主日礼拝宣教 詩編24編1-10節
本日は詩編24編から御言葉に聞いていきたいと思います。この詩は、週報の表紙に記載しました詩編15編と共に、「神殿に入るための資格を詠う礼典歌」(岩波訳・詩編解説参照)であったとされています。 ここにはまず、天地万物の創造主であられる神の力と威厳が高らかに賛美されています。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。主は大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた」。 神殿を訪れる人は千差万別です。日課として礼拝を守るため。祝い事や弔いのため。願い事や癒しを求めるため。懺悔のため。遠方からの巡礼のために等々。この詩(うた)は今、まさに神殿の門をくぐろうとする人たちに向け、これからどのようなお方の前に立とうとしているのかを告知するのです。そこで詩人は、そのお方がこの地上のいっさいをお造りになられたのであり、全天全地に至るすべての世界を築いておられる存在であることを知らせます。
人間はあたかも社会と文明。ともすればこの世界までも人が造り、建て上げてきたように錯覚してしまいがちです。私たちは自分が苦労して得たものに対して、自分の努力や働きの結果、自分のものと考えます。その結果起こって来ることは今日の世界において大変問題視されていますように、地球の資源や自然が乱獲され、消費されて膨大な二酸化炭素ガスが排出し、地球温暖化の大きな要因となって、それに伴う甚大な災害が様々な地域で起こっています。大規模開発による環境破壊、生態系崩壊により、自然環境のバランスが大きく崩れ、山に食べ物を見いだせなくなったクマやサルが村や町の畑や人家にまで下りて来るということが増えています。又、種の絶滅、今までいた生き物や草木が絶滅していくということが大変なスピードで起こっています。その被害は自然界や動物のみならず、人間の側にも跳ね返ってきて、将来の若い世代や子どもたちにとっての地球環境を脅かすものになっています。
天地万物をお造りになられた神は、私たち人間を祝福するためにこう仰せになりました。創世記1章28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。口語訳・新共同訳改訂版は「支配せよ」ではなく「治めよ」と訳されています。神のお造りになったこの素晴らしい世界を治め、その祝福を享受し、感謝しつつ、幸いを得るように、と創造主である神は人を祝福なさったのですね。
さて、詩人は3節で「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか」と問いかけます。先に申しましたように神殿に入るための資格を問うているのです。「主の山」とは「シオンの山」、聖所とは「エルサレムの神殿」を指していまが。その場所でどのような人が、いっさいをすべ治めておられる神の御前に、礼拝者として立つことができるのか、と問うているのです。
詩人は4-5節でこう答えます。新共同訳改訂版の訳がよいのでこちらをお読みします。「汚れのない手と清い心を持つ人。魂を虚しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。その人は主から祝福を/救いの神から正義を受ける」。 詩人は「その人は主から祝福を/救いの神から正義を与えられる」と告げます。又、「汚れのない手と清い心を持つ人。魂を虚しいものに向けず/偽りの誓いをしない人」こそ、礼拝者としてふさわしいと詩人は戒めます。これは神殿の門を前にして、その心に問いかけられているわけですから、自分はそうとは言えないなぁと自覚する人はそのような心備えをもって神の前に生きていく者となりたい、そうなっていこうと心に願いつつ、その門をくぐる恵みが与えられているのです。「主がその人を祝福し、救いの神が正義を与えられる」というところがとても大事な点なのです。それは、どんなに人の側が清くなろう、正しく生きていこうとしても、完全な神の聖さと義(ただし)さの前に立ち得る人は一人もいないからであります。どのような人も「救いの神の御憐み」に与らなければ、如何なる人も神の御前に礼拝者として立つことはできない、と詩人は詠っているのであります。神殿を詣でる礼拝の最も大きな祝福はまさに、この「救いの神からの正義」、それは「ゆるし」と「きよめ」、又「神の前における正しさ」を与えられるということなのです。 その神の祝福を受け取る人は、6節「主を尋ね求め、神の御顔を尋ね求めるほかない人」であるということです。主を尋ね求め、主の御顔を尋ね求め、魂の飢え渇きを覚える人、祈らずには生きていけない人、礼拝に与ることが生きる力の源である人。そのような神を慕い求める人に、救いの神は恵みを与え、祝福してくださるのです。今日この礼拝に与っておられるお一人おひとりが、主イエス・キリストにある救いの神の祝福のもとに招かれた恵みを共々に喜び合いたいと思います。
