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わたしの羊飼い

2021-10-10 13:21:41 | メッセージ

礼拝宣教 詩編23編1-6節

 

この詩は旧約聖書の中でも最もよく知られ、且つ新約聖書の中の「主の祈り」のように、よく暗唱されている詩ではないでしょうか。それは、この短い詩の中に逃れがたい人生の局面において、何を望みとし、如何に平安を得るかという人の思いが重ねられるからでありましょう。この詩によってクリスチャンのみならず、世々の人びとが如何に励まされ、力づけられ、勇気を与えられてきたかということでしょう。その事実は「主はわたしの羊飼い」という信仰の言葉が文字通り、世々の人びとを導き、養い、生きる支えとなっているということの証しであります。神は生きておられます。

冒頭の1節に「賛歌。ダビデの詩」と記されています。ダビデはユダ部族ベツレヘムびとエッサイの子で、初代の王サウルの後にイスラエル第2代の王となりました。彼は8人兄弟の末っ子として生まれ、姿の美しい少年で、父の羊を飼っていました。そういう中で、獅子や熊といった猛獣から羊を守る経験を幾多もしたことでしょう。ダビデは羊飼いの経験を通して、羊飼と羊の関係を主なる神と自分との関係になぞらえながら、この詩を詠んだのでありましょう。

羊は群れをなして生きる動物です。一匹では生きられない弱い存在でもあります。又、こう言っては何ですが、決して賢い動物とはいえず、すぐに道に迷ってしまうような生きものであります。ですから、羊飼がいなければ牧草地に行くことも、水のあるところにも行くことができません。そればかりか、いつの間にか散り散りばらばらとなり猛獣の餌食にされやすい動物です。ですから、遊牧された羊にとって羊飼は欠くことの出来ない存在なのです。

一方の羊飼は、羊との信頼関係を築きます。羊との信頼関係がなければ羊は言うことを聞かず、牧することは出来ません。羊飼いはこの詩にもあるように鞭や杖を用いますが、鞭は羊を襲う野獣を威嚇するために使われるもので、羊に罰を与えるためではなく、外敵から守るためのものです。又、

杖は迷い出ようとする羊を連れ戻すために使われるものです。そのように羊飼いは羊の生存を保証してくれるような頼れる存在であります。そんな羊と羊飼いの関係をダビデ自らと主なる神さまに重ね合わせているのです。

 

古代の東方世界では王を羊飼いや牧者にたとえることがよくあったようであります。民衆を守り、牧する者ということです。ダビデは父の羊を飼うものから、文字通りイスラエルの王、牧者となるのであります。

そのダビデ王が「主はわたしの羊飼」と賛美したのです。それはダビデの栄光の一方で明らかにされた破れある生涯を顧みるとき、牧者なる主である神さまに導かれていればこそ、「何一つ欠けることはなかった」と言うことができたのだろうと思います。

山あり谷あり、幾度も死の陰を通るような人生の体験を通して紡がれたのが、この23編であり、だからこそ多くの人の共感を得るのでしょう。

 

新共同訳聖書では「主は羊飼い」と訳されていますが、それはよい訳ではありません。最近出された新共同訳改訂版には「主は私の羊飼い」と正しく訳されております。そこには「主」と「わたし」という関係性こそが、この詩の最大のメッセージであることを読み取ることができます。

私たちの信仰において大切なことは何でしょう。それはキリスト教という宗教ではなく、まさしく生きた神との交流であります。私たちはその主なるお方との生きた関係性を見出し、活き活きと保たれてこそ、キリスト者の人生の歩みとされていくのです。

 

さて、1節から3節までを読んでみますと、「主はわたしの羊飼い、わたしには欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」とダビデは謳っています。

ここに「主は」(正確にはヤハウエなる神)とダビデが呼びかけて、主が自分にとってどのような存在であるかが証しされています。

それが4節から5節を読みますと、ダビデは「主は」という3人称の呼びかけ、こんな方ですといった語り口から、「あなたは」という直接的な呼びかけに変わっていることがわかります。このこと

にとっても大事なメッセージがこめられています。つまり、ダビデはここで主なる神に対して「あなたは」と、大変親しく密接な相手として呼びかけているのです。

 

始めの3節までがいわば公の「信仰告白」であるとするなら、「あなたは」という呼びかけは「主との対話」であるといえましょう。

ある方が、以前教会に通い始めたとき、クリスチャンが祈りの中で神に対して「あなた」と呼びかけているのを聞いて、「神様とそんなに近く話すとは・・・」と驚くと同時に、自分もそのような関係性に与りたいと願い、祈るようになったという話でありました。

ダビデがそうであったように、主を信じる私たちも又、主を「あなた」は呼びかける1対1のさしで向き合うように、直接的な主との対話へと導かれたいものであります。

では、ダビデがここにあるように「主」から「あなた」へと呼びかけが変わった。それはどういうときであったのでしょうか。

それは、4節の「死の陰の谷をゆくとき」であり、5節の「わたしを苦しめる者を前にしたとき」であります。これは、具体的にダビデがどういう状況におかれたときかは記されておりませんが。

