主日礼拝宣教 マタイ18章15―20節
本日より三度目の緊急事態宣言発出となりました。礼拝と祈祷会は休会とされることになりました。再開の目処はたっておりません。その間教会に集まっての礼拝や祈祷会を持つことはできませんが、それぞれの場にあって心を合せ、主に礼拝の日々を捧げてまいりたいと願います。これ以上の感染拡大と医療崩壊を招くことがないように祈りに覚えつつ、私たちにできうることを努めてまいりたいと願います。
さて、本日は先に読まれましたマタイ18章15~20節には、「兄弟の忠告」という小見出しがつけられておりますが。18章全体を読みますと、これは「罪ゆるされた群(教会)」に託されたメッセージであることに気がつかされました。
主イエスは15節以降で、「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われました。
これは、同信の兄弟があなたに対して心無いふるまいや態度をとったとき、みんなの前で叱責したり、あるいは本人のいないところで噂話をしてうやむやなまま忌み嫌うのではなく、まずは「二人だけのところで、その態度やふるまいを問い、忠告しなさい」といわれます。そして、相手がその事を受け入れたなら「兄弟を得たことになる」とも言われます。
しかし「聞き入れなければ、ほかの一人か二人を一緒に連れて行きなさい」と言われます。その兄弟の罪が、客観的に明確に証明されていくためにそうしなさいとおっしゃるのです。
さらに「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と、兄弟の罪を真剣に問い続けます。なぜ兄弟の罪をうやむやにせず、そこまで問い続けなければならないとおっしゃっているのでしょうか。
それは前段のこの話の前に「迷い出た羊のたとえ」のところにあるように、「小さい者(罪深い者であったとしても、神の救いのもとにある人)が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と、主イエスがお考えになっておられるからです。まさに、主イエスは、さまよい滅びゆく外なかった者をどこまでも探し出し、救ってくださるお方なのです。だからこうして問いかけて、罪の滅びから立ち返るようにしなさい、とおっしゃるのです。
主イエスは、あなたに対して罪を犯した兄弟がその罪に気づかなかったり、同じ過ちを繰り返してしまって神の御前で罪に滅びることがないよう、その兄弟と向き合い続けることをあきらめてはならない、と語られるのです。
忠告を聞き入れて悔い改める(方向転換する)なら、迷い出た羊であったその人は神の前に連れ戻され、忠告をした人たちは兄弟を得たことになる、と主はおっしゃるのです。
ところで、祈祷会の聖書の学びの時にも疑問として出されたのは、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と語られていることです。
罪を犯した兄弟に対して、そういった段階を踏んできちんと話をしても聞き入れないのなら、もう教会から締め出しなさい、と言っておられるのでしょうか。
確かに、人間には限界があります。話し合っても頑なになった心が開かれなければどうすることも出来ません。しかし主イエスは、その罪を犯した人が滅びるに任せよ、ということを言っておられるのではありません。なぜなら、主イエスは99匹の羊をおいてまで迷い出た羊をあきらめず、どこまでも探し続ける羊飼いなる主であるからです。
この「異邦人か徴税人と同様」の異邦人とは、生ける神を知らない人、神の律法と戒めを知らない人の代名詞です。又、徴税人は罪と知りながら慢性的に同胞からお金をかすめ取る者も多かったようです。
主イエスがおっしゃる神の救いの選びに囲われたユダヤ人とは対照的なこの異邦人や徴税人は、ただ主の御憐みによってのみ救われる外ない存在であるということです。
「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われる主御自身が、実は誰よりもその罪深い人が滅びることなく、悔い改めをもって神に受け容れられるようにと日夜お働きになられるのです。福音書にあるとおりです。神の戒めをなかなか悟り得ない異邦人のような者、又徴税人のような嫌われ者であっても主イエスはあきらめておられないのです。なぜならそのような人こそ、自らの罪に気づいた時、資格がないのに神に受け容れられた救いの喜びをほんとうに知る者となるからです。
もはや教会の手に負えない時、教会はその主イエスの愛と誠実にゆだねる外ありません。その上で、主イエスは大事なことをいくつか述べておられます。
一つは、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くとは、天上でも解かれる。」
この「つなぐ」と「解く」はユダヤの法廷用語で、罪に「つなぐ」と言えば、罪が明確にされることを示し、罪を「解く」と言えば、罪のゆるしを表わすものなのです。その「罪を明確」にし、その上で「罪をゆるす」権能が教会に与えられている、と主はおっしゃるのです。ほんとうに主の御前に罪に価することがあるのか明確にされるべき。
