CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

福崎町 大庄屋 三木家住宅 on 2018-4-22

2018年05月22日 07時29分20秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年4月22日、柳田国男の生家などを観るために姫路からJR播但線に乗り
神崎郡福崎町に来ていました。初訪問です。

本日は「大庄屋 三木家住宅」をテーマとして書いていきます。

福崎町散策シリーズこれまでに書いたブログ記事:

辻川山公園内の学問成就の道の石碑

福崎町「もちむぎのやかた」でのランチ on 2018-4-22

福崎町 妖怪ベンチ ウォーキング on 2018-4-22

藤本煙津先生作の漢詩石碑 in 鈴の森神社 on 2018-4-22

福崎町 柳田国男生家、神崎郡歴史民俗資料館、柳田國男・松岡家顕彰会記念館 on 2018-4-22

福崎町 辻川山公園付近の河童、天狗と妖怪たち on 2018-4-22

大庄屋 三木家住宅の基本情報

住所:兵庫県神崎郡福崎町西田原1106  TEL:0790-23-0033(公開日)
公開日以外の連絡先 0790-22-0560(福崎町教育委員会 社会教育課)
公開日:土曜、日曜、祝日  公開時間:9:00~16:30  入館料:無料
母屋の建築年代:宝永2年(1705) 文化財指定:現存の9棟が兵庫県指定文化財


公式サイト:https://www.town.fukusaki.hyogo.jp/html/mikike/index.html




上の2枚の写真は大庄屋 三木家住宅の建物外観


上の写真は別の角度から撮った三木家住宅の遠景


上の写真は「三木家住宅」の全体平面図
敷地内の①表座敷(主屋)、②副屋、③離れ、④内蔵、⑤米蔵、⑥酒造蔵、⑦角蔵、
⑧厩(うまや)、⑨表門の9棟の位置が記載されています。


上の写真は三木家住宅主屋1階の平面図変遷


上の写真は建築当初(宝永2年(1705))の三木家住宅主屋


上の写真は最近の三木家住宅主屋の改修


上の写真は大庄屋 三木家住宅の現地説明板(一部加筆して再掲)

三木家は姫路藩英賀城主の子孫とされ、のちに飾磨(現姫路市)で飾磨津屋と称する
酒屋を営んでいましたが、明暦元年(1655)に姫路藩主の榊原家に新田開発の呼びかけ
に応じ、辻川(現福崎町西田原)の地に移ったと伝えます。3代目からは姫路藩の
大庄屋を務め、以来1871年(明治4年)の廃藩置県まで、地域の発展に尽くしました。
三木家の屋敷地は現在1,861.18㎡(約563坪)で、敷地内には宝永2年(1705)建築の
主屋(表座敷)をはじめ屋敷・門塀・蔵など9棟の建物が現存し、すべて県指定文化財です。
さらに江戸時代の民具、書物など約15,000点を所蔵しておりこちらも文化遺産として重要。
2004年11月、三木家当主より福崎町へと移管された。
三木家住宅は建築当時の姿をよく残した大庄屋遺構として、建築学的に貴重であると同時に
近代においては民俗学の祖とされる柳田國男が10歳から12歳頃まで三木家で生活し、著書
『故郷七十年』に「三木家の四千冊余の蔵書を乱読したことが民俗学の基礎となった」と
書き記している。また明治7年(1874)、表門前を通る街道が馬車道として拡幅整備
される際、三木家は表門と土塀を建て替え、位置を移動させて用地を提供し、建設に
協力しました。



主屋

上の写真は主屋の玄関




上の2枚の写真は主屋のかみのまと現地説明板
当日(2018-4-22)は鈴木みゆきさんの作品展(会期は4/7~4/30)が行われて
おりご本人から作品の説明を聞きました。


