CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

北海道の名付け親「松浦武四郎」の生涯

2023年09月21日 06時09分44秒 | Weblog
2023年9月17日(日)の日経新聞に「北海道の名付け親の旅人生、松浦武四郎の日記をたどる、
歩き続けた生涯3つの分岐点、アイヌ圧政を告発 込めた思い」という見出しで
松浦武四郎の生涯について紹介されていました。
Wikipediaによれば松浦武四郎(1818-1888)は次のように概説されています。
松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 - 明治21年〈1888年〉2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北加伊道(のちの北海道)という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた。
松浦武四郎については過去にブログを作成していますが、上記の日経新聞記事の内容を
加味して松浦武四郎の生涯について纏めてみました。
くしくも、明治2年(1869)8月15日(新暦換算9月20日)は 明治政府が
蝦夷地を「北海道」と改称すると布告した日で2023年9月20日で154年経過しています。

まず、概要を理解するために松阪市が動画で松浦武四郎の功績を紹介 、Gooで共有

松阪歴史探訪 松浦武四郎編「松浦武四郎の生涯と功績」

松阪歴史探訪 松浦武四郎編 後編「松浦武四郎が残したもの」

また、松浦武四郎(1818-1888)の経歴を年譜形式で記載しておきます。
松浦武四郎は6回の蝦夷地調査を実施。蝦夷地詳細な地図を作成さらに北海道の
名付け親としても知られています。
年齢表記は満年齢
文化15年(1818)0歳 2月6日、伊勢国志部須川村(現在の松阪市小野江町)に生まれる
           松浦時春(桂助)の四男
文政7年(1824)6歳 近くの寺で読み書きを習い、「名所図会」を愛読
天保元年(1830)  津藩平松楽斎の私塾に学ぶ(12歳~15歳)
天保4年(1833)15歳 2月手紙を残して突然家出→江戸で見つかり連れ戻される

天保5年(1834)  全国を巡る旅に出る。(16歳~19歳)
           松浦武四郎の旅の資金は篆刻で稼いでいたと言われています
           篆刻の技は15歳の時江戸での居候先、漢学者の山口遇所より習得
天保9年(1838)20歳 長崎で大病、「禅林寺」で出家し僧侶「文桂」となる
天保10年(1839)21歳 平戸の「千光寺」で住職を務める(21歳~23歳)

天保14年(1843)25歳 長崎でロシア南下の危機を知り、蝦夷地を目指す。
          郷里へ戻り参宮と父母の墓に参る、「西海雑誌」を著す
   イカ釣り船に乗せてもらい対馬に渡り、朝鮮国への渡航を目指すが警戒が厳しく断念
弘化2年(1845)27歳 第1回蝦夷地探査。商人和賀屋孫兵衛の手代に身を変え、
          函館→森→有珠→室蘭→襟裳→釧路→厚岸→知床→根室→函館を巡る
         旅に出る前に父親の7回忌、母親の3回忌を済ませる
弘化3年(1846)28歳 第2回蝦夷地探査。松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として調査
           江差→宗谷→樺太→宗谷→紋別→知床→宗谷→石狩→千歳→江差嘉永2年(1849)31歳 第3回 蝦夷地探査。函館から船で国後島、択捉島へ渡る
           ここまでは松浦武四郎の私的な探査

嘉永3年(1850)32歳 これまでの3回の調査を「初航蝦夷日誌」全12冊、「再航蝦夷日誌」
        全14冊、「三航蝦夷日誌」全8冊という題でまとめ幕府に献上
            以降は幕府の公認、援助のもとに探査が進められています。

安政3年(1856)38歳  第4回蝦夷地探査。函館→宗谷→樺太→宗谷→函館
安政4年(1857)39歳  第5回蝦夷地探査。函館→石狩→上川→天塩→函館
安政5年(1858)40歳  第6回蝦夷地探査。北海道全ての海岸→十勝→阿寒→日高

