3世紀の中盤から後半、奈良盆地の南東部に大型前方後円墳が突如として造られた。
それが最初の大王墓「箸墓古墳」である。その造営に直接かかわった纏向遺跡では、
遺跡内に箸墓古墳に先行する石塚古墳などがつくられていた。纏向を倭国最初の
都とする考え方が有力で2009年に3世紀最大の建物跡が発掘され話題となった。
2021年5月29日(土)、Pm11:00~Am0:00にNHKEテレで標題の番組でヤマト王権
の成立以降に全国に4700基ある前方後円墳が造立され、7世紀以降は、
前方後円墳はほぼ焼失し、首長の墓でも方墳や円墳になっていった。
上記放送の再放送は6月3日(木)NHK Eテレ 0:00からETV特集で再放送されたようです。
番組で紹介された内容を中心に箸墓古墳や纏向遺跡などヤマト王権の成立と発展期の
状況を探っていきたいと思います。
出演:ゲスト松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)ほか、司会は池田伸子アナ
特記していない写真はすべて上記の番組によります。
箸墓古墳
箸墓古墳の基本情報
所在地:奈良県桜井市大字箸中
長さ:全長約280m 後円部径155m 全方部長125m 全方部前面の幅147m
高さ:30m(後円部)、16m(全方部)
段築:後円部は5段、全方部は4段の段築
造営年代:240年~260年(一説)、3世紀後半(一説)
被葬者(主な説):卑弥呼、台与(壱与)、ヤマト王権の初期大王(崇神天皇など)
日本書紀の三輪山伝説には第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ):三輪山の神である大物主神の妻が陰部に箸を刺して死んだとの記述があるが不自然である。
発掘調査:奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会による陵墓指定範囲外側の発掘調査(1994年)により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤の一部が見つかっている。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺石を積み上げた渡り土手が見つかっている。1998年の後円部東南裾部の調査では葺石を施した渡堤や周濠、外堤
状の高まりが確認されています。
上の写真は箸墓古墳のレーザー照射(航空レーザー測量)による段築状態を示したものです。
後円部 5段 、前方部 4段築造
奈良県立橿原考古学研究所 西藤清秀さんが指揮 協力:アジア航測株式会社
上の写真は箸墓古墳及び纏向遺跡のガイドマップです。
出典:桜井市埋蔵文化財センター編「纏向へ行こう!」-初期ヤマト政権発祥の地を歩く-
上の写真は三輪山上空から見た箸墓古墳の遠景
箸墓古墳の築造年代と卑弥呼
2011年に国立歴史民俗博物館の研究グループは箸墓古墳から出土した土器を炭素同位体
による年代測定をした結果240年~260年という結果となった。
魏志倭人伝によれば倭国の卑弥呼が没っしたのは247年頃であり箸墓古墳が卑弥呼の墓
であるとの整合性が成り立つ。
上の写真は3世紀以前の天皇陵の規模を示したものです。
箸墓古墳の規模は非常に大きく邪馬台国の首長であった卑弥呼の墓としても矛盾は無い
第10代崇神天皇陵と比定されている行燈山古墳や12代景行天皇陵に治定されている
渋谷向山古墳などがある柳本古墳群や西殿塚古墳などがある大和古墳群は初期ヤマト政権
の王墓と考えられています。
崇神天皇陵については訪問記にリンクしておきます。
第10代崇神天皇陵(行燈山古墳) on 2015-11-5 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
箸墓古墳の被葬者
上の写真は箸墓古墳の被葬者の候補
・卑弥呼または台与(壱与)
・ヤマト王権 初期の大王(崇神天皇など)
箸墓の名前の由来
上の2枚の写真は番組で紹介されたイラスト
以下Wikipediaによる記述
名前の由来は、百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命したという説話に基づく。『日本書紀』崇神天皇10年9月の条には、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)
箸墓古墳の築造
『日本書紀』には、下記のように記載(Wikipediaによる)
「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」
と記されている。
上の写真は日本書紀
上の写真は箸墓古墳の葺石を運ぶ民衆(番組で紹介されたイラスト)
ミューオンによる調査
橿原考古学研究所の西藤清秀さんと名古屋大学の石黒勝巳さんらの研究チームは9日、物質を透過する「ミューオン」と呼ばれる素粒子を利用し、内部の構造を解明するための科学調査を実施している様子が紹介されました。調査結果は今年度(2021)に公表する予定。4か所に検出器を置き観測し石室などの空洞を調査されています。
関連サイト:卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査 - 産経ニュース (sankei.com)
橿考研が素粒子解析で箸墓古墳を調査
箸墓古墳に影響を与えた地方の遺跡
(統合国家の成り立ちを示す箸墓古墳)
1)出雲及び北陸の四隅突出型墳丘墓
箸墓古墳の葺石の考え方は出雲の四隅突出型墳丘墓の影響による
2)福岡県糸島市 平原王墓の銅鏡
伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で、昭和40(1965)年に発見されました。発見は偶然によるもので、土地の持主がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土しました。
銅鏡は全部で40枚が出土(内訳は以下のとおり)
大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
詳細は、平原遺跡(ひらばるいせき) - 糸島市 (itoshima.lg.jp)
