2028年9月8日、姫路市の西二階商店街で食事をするために食事処を探していた時に
標題の「お夏の生家跡」を見つけましたので写真紹介します。
生家跡と言っても説明板があるだけです。
上の写真がお夏清十郎物語 お夏の生家跡の説明板です。
説明板の説明文をそのまま転記しておきます。
お夏清十郎物語 お夏の生家跡
井原西鶴 の描いた「お夏清十郎物語」。この物語の主人公お夏は、この向かいはなや酒店のある場所にあった米問屋但馬屋で生まれました。
万治二年(1659)将軍徳川家綱 の頃。姫路本町に店を構える但馬屋で暇を出された奉公人の男が主人を恨んで斬りつけるという事件が起こりました。男の名は清十郎。凶行の裏には主家娘お夏との恋沙汰があったといいます。
お城の北西にある慶雲寺にはお夏と清十郎を祀った「比翼塚」があります。二人は駆け落ちたといいます。
姫路城うちまちミュージアム
「まち全体が博物館」
姫路城下町街づくり協議会
井原西鶴 の描いた「お夏清十郎物語」。この物語の主人公お夏は、この向かいはなや酒店のある場所にあった米問屋但馬屋で生まれました。
万治二年(1659)将軍徳川家綱 の頃。姫路本町に店を構える但馬屋で暇を出された奉公人の男が主人を恨んで斬りつけるという事件が起こりました。男の名は清十郎。凶行の裏には主家娘お夏との恋沙汰があったといいます。
お城の北西にある慶雲寺にはお夏と清十郎を祀った「比翼塚」があります。二人は駆け落ちたといいます。
姫路城うちまちミュージアム
「まち全体が博物館」
姫路城下町街づくり協議会
上の写真は説明板のある位置(お夏の生家跡)を示したものです。
お夏の生家、但馬屋は西国街道と江戸時代の大手前通(中之門筋)の交差点
江戸時代に高札場付近にあった。
現在の住所表示では姫路市本町231番地 城南病院(藤森耳鼻咽喉科跡)
上の写真は説明板に添付の錦絵でお夏の姿が描かれています。
上記の説明版の近くに「お夏清十郎のものがたり」と題した説明版も掲示されて
いましたので添付しておきます。(下の写真)
お夏清十郎について簡単に概観します。
「お夏清十郎」(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662) に播州姫路で
実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。
『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。
以上はWikipediaによります。
播磨室津の造り酒屋・和泉屋清左衛門の息子・清十郎は放蕩の末に勘当され、姫路城下町の米問屋・但馬屋の手代として奉公、但馬屋の一人娘お夏と深い仲となるが、嫉妬した番頭が但馬屋の金を盗み、その罪を清十郎になすりつける。清十郎は激怒のあまり逆上し番頭を殺してしまう。お夏と清十郎は手に手を取って但馬屋を後にした。
お夏と清十郎は飾磨港までやって来て、船で大阪へ出立しようとしたとき、追っ手によって清十郎は捕らえられ、お夏は連れ戻された。お夏は自宅謹慎処分となり、清十郎は船場川の河原で討ち首となってしまった。
清十郎の処刑のことは、自宅謹慎中のお夏には知らされなかった。お夏は、ただただ愛しい清十郎のことばかり
「今頃、清十郎さま、牢で淋しい想いをしていることやら…一目会いたい」
そんな想いを馳せるお夏の毎日だった。
ところがある日のこと、塀の外で近所の子供たちの歌声が聞こえた。
清十郎殺さば お夏も殺せ
同じ刃で もろともに…
お夏は、ただならぬ歌の文句に動転したのである。
「清十郎さまは死んでしまったの?…」
