
上の写真は下記住所にある曹洞宗の寺永久寺の門です。
住所:東京都台東区谷中4丁目2番37号
永久寺の山号は興福山
永久寺には仮名垣魯文(かながきろぶん)という
作家のお墓があります。
仮名垣魯文は、江戸時代末期から明治にかけて
活躍した戯作家、新聞記者。本名は野崎文蔵。
文政12年(1829)江戸京橋生まれ。
明治27年(1894)没。
万延元年(1860)「滑稽富士詣」で世に出た。
仮名垣魯文は明治時代になると文明開化を風刺して
「安愚楽鍋」(明治4年)や「西洋道中膝栗毛」
(明治3~9年)を発表しています。
のちにジャーナリズムに転じ「横浜毎日新聞」
「仮名読新聞」「いろは新聞」などに関係し、
軽妙な文章で活躍。

蓮華寺は哲学堂公園の向かいにある日蓮宗のお寺です。
住所 東京都中野区江古田一丁目6番4号
また、この寺には、哲学堂を創った井上円了の墓所が
あります。
以下は立て札より簡略引用。
円了は安政5年(1858)年現在の新潟県三島郡越路町に
生まれ、哲学者であり、また教育者として、明治の中頃
から大正にかけて多彩な活動をくりひろげました。
とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈に基づいた
既成仏教の革新、キリスト教の批判や迷信打破の運動は、
わが国の文化史上特筆されるものといわれています。
哲学館(後の東洋大学)と哲学堂を創立したのは、
円了が提唱する「護国愛理」をもとに学校教育と社会
教育の振興をはかるためでした。こうして、国民道徳の
普及と同上「考える人」の養成をめざし国家への報恩を
願ったといわれています。
円了は大正8年(1919)年巡回講演の旅行中、中国
大連市(現在の旅大市)で病死し、東洋大学関係者の
縁故で当寺に葬られました。井桁の上に円形の石を
おいて井上円了の名前を表現した墓石のデザインは
円了の生前の発意といわれています。

上の写真は哲学堂にある井上円了先生のモニュメントです。
中の説明文は下記のとおりです。
日本が世界へと開けゆく幕末に 井上円了先生は新潟県下の
寺院に生まれました やがて明治となり東京大学文学部哲学科
に学び 変わりゆく時代のなかで 世界・宇宙・人間を見つめる
新しい心の必要を感じました その思いから 明治二十年に
東洋大学の起源である「哲学館」 を設立して 教育によって
新しい考えを創り出す人を育てようとしました
さらに 全国の半数以上に及ぶ それぞれの市町村にまで身を
運び 世界と心のあり方を説き続けました 全国巡遊講演という
この壮大な事業における 謝礼と人々の寄付の全てを注いで
この公園を建設しました 先生は公共の利用を志し 人々の
心を養う場として ここを 「哲学堂」 と名づけました
先生の没後八十年を記念して ここにその願いを記します
東洋大学

荒玉水道の給水場に作られた配水塔です。
荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、
東京市に隣接した町村の急激な都市化人口増による
水の需要増に応え豊多摩・北豊島両郡にある13の
町々が連合して建設されました。
着工は昭和2年(1927)で完成は昭和5年(1930)
直径18m 高さ33.6m
多摩川の喜多見から引水し昭和41年(1966)まで
使用されていたそうです。
現在は災害用の給水槽になっています。
ドーム型の屋根が非常に目立ち周囲にマッティングしている
と思います。
江古田の水道タンク、みずの塔などと呼ばれ親しまれてきた。
東京近郊の都市化のシンボルです。
第2次世界大戦戦災空襲時の弾丸の跡が残っています。


関東自動車の丸山車庫の近くに
写真の整地碑があります。
中野区教育委員会の立て札より簡略引用
この整地碑は区画整理組合が河川改修、道路整備
土地、耕地の交換などの事業を行った時の記念に
建てられたものです。
碑文に見られるように区画整理が行われたのは、
膨張する東京への対策として「大東京市」を実現
する都市計画のためでした。
日本資本主義が確立したといわれる日清・日露戦争
を機に東京の人口の密集化と郊外の市街化に拍車を
かけ、特に関東大震災以後は東京市と隣接する近郊
との連携のとれた都市計画が必要となり、その区域
が定められました。
この整地碑は、こうした東京の広がりに対して郊外
の側から土地・道路・河川の整備を進めて対応した
農村の区画整理事業の実態をよく説明している。