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創造と贖いの御業

2021-10-03 12:26:54 | メッセージ

礼拝宣教  詩編19編1-15節 

 

本日から8週に亘り礼拝では詩編から御言葉を聞いていきます。詩編はヘブライ語で「Tehillim:テヒリーム」;「賛美の歌」という意味です。天地万物を創造し支配したもう神への賛美をはじめ、虐げられた奴隷の状態から民を救い出してくださった神への賛美。又、罪の悔い改めと懺悔をもって主に嘆願する切なる祈りの歌。捕囚から民を解放しエルサレムへの帰還と復興を導かれた神への賛美などなど。それはどのような状況でおも連綿と成し遂げられて神の契約とそのお働きが証しされた珠玉の賛歌集といえます。詩編は今から2千3百年前頃に編纂されたものとであると言われますが、ユダヤ民族の歴史を超えて、主イエス・キリストによって接ぎ木された私たちの魂を、救いの神へ賛歌と祈りに活き活きと導く霊的性質をもっています。

今日はその詩編19編から「創造と贖いの御業」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

まずこの詩編は「神の栄光」が「天の空」と「太陽」によって表されています。大空を見上げ日の光を仰ぐ時、人は天の神なるお方の存在をおぼえ、その御手の業に思いを馳せるのではないでしょうか。

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」

こどもの頃山で、田んぼで、又川や海で、昼は澄みきった大気と青い空を仰ぎ、夜は満天の星を見上げる時、この空はいったいどこまで拡がっているんだろうと、感動ともに畏敬の念に打たれたという思い出を持つ方も多いのでないでしょうか。

先日、大阪に来てから初めてプラネタリウムに息子と二人で出かけましたが。大阪の街から臨む四季折々の星が天蓋に映し出されて、何とも言えない安らぎを覚えました。その数えきれない星々とその営みが天空に見事に配置されている様を見上げながら、改めて天地万物の創造主とその御業は何と壮大なことかと思わずにいられませんでした。

半世紀以上前の1960年代、アポロの宇宙飛行士たちが地球から飛び立って初めて悲願の月面に着陸いたしました。その後も次々と宇宙へ飛行士たちが送り出されていきます。その多くの飛行士たちは、そこで超越した「何か」の存在を感じ、確信し、世界観が変わったと語っています。アポロ15号で月に着陸したジム・アーウィンという飛行士は、月面において「神の臨在」を実感したと語ります。彼は「姿を見たわけではなく、声を聞いたわけでもないが、確かにここにいるのが分かった」と証言し、その後キリスト教の伝道師なられたということです。まあ非科学的でない科学の最前線に立つ方々が、このように人知を遙かに超えた神の存在を感じ、認識されているのですね。

壮大な天空を仰ぐ時、同じダビデの詩編8編に「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も星もあなたが配置なさったもの。そのあなたが御心にとめて下さるとは人間は何ものでしょう。あなたが顧みて下さるとは」とありますように、自らもその御手の業による者であることを自覚し、創造主への賛美へと導かれていくのです。

今日の19編の5節後半-7節には「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように/天の果てを出で立ち/天の果てを目指し行く。その熱から隠れ得るものはない」と、神の栄光が太陽にたとえられいます。その光と熱は人の命と生活において欠かすことのできないものです。

主イエスはマタイの福音書で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」と神の慈愛と御憐れみの深さが太陽を通して言い表しておられます。

この詩編で「その熱から隠れうるものはない」と言われているのも、どのような人でも神がご存知でない人はいない、すべての人を神は知られているということであります。

 

ここまでは神がお造りになられた天空や太陽を通して顕される神の栄光について見てまいりましたが。

8節からは今度は人間の内側を照らし出しています。

8-9節「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。」

このように神の栄光の光は律法の教えと戒めとなって人間の魂、心を照らし、目に光を与えます。

そこで注目しますのは、神の教えと戒めである神の命の言が、人間の「魂を生き返らせる」ということです。

先にも申しましたように、モーセの時代、主なる神はイスラエルの民を奴隷の地から解放されて「主の民」とされ、まさに「魂を生き返らせて」くださいました。主は彼らがご自身の宝の民となさり、祝福を与えて、幸いに生きるように十戒をはじめとする律法、シナイの契約を民と結ばれました。

ところが、その後イスラエルの民はその神の教えと戒めに背き続けます。そして遂に国は滅び捕囚の民とされるのです。しかし神はその民を決してお見捨てになることはありませんでした。

先週までエゼキエル書を読んできましたように、時至って彼らを捕囚の地から解放し、エルサレムへの帰還と復興という御手の業をもって栄光を顕されるのです。それは民にとって信仰の復興の時、神の教えと戒めに立ち帰る時となったのであります。まさに主の律法(御言葉)には「魂を生き返らせる」力があり、神は救いの御計画をもってご自身が真に信実なお方である事を証明されたのです。

 

今日の詩編はさらに、「主の戒めは清らかで、目に光を与える」とあります。箴言6章23節で「戒めは灯、教えは光、懲らしめや諭しは命の道」と語られていますように、主の戒めは太陽の光のように混じりけなく私たち人間の内側に臨み、目に光を与え、主への清い畏れがいつまでも続くようになさるというのです。神は愛です。けれども神への畏れを知らず、その裁きの正しさを思わないなら、その愛の深さは知ることができないでしょう。

神への畏れを知る人は祈ります。

13節「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしたちを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し/(罪に)支配されないようにしてください・・・心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」と。

この詩編の作者はダビデ王であります。勇者であり偉大な王であったダビデの功績について称賛されることは多かったわけですが。けれども、ダビデはその生涯において人生の汚点といえる罪を犯します。横恋慕して人の妻に手を出し、その夫はダビデの忠実な部下であったのです。ダビデは地位を利用し、計画的に戦(いくさ)の最前線に彼を送り込んで見殺しにさせてしまうのです。そのダビデが自分の罪に気づかされた時、如何に自分が主の憐みを乞う外ない者であることを思い知らされるのです。神の正しさの前に到底立つことの出来ない自分、罪の性質がいつ頭をもたげてくるかもわからず、気づかないうちにも神の正しさにそぐわない生き方をしているかも知れない自分。それを人一倍知るからこそ彼は、「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうか清め、驕りから引き離し、支配されないようにしてください」と、心の底から主に祈っているのです。

ダビデにとってその祈りをお聞きくださるのは、唯「わたしの贖い主」でしかない、と主に隠さず打ち明けているのです。

 

本日はこの詩編19編から「創造と贖いの御業」と題して、御言葉から聞いてきました。

主なる神の栄光の御業は、マクロの壮大な天空や太陽、あらゆる自然界の驚異や神秘を通して知ることができますが。さらに神秘なのは、主なる神の栄光の御業が「命の言」となってミクロの世界ともいえる私たちの心の内にまで臨んでおられるということです。

その光は、自分でも気がつかないような罪の性質や隠れた罪を照らし出し、明らかにするのです。そこで私たちにとって最も幸いなことは、私たちが真の創造主と出会うこと。その主の御言葉の正しさによって主に立ち帰るよう導かれていること。そして罪のゆるしを得させてくださる揺るぎなき「贖い主」によって救いの道が開かれているということ、であります。

創造と贖いの御業を今もすべての人間、その一人ひとりに指し示してくださる主の招きに、今日のこの日も応えて生きる者とされてまいりましょう。

主よ、わたしの岩!わたしの贖い主よ!

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