2021年8月6日、広島への原爆投下より76年の日が巡ってきました。
広島ではコロナ禍の影響で約800人に出席者を絞り平和祈念式(広島平和記念式典)が
8時から平和記念公園で開催されました。
このブログでは原爆投下の経緯をメインテーマとして書いて行きます。
ここで掲載する写真は2021年8月7日、0:35からNHK総合テレビで放送された
NHKスペシャル選「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」によります。
この放送は2020年に放送された番組の再放送です。
1942年 8月
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、軍と科学者を総動員して原爆製造の
「マンハッタン計画」を秘密裏に始動。当初はドイツへの核使用を想定していた。
尚、マンハッタン計画の年表についてはWikipediaの下記サイトに詳述
https://ja.wikipedia.org/wiki/マンハッタン計画の年表
下記の動画で詳述されています。
The Manhattan Project
The Moment in Time: The Manhattan Project
上の写真はマンハッタン計画の実務を指揮した陸軍のトーマス・ファレル准将(Thomas Francis Farrell)
上の写真はファレル准将が原子爆弾について考え方をまとめた文書です 1946年1月の日付
上の写真は1945年8月5日 エノラ・ゲイにセットされる原爆「リトルボーイ」の
作業を見守るファレル准将と上記の手記に書かれた内容の一部「原子爆弾は単なる爆弾
ではない。激変、大災害、大混乱そして大惨事である。・・・・・」
さらに手記では原子爆弾が「数十万の米国の若者の命を救う手段である」とも記載
1943年 4月
ニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。
開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。
上の2枚の写真はオッペンハイマー博士
20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題は
ウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造
1943年5月5日
軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する
日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった
1944年 6月 高濃縮ウランの製造に目途がついた。
1945年4月12日
ルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任
1945年4月27日
第1回目標検討委員会がワシントンで招集された。そこでは、東京湾、川崎、横浜、
名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、
佐世保の17カ所が原爆投下の研究対象として選ばれた。
1945年5月11日
第2回目標検討委員会では、爆風で効果的に損害を与えられることなどが条件となり、
広島、京都、横浜、小倉の4つの目標都市が選ばれた。京都と広島を優先順位の高い
AA級目標に、横浜と小倉をそれより優先順位の低いA級目標に分類した。
1945年7月6日
エノラゲイ(ポール・ティベッツ大佐により1945年5月18日に陸軍航空隊509混成部隊へ配属)がテニアン島に到着
1945年7月16日
上の2枚の写真は世界初の原爆実験の準備風景
実験の成功はポツダム会議に出席中のトルーマン大統領に伝えられた
上の写真はファレル准将の手記で7月17日の朝、報告書を携行した急使が飛行機で
ポツダムに向かったと記載されています。
1945年7月17日~8月2日 ポツダム会議
ドイツ降伏後、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、
第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた
日本を降伏させるために米国はソビエトに対して日本に開戦するように求め内諾を得て
いたが原爆の実験成功によりその必要は無くなっていた。
1945年7月20日以降
第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に
通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。
すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで
飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確に
パンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。
1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。
1945年7月25日
マンハッタン計画の最高責任者レズリー・グローブスが作成した原爆投下指令書が発令される
(しかし、それをトルーマン大統領が承認した記録はない)
上の写真は原爆投下作戦指示書
上の写真は指示書の責任者グローブス少将(左)
ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた
1945年7月26日
ハリー・トルーマン米大統領が、日本に最後通告を出した。「ポツダム宣言」
「無条件降伏」をしなければ、「迅速かつ完全なる壊滅」が日本を待ち受けているという、
「日本への降伏要求の最終宣言」が出された。
上の写真はポツダムでの三巨頭(右よりスターリン、トルーマン、チャーチル)
1945年8月2日
第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、
予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、
予備の第3目標は「長崎市中心部」であった
1945年8月6日、エノラ・ゲイはテニアン島の基地を8月6日の2時45分に出発し
8時15分、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。
同日15時にテニアン島に帰着しました。
上の写真はエノラ・ゲイの機長はポール・ティベッツ大佐
上の2枚の写真はエノラ・ゲイの機関士 ボブ・キャロン2等軍曹の証言
広島原爆投下の動画
Hiroshima Bombing Story | Tour around the Atomic Hypocenter ★ ONLY in JAPAN
1945年8月8日
第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、
予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった
上の写真はファレルの手記で3人の捕虜の1人が日本政府がこの兵器威力を理解するには
少なくともあともう一発落とす必要であろうと話していた。
1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が八幡空襲で生じた靄による視界不良であったため、
第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。
午前11時2分、米軍のB29爆撃機「ボックスカー」がプルトニウム原爆「ファットマン」を投下し、長崎市松山町の500m上空で爆発した。約7万4千人の市民が死亡、約7万5千人が重軽傷を負った。
長崎への原爆投下の動画
Atomic bombing of Nagasaki - BBC
上の写真は長崎に投下された原子爆弾 B29「ボックスカー」に同乗していたNYタイムズ
の記者 ウィリアム・ローレンスの言葉が字幕に載っています。
ソビエトが参戦
戦争を終結させるために不可侵条約を結んでいたソビエトに仲介を頼むことを
交渉していたが、結果としてはソビエトは日本へ参戦してきた
上の写真は1941年の日ソ中立条約締結
上の写真はソビエトとの交渉風景(日ソ中立条約)
上の写真はソビエトとの交渉の当事者であった外務省秘書官の加瀬俊一氏
1945年8月10日、トルーマンが全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する指令を出す。
1945年8月30日、ファレル准将は広島と長崎で、原爆の影響を調査するために科学者のチームを引率した(原爆傷害調査委員会)。
1945年9月6日、ファレル准将は東京の帝国ホテルで連合国の海外特派員向けに「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者(原爆症患者)は皆無だ」とする声明を出した
1996年(平成8年) 、原爆ドームと巌島神社が世界遺産に 米国は不支持
尚、マンハッタン計画の年表についてはWikipediaの下記サイトに詳述
https://ja.wikipedia.org/wiki/マンハッタン計画の年表
Hiroshima: 75th anniversary of the atomic bomb
ATOMIC BOMBING OF HIROSHIMA DOCUMENTARY "TEN SECONDS THAT SHOOK THE WORLD" 75794
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