上の写真は主屋のかみのまから庭を撮ったもので縁廊下に播但一揆の刀傷が残されている
との説明を受けた


上の写真は主屋のかみのまから観た庭の○○○○つつじ 見頃で美しかった




上の2枚の写真は主屋のげんかん、中の間、かみのま


上の写真は主屋の「おく」と「おくのくち」


上の写真は主屋の「おく」と「おくのくち」に掲示の13歳の柳田(松岡)国男




上の2枚の写真は主屋の土間


上の写真は主屋の「かみのま」の縁側から西別棟湯殿便所を撮ったものです。

その他写真は控えますが電話室も残されていました。
福崎町域では、大正12年(1923)4月1日から辻川郵便局で業務が開始された。
当時の加入者数は少なく41件程度しか電話加入者がいなかったとのパネルが掲示
されていました。

酒蔵・角蔵

上の写真は左手に酒蔵・角蔵の一部が写っています。(非公開)

内蔵

上の写真は内蔵(非公開)の外観

三木家住宅は平成23年度(2011)から平成27年度(2015)にかけて保存修理工事を
進めておりその様子が写真パネルで紹介されていましたので添付しておきます。

平成23年度(2011)


平成24年度(2012)


平成25年度(2013)






平成26年度(2014)


平成27年度(2015)




何かまとまりのない記述となりましたが本日はこれで筆を置きます。
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武井報效会 百耕資料館 2018年春季企画展 on 2018-5-20

2018年05月21日 04時11分17秒 | 神戸情報
2018年5月20日に武井報效会 百耕資料館を訪問し2018年春季企画展の展示解説
を聞いてきましたので記憶のあるうちにメモ書きしておきます。

尚、館内の写真撮影が不可の為、ポスター以外の写真はありません。

まず、武井報效会 百耕資料館について簡単に紹介しておきます。

武井報效会 百耕資料館の基本情報
住所:神戸市須磨区板宿町2丁目2-1 (育英幼稚園内) TEL:078-733-2381
常設展の休館日:毎週月、火、水曜日(いずれか祝・休日の場合は木曜日)盆期と年末年始
企画展の休館日:毎週月曜日(祝・休日の場合はその翌日)盆期と年末年始
入館料金:大人 300円(250円) 大高中生 200円(150円)( )は団体料金
開館時間:10:00~16:00


公式サイト:http://www.ikuei.ac.jp/~hyakko/index.html

百耕資料館は、板宿の旧家名門である武井家に伝わる約1万2千点にも及ぶ
歴史資料を一般に公開されています。昭和62年(1987)10月に開館。
平成22年(2010)7月10日に平成16年春以来、約6年ぶりにリニューアルオープンされ
板宿の歴史をテーマに古代から近現代まで解説とともに公開されています。

次に企画展の内容について簡単に記述しておきます。

企画展の題目:兵庫県第三区~明治初期兵庫県の地方行政と住民~


上の写真は企画展のポスター


上の写真は1階の展示室の企画展ポスター拡大版
会期は5月27日(日)までです。


Ⅰ 江戸時代の幕領組合村
幕末に板宿村庄屋、下灘組惣代庄屋を勤めた伊右衛門の説明
伊右衛門は旧八部郡内の村々(旧幕府領下灘組)のまとめ役として活躍
まとめ役の惣代(総代)庄屋は明治2年10月に廃止されています。

幕末期は幕領で谷町代官所の管轄の収量は約8万石であった。

惣代(総代)庄屋宅は代官が裁定を行う部屋も用意されていた。
惣代庄屋は大庄屋とも呼称。

代官所の絵図の展示。

旧八部郡内の村々の戸数や石高のデータ。

嘉永元年(1848) 八部郡中諸勧化取締り掛札 神戸文書館蔵
&慶応3年(1857) 御用触状之写  神戸市文書館蔵
 八部郡内に入った浪人などがお金をせびりに来た時に神戸村の庄屋が一括対応
 庄屋のところには毎日のように浪人などが立ち寄りお金をせびっているのが常態化
 



Ⅱ 組合村から第三区へ

第1次兵庫県から第3次兵庫県の経緯を説明したパネル
他の資料から同じ内容の説明をします。

第1次兵庫県(慶応4年・明治元年(1868)~明治4年(1871))
 慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立しています。
発足当時の兵庫県は兵庫(神戸)港を中心とした摂津国武庫郡以西の4郡及び播磨国
の7郡に散在する旧幕府直轄地で村の数は211、石高は6万6千石でした。
初代県令は伊藤博文で「兵庫論」と呼ばれる藩廃止の意見書を朝廷に提出
したことから長州藩の反感を買い知事を辞職します。

伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日  新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日  新暦換算では1869年5月21日


明治元年5月の兵庫県の領域は濃い橙色で摂津の兵庫津など瀬戸内沿岸などと
播磨地域に散在しています。
明治4年(1871)4月には緑色の領域が兵庫県に編入
明治3年5月13日(新暦換算1870年6月11日)の庚午事変(稲田騒動)により淡路島の
北部が兵庫県に編入 明治3年10月から明治4年


上の写真はパネルの説明書き部分を拡大したものです

第1次兵庫県の初代県庁は兵庫勤番所(旧兵庫城)に置かれました。
現在、最初の兵庫県庁の地 の石碑が新川運河キャナルブロムナードに建っています。
(下の写真)


第2次兵庫県(明治4年(1871)~明治9年(1876))
 明治4年7月の廃藩置県により従来の大名領がそのまま県になりました。
 これまでの尼崎藩は尼崎県、姫路藩は姫路県、出石藩は出石県になり大名に代わり
 県令が置かれた。しかし、これでは全国の県の数が多く統一した政治を行うのに不適当
 であった為、明治4年11月には3府302県をすべて廃止し、3府72県に再編成された。
 現在の兵庫県域は西摂の5郡の兵庫県と播磨の飾磨県、但馬・丹後・丹波の3郡を豊岡県
 淡路は四国の阿波・讃岐と一緒に名東県の4つの県となりました。下の写真を参照。


 兵庫県は町村数609 人口14万8千人の県となりました。
 このころ県知事となった神田孝平(蘭学者)は先駆的な施策を実行し「経済」という
 言葉を初めて使用しました。


上の写真は第2次兵庫県の範囲


上の写真は第2次兵庫県の説明


上の写真は明治6年(1873)頃の兵庫県庁

第3次兵庫県(明治9年(1876)~明治22年((1889))
 ほぼ現在の兵庫県の県域となった。
 明治9年に明治政府は3府35県としました。
 この年の8月に兵庫県は播磨県及び但馬全域と丹波の氷上・多紀の2郡名東県の
 淡路を併合してほぼ現在の兵庫県に近い形となりました。
 人口は134万5千人となりました。当時は東京府、大阪府をしのいでいました。

 兵庫県の併合の過程で櫻井勉翁の米寿賀集の資料が貴重なものです。
 この中に豊岡県と鳥取県を兵庫県に併合する案もあったことが記載されています。


第1次兵庫県から第3次兵庫県の県域の変遷については兵庫県のHPで解説されています。
ホーム > 県政情報・統計(県政情報) > 情報公開 > 歴史資料 > 県域の変遷




明治維新後に板宿村戸長、第1次兵庫県第十一区戸長となった伊右衛門。
維新後は武井善左衛門に改名。
第2次兵庫県では第三区区長などを勤めた。

兵庫県(第2次)では、明治5年6月から9月にかけて区画・制度の大改正を行い、
旧来の戸籍作成のための区画(戸籍区)2、3区程度を1区として県下を19区に区分した
(19区制)。旧板宿村、東須磨村、西須摩村、野田村、駒ヶ林村、長田村、尻池村、
池田村などが第3区となった。

武井善左衛門の肖像画

南禅寺の官長筆による武井善左衛門を顕彰する文章
ここには生島四郎太夫とともに勝海舟と交流があり援助もしたと記載

Ⅲ 第三区の組織・制度と運営

19区を構成する村の名前が記載された表

第三区を構成する村々の人口などのデータ

武井善左衛門を継いだ武井伊右衛門(百耕)は入札(選挙)により第三区区長となった。

入札の実物展示

第三区の会議所の平面図(下の写真)