けれども、明確にされることとゆるしが与えられていることは実はつながっている。それが地上におけるキリストの教会の姿として示されるのです。その教会のつなぐこと、解くことの表明が天上でもつながれ、天上でも解かれる。すなわち天の神の御前にキリストの名のもとに罪のゆるしが与えられる、というのです。
バプテスマに先立つ信仰の告白や救いの証しにおいて、罪の告白がなされることがあります。教会は神の前になされるその告白に厳粛な思いで立ち会わせていただくわけですが。主イエス・キリストの御名によって新しい人とされるとき、まさに天上における罪のゆるしが宣言されるのです。
とはいえ、自分が直接不正な仕打ちを受けた時、罪をゆるすということはなかなかできないことです。これは自分の頭でどう考えてもできるものではありません。
それができるとするなら、自らも罪のゆるしを必要とする者であり、主イエスの罪のゆるしと贖いに与っている救いの恵みを信じればこそです。私の罪のために主イエスが十字架にかけられ、からだを裂かれ、血を流されて罪の代償を支払われた事。そうして滅びの縄目を解かれた事を覚えるとき初めて、主のおっしゃる「ゆるし」を知る者となるのです。
主イエス・キリストなる御神によってほんとうにゆるされていることを知る人が、人をゆるす賜物を頂くことができるのです。その恵みの深さを私共は礼拝において毎回確認していくわけですね。
二つ目、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
これはどんなに大きな慰めであり、素晴らしい主の約束ではないでしょうか。
ここに「どんな願い事であれ」とありますが。しかしこれは好き勝手な自分の願いという事ではありません。よくこの部分だけが一人歩きしてしまいますが。それは前の文脈から来ている「罪を犯した兄弟」の罪が明確にされ、神のもとに回復されていくという教会の課題があまりに大きなことであるので、もはや教会は神に祈る外ない。そういう時、教会みんなで祈るとよいのでしょうが、問題によってはそうはいきません。そういう場合でも主は、「二人、三人が地上で心を一つにして求める(祈る)なら、叶えられる」とおっしゃるのです。
教会というとおおよそ10人以上とか、建物に集まるイメージがあるかも知れません。しかし人数や建物や組織以前に、その本質は主のゆるしを心から知り、感謝している人、主の兄弟姉妹とつながり、交わりをあきらめずに求め祈る人たちのことです。その兄弟姉妹が二人であれ三人であれ、心を一つにして求めて祈るところから神の助けは必ず来る、と主は明言なさるのです。
主イエスは最後にこう言われます。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
今日私の心に新鮮に響いてきたのが、この「わたしの名によって集まる」というお言葉でありました。
これまでは「二人または三人でも主がその中におられる」というところに思いが向いていたのですが。今日改めて「主イエス・キリストの御名によって集まる」というそのお言葉に特別な恵みを覚えました。
「罪ゆるされた群」として、足を洗い合うように互いが罪に滅びることなく、救いを歩みとおせるように語り合い、祈り合い、ゆるし合うその手本を自ら示して下さったキリストに導かれた群。それが教会です。
今、コロナ禍のために、主の名によって共に集う礼拝ができないという状況であります。
人流を止め、人と人の距離をとっていくことが、感染拡大と医療崩壊を防ぎ、いのちを守ることにつながるということであります。主の名によって共に集い礼拝を捧げたいという願いはありますが。今日もこういう形で、メールや音声データを介して、私たちは主イエスの御名のもと共に礼拝を捧げています。それもほんとうの恵みに立ち戻る時として備えられたことなのかも知れません。待ち望む私共にとって教会での再会の期待と喜びも新鮮な出来事となっていくことでしょう。
主イエスは約束してくださいました。「二人または三人がわたしの名によって集まるころには、わたしもその中にいるのである。」
岩波訳聖書は「私の名のもとに二人あるいは三人が集まっているところでは、彼らのただ中に私がいるからである。」「彼らのただ中に私がいる。」私たちの間、そのただ中にお出で下さる生ける救いの神、主イエス・キリストの御名を讃美します。
本日は「罪ゆるされた群」と題し、御言葉に聞いてきました。
「罪を犯した兄弟に罪の勧告」を行うのは、神に成り代わって裁くためではなく、その兄弟が罪に滅びることがないためです。そして、「その兄弟が神のもとに回復されていくために心を合せて二、三人が主の名によって祈る」ことの尊さについて、御言葉を聞きました。
そこにはゆるしが必要です。そのゆるしは自らの救いの体験から学んだ神の深い憐み(いつくしみ)から流れ出る愛です。
主の御名によってとりなし、祈り合う人たち、そのただ中に主がお出でくださる。この大いなる助けと慰めを私たちもしっかりと頂いて、今週それぞれの祈りの務めを果たして歩んでまいりましょう。
礼拝宣教音声→https://drive.google.com/file/d/1PbQY7Tl2efIh4th2duJSnYawpaO-YK8M/view?usp=drivesdk