安政6年(1859)41歳 福田とうと結婚。幕府の役人を辞める 
           6回の探査結果を東西蝦夷山川地理取調図として纏める
           26冊の折り畳み式縦が2m40cm、横が3m60cm
文久元年(1861)43歳 石狩日誌などを出版
明治2年(1869)51歳 開拓判官に任命される。道名・国名・郡名撰定に尽力、叙従五位
     11国86郡の命名に貢献
     蝦夷地にかわる名称として、「日高見道」、「北加伊道」、「海北道」、
     「海東道」、「東北道」、「千島道」の6つの案を上申

     この中から 「北加伊道」が採用された。加伊はアイヌ民族を指す古い言葉
     「北加伊道」は「北海道」と改名
明治3年(1870)52歳 開拓判官辞職(従五位返上)(新政府のアイヌ政策に不満) 
明治8年(1875)57歳 北野天満宮へ大神鏡を奉納 上野東照宮に大神鏡を奉納
明治9年(1876)58歳 上野東照宮へ大神鏡を奉納
明治12年(1879)61歳 大阪天満宮へ大神鏡を奉納
明治13年(1880)62歳 吉野の金峯山神社へ大神鏡を奉納
明治15年(1882)64歳 太宰府天満宮へ大神鏡を奉納
明治18年(1885)67歳 1月までに25霊社へ小神鏡と石標奉納
           第1回大台ケ原探査
明治19年(1886)68歳 第2回大台ケ原探査、「聖跡二十五霊社順拝双六」
           各地の社寺の古材で1畳の書斎「一畳敷」をつくる
明治20年(1887)69歳 第3回大台ケ原探査 
          富士山に日帰りで登山「丁亥(ていがい)後記」を出版
明治21年(1888)70歳 2月10日、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去
    遺骨は東京都豊島区駒込の染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、
    武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に
    建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる

松浦武四郎の碑
北海道には50カ所以上、松浦武四郎の碑があるそうです。
これらの碑を紹介したYoutube動画があったのでGooで共有させていただきました。
【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】松浦武四郎の碑、北海道にいくつあるか、ご存知ですか?

アイヌについて
アイヌは狩猟、漁労、採集を生活の基盤として周辺諸民族との接触や交易を
行いながら、古くから樺太(サハリン)、千島(クリル)列島及び日本列島北辺に及ぶ
広大な地域に独自の築き上げてきた。
蝦夷地(現在の北海道)では18世紀後半頃より、交易などを求めて蝦夷地や千島に
しばしば来航するロシアの登場という対外緊張の中で鎖国政策をとる「徳川幕府」は
強烈に国境、領土を意識する場所へと変貌していく。
上の写真はアイヌの人々の生活を描いたもの
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14
上の写真は近藤重蔵著の「辺要分界図考」の一部
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14
上の写真はアイヌの人々の生活を表した絵
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14

上の写真でアイヌモシリという言葉があります。
Wikipediaではアイヌモシリを次のように概説しています。
アイヌモシリ(アイヌ語仮名表記: アィヌモシリ、アイヌ語ラテン文字表記: aynu mosir)は、アイヌ語で「人間の大地」を意味する言葉。また16世紀以降で、北海道を指すアイヌ語の地名


徳川幕府のアイヌ政策
松前藩の場所請負制度によりアイヌの人達から運上金(税金)を集めた。
蝦夷地は寒冷な気候のため米の作付けは出来ず年貢米を藩の収入にできない。
そこで海岸線沿いの土地を区画して商場を設け、そこで採れる水産物などと
米との交換取引の権利を藩士に与えた。この商場を商人が請け負い、運上金(税金)を
藩に納めることにした制度である。
アイヌの人々が商場に出す鮭や毛皮と米との交換比率はアイヌの人々にとり年々不利に
設定される。さらに労働力の確保のためアイヌの人々の自由な行動を禁じたり
交易を制限したりする圧政によりアイヌ人の人口が減少していった。

上の写真は場所運上金納付書 (根室、択捉、根泉場所の運上金(税金)支払証
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14
上の写真は幕府の北方探検と蝦夷地開拓
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14

はなはだ纏まりのない内容となってしまいましたが時間の関係でこの辺でアップします。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お夏清十郎の物語で有名なお... | トップ | ヒシミツ醤油 ミント神戸店で... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事