礼拝宣教 詩編72編1-14節
先週は国政選挙の公示日となり、来週の31日が投票日ということです。未だコロナ感染症は終息に至っておりません。国政においては今後のコロナ終息に向けた対策。又、この1年半の間に私たちの生活や日常に変化がなかったという人はいないかと思います。ようやく日常に近づけるというところに生活に欠かすことのできないガソリン、又電気、食料品等の価格が高騰し、悩ましい状況であります。生活困窮者、子どもたちの貧困や自死は深刻です。さらにこれまでの政治家とお金にまつわる問題や利権や忖度がらみの重大なパワーハラスメントの問題と様々なことがありますが。市民のために奉職することのできる国会議員が立てられていくために、私たち投票権を与えられている者は、その特権を最大限に使って意思を投票というカタチで祈りつつ、表わしていきたいと願います。様々な状況から政治に失望し不信感を持ち、もう何も期待しないとか、別の世界のことだと思う人も多いかもしれませんが。昨今の社会状況においては私たちの生活や暮らし、いのちや平和に直結することです。
さて、本日は詩編72編より御言葉に聴いていきたいと思います。
まずこの詩編は20節に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」とありますように、ダビデ王がその子ソロモンの王位継承を祝って作ったものと見ることもできます。
けれどもこの祈り手にとって最も肝心なことは、天と地における一切の権能をもって司られる神こそが主権者である、ということなのです。1節に「神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子にお授け下さい」とありますように、王の統治というものは、一人で為すことができるものではなく、そのような主なる神のお導きとお助けが不可欠であるということが歌われているのです。祈り手は王のために必要なものを「神よ、あなた」と実に近しく、かつ畏敬の念をもって呼びかけ、民の平安と王の務めのため、とりなし祈っているのです。
このような祈りによって王に就任し、イスラエルの国として当初は非常に繁栄し、この祈りにあるような知恵ある裁きによって平和は確かに一時的に花開くのであります。しかしその豊かさの一方で、様々な偶像が持ち込まれてくるのです。やがては王も民衆もその心が主なる神から遠のいていきます。ソロモンの統治の後にはイスラエルの国が南と北に分裂してしまうのです。その後の王たちはいずれも悪王ばかりで、結局、北イスラエル王国、さらに南ユダ王国もまた滅んでいくのであります。この150編からなる詩編は、その崩壊と捕囚からの解放後、それまでのイスラエルの王の統治と民の不義を回顧しつつ、主である神に立ち返って生きるために編纂されたのであります。
今日の72編も「今度こそは神の御心に適う善き社会が築かれますように」と強いの願いをもって、この詩編に加えられたのでありましょう。
捕囚から解放がされたユダの民たちはエルサレムへの帰還という悲願が叶いますが、そのユダの地はかつてのような栄えはなく、荒れ果てていました。ユダの地に残っていた人々の心も状況もそうでした。捕囚から解放され帰還した人たちはそこで神との関係性の回復、信仰の復興と礼拝の再開、崩壊した神殿の再建という、民の本来の祝福が取り戻されていくための事業を取り組み進めていくのであります。そこで求められたのは、ユダの民にとっての理想的な真の指導者でありました。
1節の「神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください」を新共同訳改定版(2018)で読んでまたいと思います。「神よ、あなたの公正を王に/あなたの正義を王の子にお授けください」とあります。「裁き」が「公正」、「恵みの御業」が「正義」と訳されています。特に「恵みの業」が「正義」と訳されているところは随分ニュアンスが変わるように思えます。そこには、異邦の諸国の脅威に常にさらされていたユダの地には、内に外に「不正」と「不義」がはびこっていた現状が暗示されているようです。
先に申しましたように、かつて北イスラエル、南ユダの両王国を治めていた歴代の王たちのうちにも、不正を働き、不義を行って、国を荒廃させ、民を痛め苦しめた者がいたということです。あの栄耀栄華を極めたとされるソロモン王は、エルサレムに最初の神殿を建てるという一大事業をなします。彼は知恵の王と呼ばれます。その一方で彼の野心的な事業は重税と賦役を民に課し、さらに享楽にふけり財政が悪化。晩年には皮肉にもソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、ソロモンの死とともに一気に噴出して、国家分裂していくのです。だからこそ、これからの時代に立てられる指導者はそうであってはならないと、切なる願いを込めて詩人は歌い祈ります。
2節「王が正しくあなたの訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように」。 ここで注目しますのは、王が「あなた」、つまり神の訴えを取り上げますように、と言っていることです。神が王に訴えるとは、考えればおかしなことですが。それは民が神に訴える声を神が聞かれ、その声を神が王に代弁者として訴えておられる、ということです。
又、「あなたの貧しい人々」という「あなた」も神御自身のことでありますから、「神よ、あなたの貧しい人々」を王が正しく裁きますようにと願っているのです。貧しい人々は神の民でありあすから、神を畏れ敬う王でしたら、この貧しい人々が苦しんでいる事態に対して、ないがしろにすることは決してできないのであります。
