大丈夫か?
依頼する方もすごいと思うが、受ける方もよく受けたもんだ。
沼津港大型展望水門 “びゅうお”です。予想される東海地震によるであろう津波から港付近の街を守ります。上部に昇って展望できるようになっています。以前から一度いってみようと思っていてやっとこさ昇りました。入場料は大人が¥100.-です。普段なにもなきゃまったくおカネを産まず、むしろ維持コストがかかるものなので、入場料を取って景色を見せられるようにしたというのはいいことでしょう。お客さんもたくさんいましたし。
下を船が通ります。一度通ったことがありますが、「落ちてきたらやだなぁ・・」などと考えました。大きいのでちょっと怖い。
この方向に富士山があるのですが、ちょうど雲に隠れちゃいました。
沼津アルプスは目と鼻の先
港から狩野川を挟んだ対岸の小さな山の上。この金色に光る建物はなんだろう?
・・・と、思ったら夕陽を受けて金色に見えただけでした。でもなんだろう?
もうすぐ夕陽が沈みます。ここは夕景がきれいですね。
2008年は12月に開催されたディスクゴルフ公式戦東海オープン。運悪く暖かなところに超強力な寒気が入ったため、コース設営の金曜は“嵐のち激寒”、土曜は“強風で激寒”となった。日曜は“雲ひとつない快晴&微風”で、とても素晴らしいお天気で富士山も超バッチリ見えた・・が、やはり朝方はとても寒かった。
例年なら12月初旬はそれほど寒くないのだが、まぁ運が悪かったとしかいいようがないか。「日頃の行いが悪い」とも言われそうだが、日曜が素晴らしかったのでそこはちょっと割引。(プレーヤーのみなさん、#17“富士山記念撮影ホール”はいかがでしたか?)
で、今年2009年の東海オープンはいまのところ6月の第1週or第2週に開催されるらしい。今年はジャパンオープンが無い裏年(?)なのでそこの日程が空いているのであろう。
問題なのはそれが第1週か第2週かによってかなり違ってくることだ。第2週ならまず梅雨入りのころで、富士山の景観は富士山のほぼ1合目あたりにある「こどもの国」でも望めない。第1週ならまだ希望は持てるし、梅雨入り前ならまだジメジメしないすっきりしてむしろ暑いぐらいだろう。とても気候がいい時期の一番最後のころだろう。それなら富士山もはっきり見えるはず。
他にも、しばらく無職になる私があちこちの公式戦などに参戦できるかわからないが、とにかく早く今年の日程が出ないかなぁ~?
市の広報「静岡気分・1月1日号」を読んでました。未だに「広報しみず」と呼んでしまうのはご愛嬌ですが、今日は私も新年特大号です。
年が明け、お正月は着物を多く見かけるし、ちょっと日本的な文化に触れる機会も普段より増える時期だと思いますが、江戸時代の「東海道五十三次」の宿場のうち、現在の静岡市内にある宿場は東から、蒲原・由比・奥津(興津)・江尻(清水)・府中(静岡)・鞠子(丸子)と6つもあります。
この「静岡気分・1月1日号」では歌川広重が描いた「東海道五十三次」のそれぞれの宿場の浮世絵などを紹介しながら、それぞれの歴史やエピソードが書かれています。その中から“へぇ~”と思ったものや私も全然知らなくて驚いたことなどをちょっと取り上げてみたいと思います。
1:歌川広重の作品の中でも最高傑作とも言われる「東海道五十三次 蒲原 『夜の雪』」。(←クリックしてね)
広重の「東海道五十三次の中でも珍しい雪景色が美しく、日本的な静寂がよく表現されているものですが、めったに雪が降らない蒲原でなぜ広重が雪景色を書いたのか?・・というのは「東海道五十三次」の五十五枚のシリーズに季節や天候などを織り込み変化をつけるためにわざと雪を降らせたのではないか・・と言われているがその真相は謎につつまれたまま・・
・・というのもよく書かれているエピソードですが、さらにこの「静岡気分・1月1日号」には“広重は、別のシリーズでは丸子や江尻にも雪を描いています”・・と書かれています。
江尻小学校出身の私は、この江尻に雪を降らせた絵を是非見てみたい!!