この会議所は実際に存在していたかどうか?所在地は?など不明

武井伊右衛門(百耕)の写真

第7代の兵庫県令(知事)の神田孝平と武井伊右衛門の交流を綴った文書

神田孝平(たかひら)の写真と簡単な解説

神田孝平からもらった書の扁額

明治6年(1873)頃の兵庫県庁の写真と関連資料

最後に展示の内容ではありませんが武井伊右衛門(百耕)の銅像と百耕資料館の写真を添付して
筆を置きます。


上の写真は武井伊右衛門(百耕)の銅像。銅像の説明書きに部分加筆。
武井伊右衛門は弘化2年(1845)2月14日に板宿村生まれ、幼名は久太郎明治に
なってから伊右衛門と名を改めました。さらに百耕と号す。日頃より書画を愛好し、
漢詩を嗜み多くの郷友諸士と交友を結ぶ。
明治5年(1872)兵庫県第三区長の父を補佐し 明治14年(1881)兵庫県の県会議員に当選
明治16年(1883)公職を退いて邸内に秋錦園(菊園)、魁春園(梅園)の二園を開き
一般に開放す。
八部郡郡長、同年有馬郡郡長となる。大正6年(1917)3月8日73歳で没。
墓は武井家歴代の墓とおともに禅昌寺にあります。明治21年4月には有馬郡長を病気
のため辞任してからは漢学の素養から多くの詩を作り明治43年(1910)漢詩結社
隋鴎吟社の正社員となった。また、かって画を学んだ岡田広章からは画稿を譲り受けた。
特に円山、四条派の粉本に関しては2,000点の一大コレクションを誇っている。



上の写真は武井報效会 百耕資料館 の建物外観




上の2枚の写真は資料館敷地内の昔の消防設備と説明板







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在日朝鮮人帰国者記念植樹の石碑 in 生田川公園

2018年05月20日 04時22分38秒 | 神戸情報
生田川公園に在日朝鮮人帰国記念植樹の石碑がありましたので
写真撮影しました。(2010-5-20)

朝鮮問題について全然無知な私が在日朝鮮人の帰還事業についての
意見、コメントは差し控えます。

在日朝鮮人の帰還事業は1959年から1984年にかけて実施されました。
帰還者の数は約9.3万人だそうである。
戦後の昭和23年(1948)の8月15日に大韓民国が建国。同年9月9日に
朝鮮民主主義人民共和国が建国されました。その後に帰還事業が実施
されています。

1959年12月14日に第1次の船が在日朝鮮人約千人を乗せ新潟港を出港した。
兵庫県からも7世帯36人が加わ り、帰還者らは県内各地に記念植樹をした。
貧困や差別に苦しむ在日朝鮮人が「地上の楽園」と宣伝された祖国北朝鮮を目指した。
しかし帰国後、生活の苦しさを日本に残った親族に訴える人は多く、90年代以降、
脱北した人もいるそうです。
「帰国事業は在日朝鮮人に夢と希望を与えてくれたものである」事は確か。




上の2枚の写真が生田川公園にある在日朝鮮人帰国記念植樹の石碑と
在日朝鮮人帰国30周年記念植樹の木製の碑です。
出発を控えた帰還者が植樹をしたものであるが、植樹された木は2002年の公園の
改修工事で伐採されたという。
1989年12月14日の在日朝鮮人帰国30周年を記念して石碑の傍らに
木製の碑(白色ペンキ)が建立されました。

現在、兵庫県内で在日朝鮮人の帰還者植樹で残っているものとしては相生市の
プラタナス並木約800メートルで、中央通りに今もある。
相生の造船所に徴用された朝鮮人の帰国予定者によって植樹された。

神戸市須磨区の須磨浦公園にも帰還者らが松20本を寄付したという。

在日特別永住者は52万8450名(1998年現在)で朝鮮人学校も日本各地に
あり身近な存在であり、高校の授業料無償化で話題となりました。
1910年より1945年まで35年間、日本は朝鮮半島や台湾を植民地化
しました。その中で朝鮮人にとって数々の差別を受けていることへの遺恨が
残っていることは確かであり、今後これらの史的事実をもとに、どのような
共生、協力関係を築いていくかが課題である。

参考資料:在日朝鮮人の帰還事業(Wikipedia)
コメント (2)
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湊川公園の楠木正成像(大楠公像)の仮移設と説明板 on 2018-3-21&2018-5-15