3)吉備 盾築墳丘墓の双方中円形墳丘墓及び特殊器台
楯築墳丘墓は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓。形状は双方中円形墳丘墓
2世紀後半から3世紀前半に築造された墳墓で前方後円墳の前段階の形式
上の写真は箸墓古墳の特殊器台のルーツが盾築墳丘墓にあると説明される
岡山商科大学特任教授の福本明さん
上の写真はその詳細 出典:宮内庁書陵部紀要 大市墓の調査 第26号、第51号
箸墓古墳の特殊器台の成分は大和産ではなく吉備の原料に近いことが判明しています。
上の2枚の写真は盾築墳丘墓から出土した特殊器台と箸墓古墳から出土の特殊器台
4)香川県 鶴尾神社4号墳の積み石
箸墓古墳について宮内庁書陵部の報告書の写真と鶴尾神社4号墳の積み石とを
比較したところ類似性がみられた(上の写真)
大阪大学の福永伸哉さんは纏めとして「箸墓古墳は吉備を中心とした瀬戸内地域や
北部九州など西日本各地の墓の属性をもとにしてつくり上げた」と解説
上の写真は「武力によらない倭国の統一ということを古墳のあり方自体が証明しているん
しゃないか」と付け加えられた国立歴史民俗博物館教授の松木武彦さん
ヤマト王権のルーツ
上の写真はヤマト王権のルーツについて説が書かれたパネル
上の4枚の写真はパネルの拡大図
倭国乱の時代(魏志倭人伝)
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)上の写真によれば
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70~80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。
箸墓古墳の築造期の気象と立地
名古屋大学教授の中塚武さんは年輪の酸素同位体を調べることで箸墓古墳の築造期の
気象を調べた結果、この時期は雨量が多く洪水が多く発生していたと推測
上の写真は箸墓古墳のある地点を赤丸で示したもので、この地は水害に強い地域で
あったと解説されました。また旧大和川水系を利用し大阪湾に通じており水運が
発達して西国の豪族との交流に便利な立地であった。
上の写真はさらに日本海側の国々、愛知の国々や東国との交流にも便利な立地であった
箸墓古墳以降の前方後円墳の変遷
出典:箸墓以降-邪馬台国連合から初期ヤマト政権へ-大阪府立近つ飛鳥博物館
平成26年(2014) 秋季特別展 展示資料(図録)
番組ではヤマト王権の代替わりとともに前方後円墳の形態も変化していったと解説
(上の写真)
上の写真は東京の芝丸山古墳の前方後円墳でこちらは奈良行燈山古墳の相似形
上の写真は京丹後市の網野銚子山古墳で佐紀陵山古墳の相似形
上の写真は宮崎女狭穂塚古墳の前方後円墳で大阪仲津山古墳と相似形
上の写真は宮城県名取市の雷神山古墳の前方後円墳で5C奈良の宝来山古墳と相似形
古墳の分布はヤマトタケルの遠征先と繋がっています。
最後に群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳周辺の最近の発掘成果について説明があり
番組は終了しました。(下の3枚の写真)
箸墓古墳と相似形の古墳
番組の中で箸墓古墳と相似形の前方後円墳が日本全国に22箇所あると説明あり。
1)杵ガ森古墳
上の写真は杵ガ森古墳(会津坂下町)の現地 箸墓古墳の6分の一の前方後円墳で
箸墓古墳築造から間もない頃に築造
2)穴廿(しじかい)山王山古墳
上の2枚の写真は岡山県にある穴廿(しじかい)山王山古墳の航空写真と航空レーザー測量図
箸墓古墳と4分の一の相似形で断面も箸墓古墳と一致(下の写真)
関連サイト:宍甘山王山古墳(しじかいさんのうやまこふん) (city.okayama.jp)
3)浦間茶臼山古墳
上の写真は岡山市浦間にある浦間茶臼山古墳で箸墓古墳とは2分の一の相似形
墳長138 m、後円部径81m、後円部高13.8m、前方長61mで後円部は三段築成である
上の写真は日本全国の古墳を調査し箸墓古墳と相似形の古墳は22箇所あると説明
上の2枚の写真は22箇所の古墳の分布図と形状・大きさを図示
纏向遺跡
纒向(まきむく)遺跡で2009年の9月から始った調査(166次調査)の結果、大型の
建物跡(南北19.2m×東西12.4m 面積238.08㎡)Dが出土された。
昭和53年及び2008年に発見されていた建物A(南北1.3m×東西4.8m)と
建物B(5.2m×4.8m)に較べて非常に大規模で邪馬台国の女王卑弥呼が
活躍した3世紀前半のものであることが出土品から推定されています。
上の写真は大型の建物跡(南北19.2m×東西12.4m 面積238.08㎡)の推定模型
上の写真は発掘現場
私も現地説明会で発掘現場を見ています。(下記ブログで纏めています)
纒向(まきむく)遺跡現地説明会 on 2009-11-14 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
上の写真は番組のために纏向学を主宰されている寺沢薫さんが監修作製された
纏向遺跡の模型遠景
上の写真は大型建物(144畳の規模)付近の拡大図
上の写真は桜井市埋蔵文化財センターが編集された「ヤマト王権はいかにして始まったか」
王権成立の地 纏向のPage5よりの引用です。
上の写真は纏向遺跡から出土した搬入土器
出典:桜井市埋蔵文化財センターが編集された「ヤマト王権はいかにして始まったか」
王権成立の地 纏向のPage14(2007)
前列中央の3点は大和産の甕で右側から4点が東海、続いて北陸、近江、河内、阿波、
吉備が2点、そして左側2点が山陰の土器です。
未知の古墳の発見
未知の前方後円墳9基発見 倉敷埋蔵文化財センター主任の藤原好二さんは国土地理院
が発行している立体地図「傾斜量図」活用
箸墓古墳より200年後の超大型前方後円墳(大山古墳)
ピラミッド、始皇帝陵との大きさ比較
上の写真は番組の冒頭に紹介された大山古墳(仁徳天皇陵)
不十分な記述ではありますがこのへんでアップします。
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