食いついたのはこの点でした。
2:同じく蒲原。富士川から大井川にかけての駿河湾沿岸では塩作りがさかんだったそうで、特に蒲原は砂浜が広く、古くから塩を富士川をさかのぼった甲州との交易に使っていたのだそう。
時代が下ると、その砂浜で落花生やサツマイモを栽培するようになり、この落花生を塩田で作った塩でゆでたのが、私が大好きな“塩ゆで落花生”の始まりと言われているんだそうです。これは知らなかったなぁ~!
3:私が住んでいる江尻宿あたり。1800年ごろ描かれた「東海道分間延絵図」(重要文化財)に江尻宿と清水湊の様子が描かれています。それを見ると、やはり、現在のウチの前の道路はっきりと描かれています。なんだか不思議な気分です。
このころの江尻宿は天保14年(1843)の記録によれば本陣2軒、脇本陣軒、旅籠屋約50軒と府中宿(旧静岡市の駿府城そば)よりも多くの宿があったのだそう。これもちょっと驚きですが、まぁ港町が栄えるのはわかる気がしますね。
そばを流れる巴川ももともとは・・(財団静岡観光コンベンション協会のサイトより) 今川義元の頃の中世の安倍川は藁科川から独立した複雑な流路を形成していて、「安倍川」の名前はこれらの川の総称であったらしく、賤機川・北川・妹川・横雄川などと呼ばれていて、そのうち北川は浅間神社前を迂回して(!)、臨済寺方面から麻機沼へと流れていた。これは安倍川の流れも巴川に流れ込んでいたということで当時は巴川も水量が多かったが、徳川家康が暴れる安倍川を改修し藁科川へと合流させて駿府の町を洪水から守ったとのことで、それいらい巴川の水量が減ったとのこと。
これにより大きな船が海から江尻まで上って来れなくなったことと、江尻宿の南に延びる「向島」と呼ばれた砂州が成長しながら南下して江尻は海から奥まったところになってしまい、港の中心が清水湊のほうに移っていったとのことです。そうでなければ今、ちょうどウチがある辺りが港の中心になるということになります。これも“へぇ~”でした。
4:「大坂夏の陣」に協力した清水の廻船問屋は、安倍川~富士川間の海運の独占を認められ江戸時代を通じて栄えました。廻船問屋はかつて武士(水軍)だった人が多かったそう。船を自在に操作して諸国の商人と渡り合う廻船問屋には細心かつ豪胆な資質が求められます。戦国の修羅場をくぐり抜けた経験が生かされたのかもしれません。
だから鈴与の人たちは荒っぽいのかなぁ?・・・というのはウソ (^_^;)
5:上述のように、安倍川はもともとはバラバラに、テキトーに流れていた川だったのですが、そのおかげなのか江戸時代の駿府の町には縦横無尽に用水が引かれ、生活や消火に役立っていました。このあたりはさすが家康、江戸に似ています。
用水は専門の、水どう・・じゃなかった「水道方同心」が管理して、水を汚した者は罰として用水の清掃などを命じられたそうです。そして、暑い日やホコリの立つ日には、わざと用水を溢れさせて道を湿らせたのだそうです。コレってエコだよねぇ?今もやれば?でも現在の静岡の街にはこのような水路やその跡はほんの少ししか地上では見られません。どこに隠れているんだろ?
そのほかにも歴史的な興味をひかれる話題が書いてありました。静岡市民は是非「静岡気分」を読んでみましょう。それと、自分でもまだまだ知らないことがいっぱい書かれていて、もっと自分でも自分が生まれ育って住む街の歴史や日本の近代史などももっともっと学ばないといけないんだなぁ~と感じました。
そして、広重の浮世絵の大胆な構図は後にゴッホなどにも影響を与えたとのことで素晴らしいですね。1月2日にちょうどNHKBSハイビジョンで「夢の美術館 江戸の名画百選」という番組が放送されるのでそちらもごらんになるといいかもしれません。
ということで長文でした。我が家が喪中ですので新年の祝賀ごあいさつは省かせていただきました。写真はウチから見た初日の出。記事アップ時間をうるう秒の1秒前にしてあります。だって“08:59:60”って表示できないんだもの。