CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明石公園内の「県農発祥の地」の石碑 on 2020-2-9

2020年05月13日 05時20分16秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月9日、明石公園内の県立図書館に出かけた時に表題の「県農発祥の地」

の石碑の写真を撮りましたので紹介します。

兵庫県立農業高等学校は現在、JR東加古川駅近くにある高校であり明治30年(1897)

4月1日に設立された兵庫県簡易農学校(明治32年兵庫県農業校、明治34年に

兵庫県立農学校に改称)が前身の学校で明石城の三の丸の位置にありました。

当所の兵庫県簡易農学校時代は一般の理解が得られず志願者はたった3人であった。

募集を延期して13人でやっと開校するという有様であった。

明治32年以降は実業学校令が公布され兵庫県農学校として当時の旧制中学校と肩を

並べる水準となり、生徒も急増した。

上の写真が上述の「県農発祥の地」の石碑です。

上の写真は石碑のある場所付近から観た明石城

 

関連の石碑として同じく明石公園内にある「鶴駕行啓所」も写真添付しておきます。

上の2枚の写真は「鶴駕行啓所」の石碑の表面と裏面

この碑の裏面の記載内容によれば明治32年(1899)11月5日に東宮嘉仁親王殿下が

兵庫県立農業校を訪れ生徒の学習状況を視察されたことと大正11年(1922)4月に

県農が加古川に移転することで明石公園内にあったことが忘れ去られることを危惧

して服部一三(兵庫県知事)に嘆願し大正14年(1925)3月に建立された。

 

嘉仁(よしひと)親王は後の大正天皇(1879-1926)である。明治32年当時は

まだ20歳の皇太子時代で当地に訪問された。

 

以下の文章は2022年2月4日に追記しました。

2022年2月3日、県立図書館で借りた図書、ビジュアルブックス編集委員会編

失われた 風景を 歩く」のPage30-32に県立農学校と女子師範という章で県農の

昔の写真と文がありましたので引用紹介します。

上の写真は県立農学校の正面。(大正6年頃)

原典は故浜田秀男氏蔵「兵庫県立農学校・大正6年(1918)・第17回卒業記念写真帖」

明石城三の丸に県農があった時期は明治30年(1897)から大正11年(1922)東加古川に

移転するまでの25年間である。

上の写真は明石城跡(三の丸)を行軍する県立農学校の生徒。(大正6年頃)

手前は山陽鉄道(JR)のレール。

原典は故浜田秀男氏蔵「兵庫県立農学校・大正6年(1918)・第17回卒業記念写真帖」

上の写真は城跡で馬を使っての農耕実習(大正6年頃)

原典は故浜田秀男氏蔵「兵庫県立農学校・大正6年(1918)・第17回卒業記念写真帖」

石碑に書かれている内容は下記のとおりです。

兵庫県立農業高等学校
県農発祥の地

兵庫県知事

明治30年4月1日 兵庫県簡易農学校この地に創立
明治32年4月1日 兵庫県農学校(甲種)に昇格
明治34年4月30日 兵庫県立農学校と改称
大正11年4月1日 加古郡平岡村新在家に移転
昭和23年4月1日 兵庫県立農業高等学校と改称

創立80周年を記年してこれを建立
昭和52年11月22日

社団法人 錦江会

 

関連サイト

 明石公園内にあった「兵庫県立農学校」100年前の写真帳発見 生徒の活動鮮明に伝え|明石|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

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開業当時の三宮停車場(現在の元町駅の場所にあった)

2020年05月12日 04時57分56秒 | 神戸情報

市民のグラフ こうべ No.170(1986年12月) 特集・みなとの120年(上)を

読んでいた時に表題の写真を見つけました。

写真紹介すると共に関連情報も含めて記していきます。

上の写真が上記資料のPage4に掲載の明治7年の三宮停車場の駅舎

神戸停車場が大ステーション、三宮停車場を小ステーションと一般に呼ばれていた

大坂-神戸間の鉄道が開通し仮の営業を開始したのは明治7年(1874)5月11日のことだが
当初、神戸停車場があるので三宮停車場の設置は必要なしというのが当局の考えであったが
局長の井上勝注)に対して居留地周辺の将来性を考え神戸市街地のもう1か所停車場を建設
すべきと関戸由義が進言したことにより三宮停車場(現在の元町駅の場所にあった)は
開業当初より開設された。

 注)長州ファイブ井上聞多・野村彌吉=井上勝・伊藤俊輔・山尾庸三・遠藤謹助の5人

   の1人で文久3年(1863)から英国に留学、明治元年(1868)9月にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン

   鉱山技術、鉄道技術を学び卒業した。鉄道の父と呼ばれている。東京駅と萩駅に銅像あり。

   1843年生まれ、1910年没 墓所は品川の東海寺大山墓地

官営鉄道(現在の東海道本線)大阪-神戸間が営業を開始した明治7年、途中に神崎(現在の
尼崎駅)・西ノ宮駅(現在の西宮駅)・住吉駅・三ノ宮駅の4駅が設置された。
(ただし神崎駅と住吉駅は20日遅れての開業)

時を経て踏切の閉鎖による交通の停滞を解消するために高架線が検討された。
大正10年(1921)12月13日鉄道省から都市計画神戸地方委員会に届いた諮問では、
貨物線新設、高架式工事と共に三宮停車場を加納町踏切付近に移転すると明記されていた。
このため旧三宮停車場(現在の元町駅)が閉鎖これに伴い停車場周辺地は衰退した。

旧三ノ宮駅復活に立ち上がったのは駅の南側に医院を開き神戸財産区の区長を務めていた
出水仁吾である。彼は昭和6年(1931)11月17日に駅の再開を求め神戸中央振興同盟会
を結成し鉄道本省に陳情活動をした結果、昭和8年(1933)6月5日大坂鉄道局から通知
がきて、新駅設置資金5万2千4百円のうち3万4千2百円の寄付があれば設置を承認
するという内容であった。

出水仁吾らは寄付活動に奔走し3か月後の9月5日には寄付金を納入できたのである。
新駅の工事が進められ元町駅は昭和9年(1934)7月20日に開業に漕ぎ着けた。

元町駅命名の理由は神戸市の原型となった神戸村・二つ茶屋村・走水村が合併してできた

時の名前が「元町」である事にちなみ、元町駅と命名された。

昭和9年(1934)に高架された後に開業した元町駅の写真は下記ブログで紹介 

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/c8e3acc71f43f7f555787bb99a604e58

 

上の写真は明治35年(1902)12月10日 清水吉康著 田村豊盛堂出版社の地図で

神戸停車場と三宮停車場に色をつけています

上の写真は明治43年(1910)神戸市地籍図 柿花肇 著

神戸ステーションと三宮ステーションを色付けしています。

 

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須磨寺遊園地

2020年05月11日 05時34分09秒 | 昔こんなものがあった 大正編

新型コロナウイルス感染症の影響で「ステイ ホーム」を遵守して家に居る時間が

多いこの頃である。

家で下に添付の大国正美さんの著書「古地図で楽しむ神戸」を読んでいる時に

Page140-141に須磨寺遊園地の絵図が紹介されていたのでこれを機に須磨寺遊園地を

テーマにブログ記事を書く事にしました。

 

須磨寺遊園地は大正2年(1913)から兵庫電気軌道(現在の山陽電鉄)が造成に

着手した。兵庫電気軌道株式会社は明治40年(1907)7月2日に設立された。

初代社長は川西清兵衛。支援者としては藤田松太郎、滝川辨三、村野山人、

神田兵右衛門らがおり兵庫-明石間の開通を計画したが沿線に皇室御料地や舞子の

風致保存など解決に時間を要する諸問題があり、まず明治43年(1910)に

兵庫-須磨間を開通することにした。沿線開発に力を入れていた兵庫電気軌道は

電鉄開業前から土地を借り受けて須磨寺遊園地整備の準備を進めており、3年後

の大正2年から遊園地整備に着手した。大正から昭和30年代にかけて、遊園地は

多くの花見客や動物園、花人形、博覧会、子供の遊び場として集客し賑わった。

上の写真は昭和7年(1932)の須磨の1万分の1の地図に須磨寺遊園地の位置を

色付けしました。

地図上に岡崎邸、小曽根邸、川西邸、九鬼邸、久原邸、藤田邸、山下邸などの

豪邸や別荘が地図上に明示されています。

池に名称が明示されていませんが堂谷池とか大蛇池(大池)と呼ばれています。

後に詳述しますが明治中期、池の周りには神田兵右衛門の音頭で「作楽帳」という

風流な寄付帳を作り友人らに寄付を募った資金で桜の植樹が行われ神戸市内でも

屈指の桜の名所となっています。

 