2018年05月19日 04時51分59秒 | 神戸情報
神戸市兵庫区区役所庁舎と消防署建設工事に伴い、湊川公園の楠木正成像(大楠公像)
は工事現場の片隅に仮移設されました。そこには説明板も設置され判り易い解説を
されていましたので写真紹介します。
楠木正成像をエッチングの題材にしようと写真を撮りに行ったもので、2018年3月21日と
5月15日に撮影しました。顔の部分が光線の加減で上手く撮れていません。




上の2枚の写真は仮移設された楠木正成像(大楠公像)です。


上の写真は設置場所の遠景写真。


上の写真は現地説明板の全体。
以下、拡大した写真で紹介していきます。


大楠公像は昭和10年(1935)神戸新聞社により湊川公園に設置。


上の写真は仮移設前、昭和45年以降の楠木正成像の周辺配置図。


上の写真は移設前の大楠公像


上の写真は8代神戸市長の勝田銀次郎氏の揮毫の「大楠公像」の文字


上の写真は台座裏面 成田松坡氏の書


上の写真は大楠公像の建設記


上の写真は大楠公像の建設記の現代語訳


上の写真は大楠公600年祭斎行之碑


上の写真は大楠公600年祭斎行記録の碑
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ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2018-5-14

2018年05月18日 05時02分39秒 | 神戸情報
2018年5月14日、ジョリーパスタ塩屋浜店でランチを頂きましたので
写真紹介します。

塩屋港付近の瀬戸内海の風景を楽しめ、且つパスタも私の好みなので好きな
スポットの一つです。

5回目のブログ作製です。今まではケーキのサービス券がある時によく行って
いましたが、最近はケーキのサービス券を廃止されたのか?ケーキなしの食事です。

ジョリーパスタ Jolly Pasta 塩屋浜店の基本情報

住所:神戸市垂水区塩屋町1-5-2
TEL:078-753-7631    料理ジャンル:イタリア料理
営業時間:11:00~24:00 定休日:なし


公式サイト:http://www.jolly-pasta.co.jp/


上の写真は私が選んだ日替わりトマト 630円(税別)
ドリンクバー180円(税別)も注文


上の写真は日替わりのメニュー表


上の写真は新メニューで奥様が注文したあさり生姜スープ 630円(税別)
ドリンクバー180円(税別)も注文

過去の訪問記:

ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2018-2-8

ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2017-6-19

ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2017-4-11

ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2016-7-26
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和食 さと 須磨店でのランチ on 2018-5-13

2018年05月18日 04時35分48秒 | 神戸情報
和食 さと須磨店は普段よりよく行く店の一つですが過去に2回しかGooブログを
書いていないのと新しいメニューを2018年5月13日に頂きましたので
写真紹介します。

和食 さと 須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑字池ノ奥上12-8  TEL:078-743-3221
営業時間:11:00~24:30  定休日:なし(年中無休)
公式サイト:http://sato-res.com/sato/


上の写真は私が選択した「さと鍋」 海鮮-鶏塩だし 1,077円(税込)
当日は少し寒かったので体が温まって良い選択でした。

鍋は3種類あり「だし」も3種類から選択するシステムになっています。
さらに締めとして鍋に入れるものを、ごはん、うどん、ラーメンより選択します。
今回、うどんを選択。


上の写真は奥様が選んだミニ天丼とミニ麺(そば)861円(税込)


過去の訪問記:
 和食 さと 須磨店でのランチ on 2017-10-3

 和食 さと 須磨店でのランチ on 2017-6-20
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伊川谷惣社神社 on 2018-4-10

2018年05月17日 06時40分04秒 | 神戸情報
2018年4月10日、神戸市西区にある伊川谷惣社神社を訪問し写真を撮って
きましたので紹介します。

伊川谷惣社神社の別名で物部神社、可美真手命神社とも呼ばれます。

伊川谷惣社の基本情報

住所:神戸市西区伊川谷町上脇1005  TEL:078-974-9677
御祭神:大己貴尊(おおなむちのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)
    経津主尊(ふつぬしのみこと)、武甕槌尊(たけみかづちのみこと)
御利益:厄災除け、事業成功、病気平癒
創建:神功皇后の時代 AD363年  社格:郷社
再建:延久3年(1071)