次に、後半部分の7節以降には、「栄光に輝く王とその到来」について、ここも告知され呼びかけと応答の詩(うた)となっています。 「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」。まるで城門を人間であるかのように呼びかけています。これは、エルサレムの神殿での入場の際に神の箱を担いだ人々が、門の内側にいる祭司に向かって呼びかけた言葉であったとされています。
頭を上げよというのは、一説によりますと、当時の城門が横開きではなく、外敵からの侵入に備ええバタンと閉じることのできる跳ね上式であったことから、そう表現したとも思われます。荒野で授かった民の祝福の象徴とも言える十戒やマナなどが収められた「神の箱」の入場と栄光に輝く王の入場とがここには重ねられているのでしょう。もちろんこの王とは10節にあるとおり、「万軍の主」ということですが。
ここには、さらにそれが「とこしえの門」と詠われています。この「とこしえ」というのは、ここでは「非常に古い」という意味があるそうです。古来より、幾人もの王となる人物が現れてはくぐってきた門であることが象徴されています。しかし、今までの王たちとは異なる、遥かに勝った王が来られ通られることがここに示されているのです。まあそう聞きますと、やはりあの主イエスのエルサレム入場の場面が思い浮かんでくるのでありますが。ここでは、門の内側にいる祭司から8節「栄光に輝く王とは誰か」と呼びかけがあると、神の箱を担ぐ人々から「それは強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」との応答がなされるのであります。 「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」、又10節にも「万軍の主」という言葉が出てまいりますが。旧約聖書にはイスラエルの民を守り、又共に戦われる万軍の主、圧倒的な力を行使される戦いの神として記述されております。しかし、主イエスの戦いは父なる神に従い通して、権力や武力によらず諸国の民に罪のゆるしと神との和解を実現なさる、まさに5節にあるような「救いの主」としての戦いであります。それは、罪に滅びる外ない私たちの身代わりとなって、自ら十字架に引き渡し、その尊い命をもって私たちを贖いとってくださった戦いなのであります。もはやイスラエルやユダヤの固有の王としてではなく、メシア、救いの主なる世界の王として父なる神より地上のいっさいの権能をお受けになった王の王、栄光に輝く新しい王、世界の民の救い主としておいでになられたのであります。この新しい王、メシアに冠された「栄光」は、世の栄えや栄誉とは全く異なるものなのです。
ヘブライ語の栄光は元来「重たさ」を意味します。出エジプト記3章で、主がモーセを出エジプトのために召し出した折、主はモーセにこう言われます。 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。今、行きなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルを連れ出すのだ」。ここで主は民の苦しみと痛みを自らのものとされたのです。まさに神の栄光は、民の苦しみと叫び、その痛みを知って、それを担い行かれた。その重み、重たさによって主の栄光が顕されていくのです。 この新約の時代に至り、全人類の救い主として神は御独り子、イエス・キリストを通して私たち人の弱さと罪を自ら負われ、救いの御業を成し遂げてくださった。この重みによって神の栄光は顕されているのです。主イエス・キリストこそ、「栄光に輝く新しい王、真の救い主」であられます。
本日は、「創造主を知って生きる」と題して、詩編24編から聞いてきました。全世界の王なるお方は、主の御顔を尋ね求める者とどこまでも共にいてくださいます。その救いの十字架のお姿に神の栄光を仰ぎながら、今週も心からの感謝と、祈りと賛美の喜びをもって、それぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。