お夏は、悲しみのあまり発狂したのだ。それからというものは、清十郎の姿を求めて、町をさまよい歩く。「恋しい清十郎さま…」
恋人を呼ぶお夏の悲惨な姿は、町の人々の涙を誘った。
狂乱したお夏が、その後、どうなったのか。
身を隠し七十歳まで生きた、とか、自殺して果てた、とも伝われている。
一説には、お夏は清十郎の室津の実家までゆき、そこで清十郎が討ち首になって既に死に果てたことを知り、清十郎の後を追って、室津の海に身を投げた…とも伝えられているが、定かでない。
お夏・清十郎の悲恋を哀れんだ但馬屋の主人、九左衛門は、天国で二人が永久に結ばれるように…との願いを込め、野里の慶雲寺に“比翼塚”を建立し供養をしたのである。“比翼塚”には今も、二つの小さな石塔が仲良く並んでいる。毎年8月9日、同寺において、その供養が執り行われています(「お夏清十郎慰霊祭」 )。
井原西鶴が著した浮世草子『好色五人女』の第一章『姿姫路清十郎物語』(すがたひめじ せいじゅうろう ものがたり)と、それを宝永4年 (1707年) に近松門左衛門が脚色して世話物の人形浄瑠璃に仕立てあげた『五十年忌歌念仏』が
お夏と清十郎は飾磨港までやって来て、船で大阪へ出立しようとしたとき、追っ手によって清十郎は捕らえられ、お夏は連れ戻された。お夏は自宅謹慎処分となり、清十郎は船場川の河原で討ち首となってしまった。
清十郎の処刑のことは、自宅謹慎中のお夏には知らされなかった。お夏は、ただただ愛しい清十郎のことばかり
「今頃、清十郎さま、牢で淋しい想いをしていることやら…一目会いたい」
そんな想いを馳せるお夏の毎日だった。
ところがある日のこと、塀の外で近所の子供たちの歌声が聞こえた。
清十郎殺さば お夏も殺せ
同じ刃で もろともに…
お夏は、ただならぬ歌の文句に動転したのである。
「清十郎さまは死んでしまったの?…」
お夏は、悲しみのあまり発狂したのだ。それからというものは、清十郎の姿を求めて、町をさまよい歩く。「恋しい清十郎さま…」
恋人を呼ぶお夏の悲惨な姿は、町の人々の涙を誘った。
狂乱したお夏が、その後、どうなったのか。
身を隠し七十歳まで生きた、とか、自殺して果てた、とも伝われている。
一説には、お夏は清十郎の室津の実家までゆき、そこで清十郎が討ち首になって既に死に果てたことを知り、清十郎の後を追って、室津の海に身を投げた…とも伝えられているが、定かでない。
お夏・清十郎の悲恋を哀れんだ但馬屋の主人、九左衛門は、天国で二人が永久に結ばれるように…との願いを込め、野里の慶雲寺に“比翼塚”を建立し供養をしたのである。“比翼塚”には今も、二つの小さな石塔が仲良く並んでいる。毎年8月9日、同寺において、その供養が執り行われています(「お夏清十郎慰霊祭」 )。
井原西鶴が著した浮世草子『好色五人女』の第一章『姿姫路清十郎物語』(すがたひめじ せいじゅうろう ものがたり)と、それを宝永4年 (1707年) に近松門左衛門が脚色して世話物の人形浄瑠璃に仕立てあげた『五十年忌歌念仏』が
ベースとなり歌舞伎での公演は様々な脚色がされています。
上の写真はたつの市室津、清十郎の生家跡への案内図
現在は生家と思われるようなものは全く残っていない。
関連事項として2013年3月31日に姫路播磨国総社で開催されている三ツ山大祭の
見ものの一つ10箇所の造り物巡りの中のNo.3「お夏・清十郎の恋」の展示を
写真紹介します。
No.3お夏・清十郎の恋 設置場所:JR姫路駅中央コンコースみどりの窓口の前
製作者:姫路工業高等学校
製作者:姫路工業高等学校
さらに詳細は下記ブログで書いています。
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