アクセス:神戸市営地下鉄西神中央駅より神姫バス70、73、74、76、80、81系統で
     「細田住吉前」下車 徒歩5分

Goo地図を添付しておきます。
 




上の2枚の写真は伊川谷惣社の拝殿






上の3枚の写真は伊川谷惣社の本殿


上の写真は拝殿前の狛犬 寛政2年(1790)9月吉日の銘あり


上の写真は伊川谷惣社の正面鳥居側から観た遠景


上の写真は拝殿裏側右手の末社。左から稲荷社、猿田彦社、荒神社、八幡社


上の写真は拝殿裏側左手の末社。左から山神社、歳徳社、稲荷社。



上の写真は伊川谷惣社の手水舎






上の3枚の写真は伊川谷惣社の現地説明板(惣社復興事業記念碑)
 由緒や再建工事が記載されています。一部追加及び要約して紹介します。

「惣社は、大己貴尊、素盞嗚尊、経津主尊、武甕槌尊を祀り、物部神社とも称される。
 社伝によると、神功皇后が新羅遠征からの帰途(西暦363年)、当地に大己貴尊を
 祀ったのが始まり。一時衰退したが1071年(平安時代中期)に再建された。
 延喜式の制においては小社に列し、伊川谷の総氏神として崇められ、明治7年(1874)
 には郷社に列せられた由緒ある神社である。
 旧社殿は宝暦11年(1761)に造営されたものであり、1995年の阪神淡路大震災により
 被害を受けたが平成16年(2004)に再建改修された。」


26代継体天皇の時代(6世紀前半)に物部系の明石国造が明石国の神々を当社に集めて祀った。
それで、後に当社は惣社と呼ばれるようになった。物部神社の由来でもある。




上の2枚の写真は忠魂碑と戦没者名簿
忠魂碑は陸軍大将男爵田中義一書。垣が大砲の弾を模っています。伊川谷町から出征し、
日清戦争・日露戦争・日華事変・第二次世界大戦での戦没者の名が記載。

由緒書き

上の写真は明石在住の橋本海関が書いた由緒書きの碑
明治31年(1898)に揮毫されています。

古墳
地元での崇敬が篤かったためか、鎮座地一帯は「鬼神山」という地名となっている。
ここには数基の古墳が存在しており見逃せない見どころである。
東には宮ノ谷古墳群、西には鬼神山古墳群(4世紀)

例祭
毎年10月第1土曜日、日曜日に秋祭りが行われる。 秋祭りでは、布団太鼓、獅子舞が奉納


伊川谷の名所



上の写真は神戸市営地下鉄 神戸学園都市駅近くに掲示の伊川谷の名所案内と
伊川谷惣社の説明





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クルーズ船シーボーン・ソジャーン Seabourn Sojournが神戸港に入港 on 2018-5-15

2018年05月16日 05時38分45秒 | 神戸情報
2018年5月15日(火)、バハマ船籍でソジャーン クルーズが運営するクルーズ船
シーボーン・ソジャーン Seabourn Sojournが神戸港のポートターミナルに入港して
いました。第4突堤(ポートターミナル)に停泊中の華麗な姿を写真紹介します。
5月15日0時に入港、同日の23時に出航だったので入・出港風景の写真はありません。

2016年3月21日に神戸港に初入港、2017-4-4に2度目の入港、今回は3度目の入港です。

シーボーン・ソジャーン Seabourn Sojournの基本情報

船籍:バハマ  建造年:2010年  総トン数:32,346 トン  
全長/幅:198.0 m/25.0 m  速度:19.0 kn  乗客定員:450 - 540 名
乗務員数:330 名  建造会社:T. Mariotti (Genoa, Italy)