そのような善き王について詩人は5節で、「王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように」と詩人は歌っていますが。この5節をまた新共同訳改定版でお読みします。「王が、太陽と月のあるかぎり/代々にわたってあなたを恐れますように」。大きな違いは、異なるのは「あなたを恐れますように」ということです。
ここでの重要点が「神を畏れる」そのところに、王の王たる座といったものが存続されるのだというように読めます。
この「神を畏れ敬う」王による統治にあって、6-7節「地に恵みの雨が降り、豊かな実りがもたらされて民は潤いますように。そしてそのような王が生涯、神に従う者として栄え、月の失われる時までも豊かな平和に恵まれますように」と詩人は祈り、歌います。 先ほどの3節にも「平和」という言葉が出てきましたが。この平和は単なる戦争や争いがないということではありません。ユダヤ社会では平和はシャローム、現在もイスラエルの日常の挨拶となっていますが。「あなたに平和、平安がありますように」「共同体全体に平和、平安がありますように」という強い願いがそこに込められています。その平和、平安はどこから来るのでしょう。 コヘレトの言葉(伝道の書)12章1節を読みますと、「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」とあります。 聖書のいう「平和」「平安」とは、創造主であり、すべての源である神との関係性が築かれていくことから来るものであり、それが隣人と社会全体に及んび「平和」「平安」が実現されていく。神との間に私たちの平安、平和が築かれていくところから、人との平和、身近なところでの平和、さらに国、世界の平和へとつながっていくのです。。私たち自身は小さな存在でありますが、そのような平和を造り出す者として創造主なる神は私たちをお造りになられたのです。
先週の礼拝にある姉妹がお越しくださったのですが。その方のお母様はクリスチャンで教会の礼拝のオルガニストとして長年ご奉仕をされていたそうですが。末期の癌で痛み止めを入れつつ、家族でふれあえることのできるご自宅で緩和ケアをしておられるとのことでした。ご来会された姉妹はクリスチャンではないそうですが、キリスト教の信仰について小さい頃からお母様を通して話を聞く機会もあったそうです。そのお母様の思いを間近に感じながら、最後に召される折には牧師に家に来てもらってお祈りしてあげてほしいという願いをもって先週私たちの教会の礼拝に来られたということでした。その2日後にお母様は天国に旅立っていかれました。わたしはご家族とともにお母様の看取りができなかったのですが、前夜式というかたちでご自宅に伺い、姉妹とお父様と共に、しばし、いのちの御言葉を読ませて頂きました。お母様のことを偲びつつ、お祈りを捧げ、「いつくしみふかき」の賛美を救いの主に捧げる時を持ちました。お父様もクリスチャンではないのですが、お話を伺えば、お爺さまでしたか、牧師であられたそうです。奥様の信仰の遺志を大事にしたいという思いから、わたしを快く迎えいれくださり、天国への旅立ちと共に再会の希望をお伝えすることができました。故人の遺されたお証と共に、残されたご家族が「真の創造主」とお出会いになり、その魂がとこしえの平安に与っていかれることをお祈りいたします。
詩編に戻りますが。詩人はユダの地、シオンの都にある「神を畏れ敬う」王の統治に伴う、豊かな実りと平和のため祈り、次いで8節-11節に、その統治が世界の果てにまで及ぶようにと祈ります。
8節「王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。砂漠に住む者(遊牧民)が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。タルシシュ(南スペイン)や島々(地中海の島々)の王が捧げ物を/シェバ(南イエメン)やセバ(エチオピア)の王が貢ぎ物を納めますように」と、諸外国の王が、神を畏れ敬う王をほめたたえるようにと祈るのです。
さらに、12-14節「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い/不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように」と詩人は祈ります。
ここで、詩人が「貧しい者を救い」「乏しい人の命を救い」、そして「彼らの命を贖い」と祈っていることに目が留まります。命を救う、ましてや命を贖うとまでありますと、これはもはや、この地上の一王ではない「王の王なるお方」、神から出で世を救うメシア(救世主)なるお方でなければ成し得ません。まさにイザヤ書で預言されていますように、神によってもたらされた権勢と統治とがそのお方の肩にかかっているのであります。
詩編が編纂された後、ユダヤ人たちは非常に厳しい時代を経て、歴史的には紀元前6年~4年の時期に、この預言的祈りのとおりの王がユダヤの地にお生まれになります。それは地の果てに至るまで神の権能によって統治される諸国の王の王、主の主として世界にお出でくださったのであります。それが主イエス・キリストであります。
詩人は17節で次のように祈ります。「王の名がとこしえに続き/太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように」。 この世界の王の王、真のメシヤ、救い主として、ユダヤの人々からこの異邦人である私たちのもとに来てくださったことを、心から喜び、主をほめたたえていきましょう。