昨日雪舟の石庭の紹介に続き本日は幕末の史跡遊撃軍陣営遺跡を
紹介します。
遊撃軍は、文久3年(1863)10月、蛤御門の戦で壮烈な戦死をした
来嶋又兵衛が藩命により三田尻で組織、狙撃隊など十三の諸隊に、
のち周東町ゆかりの維新団も編入され、高杉新作の奇兵隊と同様
明治維新成就の原動力として活躍した。
周東町へは、慶応元年(1865)3月対幕府戦に備えて須々万村から移駐、
6月に本陣が出来た。通化寺に陣営を置き明治3年3月の解散時まで駐屯。
この間、四境の役、鳥羽伏見の戦、奥州討幕の役等に参加。
明治元年の明治天皇東京行幸の際はその供養を命じられています。
通化寺に来たときの兵員は250人、総督は高杉晋作でしたが、
幕府は間もなく、兵員330人に増員、毛利幾之進を総督、
石川小五郎を副総督に任じています。
四境の役では、遊撃軍は芸州方面防御の主力となり、慶応2年(1866)
6月小瀬川に出陣、小方・玖波・大野の幕軍を撃破、二十日市に迫らんと
したとき休戦となり、翌3年(1867)2月に凱旋この役の勝利こそ、
まさに近代日本の幕明けを象徴するものでした
遊撃軍遺品展示室あたりが本陣のあったたところで、展示室には
來嶋又兵衛の絵像や陣笠、砲車、軍服、維新団士の肩章などが
展示されている。
本殿(写真)は昭和39年大西ヨシエさんが私財を投じて建て替えた
もので非常に立派なものである。
檀家は24軒と非常に少ない。
通化寺前の看板の文を引用
紹介します。
遊撃軍は、文久3年(1863)10月、蛤御門の戦で壮烈な戦死をした
来嶋又兵衛が藩命により三田尻で組織、狙撃隊など十三の諸隊に、
のち周東町ゆかりの維新団も編入され、高杉新作の奇兵隊と同様
明治維新成就の原動力として活躍した。
周東町へは、慶応元年(1865)3月対幕府戦に備えて須々万村から移駐、
6月に本陣が出来た。通化寺に陣営を置き明治3年3月の解散時まで駐屯。
この間、四境の役、鳥羽伏見の戦、奥州討幕の役等に参加。
明治元年の明治天皇東京行幸の際はその供養を命じられています。
通化寺に来たときの兵員は250人、総督は高杉晋作でしたが、
幕府は間もなく、兵員330人に増員、毛利幾之進を総督、
石川小五郎を副総督に任じています。
四境の役では、遊撃軍は芸州方面防御の主力となり、慶応2年(1866)
6月小瀬川に出陣、小方・玖波・大野の幕軍を撃破、二十日市に迫らんと
したとき休戦となり、翌3年(1867)2月に凱旋この役の勝利こそ、
まさに近代日本の幕明けを象徴するものでした
遊撃軍遺品展示室あたりが本陣のあったたところで、展示室には
來嶋又兵衛の絵像や陣笠、砲車、軍服、維新団士の肩章などが
展示されている。
本殿(写真)は昭和39年大西ヨシエさんが私財を投じて建て替えた
もので非常に立派なものである。
檀家は24軒と非常に少ない。
通化寺前の看板の文を引用