紹介サイト:http://www.cruisemapper.com/ships/Seabourn-Sojourn-637 




上の2枚の写真は神戸港に停泊中のシーボーン・ソジャーン Seabourn Sojourn


上の写真は入出港時間、船の基本情報、前港(高松)と次港(青森)の情報
インフォメーションデスクに掲示されていました。


上の写真は乗船客のための神戸でのイベント情報
  日本茶とスイーツの接待
  折り紙の体験
  インフォメーションブースの設置


上の写真はアンケート用紙

現在の位置を下記サイトで確認できます。
 http://www.cruisemapper.com/?imo=9417098


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E.H.ハンターと妻の平野愛子が晩年を過ごした和の異人館(現神戸北野ハンター迎賓館 結婚式場) on 2018-3-6

2018年05月16日 04時22分12秒 | 神戸情報
2018年3月6日、神戸・北野を散策中にE.H.ハンターと妻の平野愛子が晩年を過ごした
和の異人館(現神戸北野ハンター迎賓館 結婚式場)の写真を撮りましたの紹介します。

神戸北野ハンター迎賓館 結婚式場の基本情報

住所:神戸市 中央区北野町2丁目13−1 TEL:078-241-5015

公式サイト:http://kitano-hunter.co.jp/?utm_source=weddingpark.net&utm_medium=referral


上の写真がE.H.ハンターと妻の平野愛子が晩年を過ごした和の異人館
中に入れなかったので現地説明版の写真を利用しました。


上の写真は現地説明板。読みづらいのでそのまま引用します。

ハンター迎賓館はエドワード・ハズレット・ハンター氏と妻の愛子さんが、その余生を
静かに過ごされた場所である。
Hunter Geihinkan is a place where late Edward Hazlett Hunter lived
in quietly for the rest of his life with his wife, Aiko.

季節ごとの異なる美しい表情を見せる桜を眺めながら晩年は穏やかに過ごされました。
その桜は現在では『愛子桜』と呼ばれ夫婦桜としてたくさんの幸せを見守っています。
そして日本を愛し、神戸を愛し、家族を心から愛した彼の人柄や彼の生涯が随所に
偲ばれるこの邸宅は、変わりゆく時代の中で、ここだけはいつまでも変わらない
懐かしい佇まいのままで多くのゲストを迎えています。 120年の歴史をもつ貴重な
和の異人館として、当館は現在、伝統的建造物に指定され、 大切に守り続けられて
います。夫婦の絆を長きに渡って見守ってきた邸宅、 ハンター夫妻が築いてきた
幸せな時間を、ぜひ肌で感じてみてください。平成15年10月吉日


エドワード・ハズレット・ハンターEdward Hazlett Hunter
1843年2月3日生まれ - 1917年6月2日没について Wikipediaより引用
イギリス人実業家で範多財閥・日立造船の創業者。造船業を中心に産業育成を
通じて日本の近代化に尽力した。
慶応3年(1867) - 横浜に来日。
明治6年(1873) - 神戸にハンター商会 (E.H. Hunter & Co.) を設立。
明治14年(1881) - 大阪安治川岸に大阪鐵工所 (Osaka Iron Works) を創立。
              後に日立造船、現在はユニバーサル造船に発展
20歳の頃、アジアを目指して帆船に便乗して、オーストラリア、香港、上海を経て
慶応3年(1867年)横浜で貿易事業に携わった。
大阪に移住した頃から、外国人居留地に出入りしていた、大阪川口居留地の近くに
住む薬種問屋・平野常助の娘平野愛子と結婚し、長男は生後間もなく死亡したため、
明治4年に誕生した男児リチャードを嫡男として、戸籍では母親の姓をとり
平野龍太郎(後に範多龍太郎と改名)と名づけた。続いて長女ふじ子が誕生。
明治17年2月29日にハンスこと範三郎(範多範三郎と改名)、その下に
エドワードこと英徳が生まれたが、いずれも当初は日本国籍。
ハンス範三郎は後に実業家として地歩を固めた。
国産第一号のトロール船を明治41年に完成させ、後に日本の大半のトロール船を
製造するまでになる。
このトロール漁法の実用化のために、長崎五島列島沖で奮闘したのが、グラバーの
息子・倉場富三郎である。、鉄工と造船業の他にも、煉瓦や肥料、煙草、精米、
損害保険など様々な事業を起こし範多財閥を形成した。また造船場で働く工員の
ために日本で初めて障害保険を導入した。


