知らされて歩む人は、真の義、神の救いに満たされる。だから幸いである、と主はおっしゃるのです。

 

⑥「憐れみ深い人々は、幸いである」

この「憐れみ」は主イエスの宣教の中心をなしています。私たちは神の憐みによって救われているのです。主は私たちが罪に滅んでしまうことがないように、十字架の苦しみと死をもって憐れんで下さったのです。

本田哲郎訳では、「人の痛みが分かる人は、神からの力がある。その人は自分の痛みを分かってもらえる」と記されてあります。「憐れみ」とは人の「痛み」を自らのものとする。痛みが伴う。その力は神から来る。この訳は実に新鮮ですね。

 

⑦「心の清い人々は、幸いである」

普通の会話でも、あの人は心が澄んでいるね、心が清らかやね、とか言いますが。

その多くの場合は、自分の損得なしに正しい行いや心がけを持っている人をそう呼ぶのではないでしょうか。けれどもここで言う「心の清い人びと」とは、真直ぐに神へと向かう心のことです。何につけひたすら神を仰ぎ見る人は、自分の内の清さがどんなにもろく、曇りやすいかに気づかされます。そこで、神の清さ、神の御救いを乞い求める人は「神が生きておられる」という信仰の体験に与る者とされるのです。それが神の御前に幸いなのであります。

 

⑧「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」

これはまさにピースメーカーですよね。何より神の平和、神の平安を分かち合う者とされたいものです。

 

⑨さらに「義のために迫害される人々は、幸いである」との主のお言葉が続きます。

主の教えを実践して生きる者には、時に無理解や反発、迫害までも起こります。後にマタイ福音書を書いたマタイの教会にも、聖徒たちへの弾圧や迫害が起こって来たようです。主の救いと和解の福音を伝え、証しして愛の実践を行っている聖徒たちが、いわれのない不当な扱いにさらされていたのです。

今日ここを読みながら頭に浮かんで消えないのは、香港、ロシア、さらに昨今緊迫化しているミャンマーの情勢であります。民主的な生き方を獲得し、人権意識や個々人の良心や思想信条の自由を尊重していくことを学び育った世代の人たちが、主体となって権力の暴走と横暴に否を突きつけ、非暴力で訴えています。それに対して暴力と銃弾によって多くの罪のない市民の血が流されていることにやるせなく、いたたまれない思いです。対岸の火事ではすまされません。こうした人の命と尊厳を脅かし、軽んじる世界にどうすれば正義と平和が実現されていくのでしょうか。この世界が造り主なる神の全き義と愛を拒み続けるなら、罪とそこに働く世の力は働き続けるでしょう。

エフェソ2章には「実に、キリストはわたしたちの平和であります。十字架を通して神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れたあなたがたにも、又、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました」とあります。キリストによってもたらされた平和を実現する者として、祈りと力を合わせて主のお用いに与りたいと願うものです。

 

⑩ここまで、主イエスの山上の説教を読んできましたが。

この最後の11節で主は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」とおっしゃっています。

それまでの「~人々」と言うのが、「あなたがたは幸いである」と。それは、わたしとあなたという関係で、主が身近に語りかけておられることに気づきます。この主イエスの教えは、初めの1節にあるように近寄って来た弟子たちを前に話されたものです。弟子たちはじめ、迫害下にあったマタイの教会の聖徒たち、そして2000年の歳月、世界中に福音が伝えられ、拡がっていく中で主の御救いに与るすべてのキリスト者たち。様々な困難の中でもキリストの福音に生きる者に主は、「あなたがたは幸いある」と、天の御国の祝福を宣言なさるのです。天の御座から溢れるこの大いなる励ましを受けつつ、主の弟子たちは今日も真理のもとにある確かな幸いを分かち合う者として世に遣わされているのです。

本日は、「何が幸い」という問いかけをもって主イエスのお言葉から聞いてまいりました。世に幸いと呼ばれることは如何に多くても、生ける神とその救いを知らないのでは、天の御国における真の幸いを受けることはできません。

今コロナ禍ではありますが。今でなければ得ることのできない幸いなる歩みがきっとあるはずです。そのために主に祈りつつ、今日の主イエスの祝福と励ましを魂いっぱい戴いて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

 

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