例えば、サウル王に命を狙われたときであったでしょうし、息子アブサロムの反逆に遭い命を狙われたそのときであったのかも知れません。

王としての栄光と同時に多くの闘いと苦難を身に負う経験をしたダビデでした。そのように屈辱的な中に置かれ、心身ともに疲れ果てたとき、彼は本当の意味で、主と1対1で差し向かい、神との対話へと否応なしに導かれるのです。

 

彼はこう謳っています。「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」。

先ほどお話しましたように、羊飼いが鞭で敵を追い払って羊を守り、その杖で羊の行くべき道を導くように、主は共にいてくださる。この主が共におられ守り導かれるという、信頼と確信によってダビデは力づけられ、魂の平安を戴くのであります。

 

牧師として、私は終末期をむかえる方と、共に祈りを合わせ、主の御許に与る備えとしての信仰の確信と平安のため、そのお手伝いをさせて戴いておりますが。天に召されるときが近づく折に、私はこの詩編23編をその方のお傍で読ませていただく機会があります。

「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。死の陰の谷をゆくときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。

すべてを御手におさめておられる主が、命の生ける水を飲ませて魂を生き返らせてくださいます。あなたといつまでも共におられます、と。この魂を活かし得る命のみ言葉を、朗読させていただき、天における目覚めの朝への備えを共にさせていただくのですが。まさにこの詩編23編の恵みのゆたかさは、霊的な魂を生かしめる力にあるのです。

ダビデがそうであったように、この詩を読む私どもも又、この世にあって様々な試練や災いといえる出来事、悩みや苦しみを経験します。そして、人間は誰しもその生涯の中で、死の陰の谷を行くような経験をするのではないでしょうか。

私は何度もそんな経験をした、とおっしゃる方もおられるかも知れません。どんな人もその日、その時がいつ起こって来るかはわかりません。

だからこそ、主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」。わたしとの対話をしていなさい、といつも招いておられるのです。

このダビデが「主は魂を生き返らせてくださる。あなたがわたしと共にいてくださる」と謳ったように、主との親密な信頼の関係性を日々得、強められ、命の限り真の平安に与れるようにと願うものであります。

 

最後に、この詩編23編を受けて、私どもの羊飼いなる主イエスの御言葉を2つほど見ていきたいと思います。

1つは、ヨハネ福音書10章の「イエスは良い羊飼い」として記されている御言葉です(週報表参照)。10―11節。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」との御言葉は、お分かりのように、主イエスが罪深い人間を救うために自らの命を十字架に引き渡され、その犠牲をもって罪の贖いを成し遂げてくださったことがそこに示されています。「わたしの羊飼い」なる主は、御自身の命を捨てるほどにわたしを愛してくださる、そのような偉大な羊飼いであられるのです。

 

2つめは、ルカ福音書15章の「見失った羊のたとえ」話です。

4-6節「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人びとを集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。

一人の魂が救われること。神の前に取り戻され、共に喜び合えることを、これほどまでに願われ、全身全霊をかけて贖われる主。この100匹の中の迷い出た1匹に注がれる主のご愛、それは決して100分の1ではありません。100分の1ではなく、1対1の愛の関係であって、主は1匹の、それは今日このところにおられるお一人おひとりに100%の愛のまなざしを注いでおられます。

この世界にあっては誰もが迷える羊といえます。クリスチャンであっても例外ではありません。自分を受け入れられない、自分を愛せないという人も世に多いでしょう。主はその暗闇をさまよう人の救いを求める声に、日々耳を澄ませ、探しておられるのです。

命をも差し出されたほどに愛される「わたしの羊飼い」なる主。その主の愛は信頼に値する真実の愛であります。

 

今日は「わたしの羊飼い」という題のもと、詩編23編からみ言葉を聞いてきました。

私たちは羊のように時に迷い、試練が襲いかかれば慌て震えあがるような者であります。

しかし、6節「命ある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とダビデは謳います。試練や試み、つまずきや罪の過ち、様々な経験をする中で、主は決してダビデをお見捨てにならなかった。ダビデも又、その主に信頼することを決してやめなかった、信仰とはまさにその生きた主とわたしの関わりなのであります。

信じてこそ、良きわたしの羊飼いと、どこまでも仰ぎ生きたダビデ。このダビデが謳った「わたしの羊飼い」は、インマヌエルの主として、生きて共におられる神、人の姿をとってわたしたち一人ひとりのうちに来てくださいました。

わたしの羊飼いなる主イエス・キリストのそのお言葉に耳を澄ませ、聞き、信頼し、いつも主に祈り、対話していくものとされてまいりましょう。そこに「命ある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う」との平安と恵みが伴い、「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」との朽ちることのない希望の確信が与えらるのです。

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