明治15年に、範多商会を開業。この会社の輸出する精米は年間一万トンにのぼり、
ロンドンの穀物市場の標準米になったともいわれる。
E・Hハンターは数多くの基幹産業を経営すると同時に、神戸市発展のため
公共事業にも貢献。幕末に結ばれた不平等条約の改正も英国本国に働きかけるなど、
力を尽くした。日本の近代化に長年尽くした功績により、
明治42年(1909年)勲五等双光旭日章を贈られている。
当時の外国人としては破格の栄誉だった。


ハンターは文化面でも貢献している再度山の大龍寺の上の方に善助茶屋があり
早朝登山を楽しんだ旧居留地の外国人などが休憩所として利用していた。
また、善助茶屋の親父が気をきかしてサインブックを置き登山のたびにサイン
して帰る習慣が生まれた。神戸における毎日登山のおこりである。




上の2枚の写真は神戸北野ハンター迎賓館 結婚式場の玄関門扉です。
右手にハンター邸のシンボル「H」を形どった図案が組み込まれています。


上の写真はハンター氏の夫人、平野愛子さんです。

ハンター氏や大阪鉄工所(現日立造船)の歴史について下記サイトにリンク
 Hitz 日立造船 創立130周年トップ

旧ハンター邸(洋館)

(創建)明治22年(1889)頃ドイツ人のA.グレッピー氏が英国人の技師に依頼して建造
    場所は神戸市中央区北野町 元トーア・ホテル跡

(移築・改造)明治40年(1907)に神戸市中央区北野町3丁目130番地に移築
  棟札に「上棟式範多氏」「40年5月吉日 棟梁芝嶋吉 建」と墨書きされているそうです

  常徳山のふもとのこの土地は藤田清左衛門から譲り受けたもので敷地は3千坪あった。






上の3枚の写真は現在(2018-3-6)の旧ハンター邸の光景です。
現樹所表示では神戸市中央区北野町3丁目16番


旧ハンター邸の門とレンガ塀が伝統的建造物No.42に指定されていることを示す標識

 (移築)昭和38年(1163)に王子動物園へ移築
       平成23年(2011)3月に外壁の塗装修理が実施されたそうです。




上の2枚の写真は王子動物園内のハンター邸 撮影:2016-6-27
  関連ブログ:国指定重要文化財 旧ハンター邸 on 2011-10-3
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コスタ ネオ ロマンティカが神戸港に入港 on 2018-5-14

2018年05月15日 05時51分07秒 | 神戸情報
イタリア船籍のクルーズ船 コスタ ネオ ロマンティカが2018年5月14日(月)
15時30分頃、神戸港に入港、ポートターミナル(第4突堤)に接岸しました。
久しぶりに観に行きました。
クルーズ船の華麗な姿を写真紹介します。

神戸港への初入港は2017年10月31日

コスタ ネオ ロマンティカ COSTA NEO ROMANTICAの基本情報

総トン数:56,769トン 全長:220.52m 全幅: 30.79m 船籍: イタリア

乗客定員: 1572人  就航: 1993年11月 運航会社: Costa Cruises (コスタ・クルーズ)







上の3枚の写真は神戸港に入港したコスタ ネオ ロマンティカ COSTA NEO ROMANTICA
消防音楽隊の歓迎演奏や消防艇の放水も見られず寂しい光景でした。
今回の神戸港寄港は 済州島・九州ロマン紀行のクルーズで
  東京→神戸→済州島→鹿児島→横浜→神戸
   (5月20日(日)16時に神戸港中突堤に帰港予定)

確認はしていませんが昨日(2018-5-14)の21時30分に出航したようです。

神戸港への入港の光景を動画で紹介します。
コスタ ネオ ロマンティカの神戸港への入港 on 2018-5-14



関連報道:2018/2/4 06:30 神戸新聞NEXT

コスタ ネオ ロマンティカ COSTA NEO ROMANTICAの現在位置

 http://www.cruisemapper.com/?imo=8821046
  上記サイトで確認できます。



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