上の写真は大正13年(1924)大阪高槻の清水吉康が作成し須磨寺が発行した

「須磨寺境内全図」の中に描かれた須磨寺遊園地です。東浦町郷土資料館蔵

池の東側には動物園を設け、クジャク、鷹、カンガルー、ワニ、ヒョウ、クマ、

猿、象などが飼われていました。池の北側には花人形館があり春には霧島人形館

菖蒲人形館、秋には菊人形館が大正11年(1922)より開かれていました。

北側の奥に舞堂も設置されていました。

さらに料亭や茶店、子供電車遊具完備の運動場、池ではボートに乗り釣りもできた。

後にはプールも設置された。

大正6年(1917)須磨寺遊園地の豹が逃げ出して、神戸全市が戒厳令状態という

騒ぎが起こり、遊園地を経営する兵庫電気軌道がヒョウの捕獲に500円の賞金を出した。

10日余り後、神戸の北、藍那の山中でヒョウを銃殺して一件落着した。

後年(関東大震災後)、須磨を訪れた山本周五郎が「豹」という短編を書いています。

 

神戸市立中央図書館編「KOBEの本棚 第30号」2009.3に須磨寺遊園地について詳述

されています。

上の写真は大正10年(1921)頃の須磨寺遊園地 (神戸市文書館蔵)

上の3枚の写真は大正~昭和の須磨寺遊園地

出典:神戸市サイト(https://www.city.kobe.lg.jp/documents/32459/kinensi_3.pdf )

 

上の写真は須磨寺の源平の庭の前、若木の櫻があるところに建つ「植櫻記碑

須磨寺の復興に功績のあった神田兵右衛門(神田松雪)が桜を植樹して須磨寺を

復興させた事績について記載されています。 撮影:2012-5-8

神田松雪は兵庫津の旧家神田兵右衛門のことである

植櫻記碑の中に句が読まれています。一番左手の方に神田松雪の俳句があります。
「花千母登(ちもと) 昔稚木乃 さくら哉」と書かれています。

碑は明治24年(1891)4月に建立されたものです。
この頃、須磨寺は荒廃しており、須磨寺の境内に桜の木を植えて花の錦を
織ろうと当時住職であった長原密浄とともに「作楽帳」と言う寄付帳を作り知人に
寄付をたのみ千本の桜を植樹することに成功した。
現在の須磨寺を神戸でも有名な桜の名所とした功労者である。

神田兵右衛門は町兵隊の編成、明親館の建設、兵庫運河の築造、水道の布設などで
功績のあった人物で神戸市の初代の市会議長も務められた。

天保13年(1842)2月18日、播州印南郡大塩村で生まれました。
明治の末期(1910年頃)まではご存命であったようです。
和田神社に顕彰碑が建っています。
詳細は小生のBlogを参照してください

 

最後に川西英さんの木版画で須磨寺遊園地の「夜桜」の作品を添付して筆を置きます

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北朝鮮平壌空港近くのICBM開発状況及び新浦で、SLBM実験準備か 新型潜水艦も建造

2020年05月10日 06時39分50秒 | Weblog

産経新聞の報道によれば

米国シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)は5月5日、衛星写真に基づき、北朝鮮の
平壌国際空港近くで、弾道ミサイル開発計画に関連する可能性の高い新たな施設が今年後半にも
完成し、運用開始の準備が整うとの分析結果を公表した。

大陸間弾道ミサイル(ICBM)を収容できる規模の建物が含まれているとしている。

詳細な情報は下記サイト

 https://news.yahoo.com/facility-near-pyongyang-airport-linked-042239153.html

 

 https://news.yahoo.com/satellite-images-reveal-north-korea-121005680.html

またTBSニュースNHKのニュースでは次のように伝えています。

一方、韓国の情報機関、国家情報院は5月7日までに、北朝鮮が東部新浦の造船所で、
新型潜水艦の進水準備を続けているとの分析を国会の情報委員会に報告した。出席した議員が明らかにした。

米国のNorth38ではYoutube動画で新型潜水艦の進水と潜水艦から発射できる

SLBMについて次のように発表しています。

北朝鮮、SLBM実験準備か 新型潜水艦も建造

2020年5月8日15:00の朝鮮日報電子版によれば

国連の報告書「新浦造船所に長さ194メートル、幅36メートルの大型建屋…
近くに大規模な潜水艦訓練センター・修理用掩蔽施設も建設」
SLBMの射出テストも最近実施…潜水艦の進水・SLBM挑発が近い模様

上記の見出しで伝え、さらに本文で次のように記載されています。

見出しの建物の中で新型の潜水艦を2台or3台?製造していると見られる。

核弾頭を装備したSLBMを想定していると考えられます

北朝鮮の新型潜水艦は、昨年(2019年)7月末に金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長が視察する様子を北朝鮮メディアが報じた際に公開された。
北朝鮮軍の主力潜水艦である「ロメオ型」(1800トン)を改良し、3000トンに迫るサイズを有すると推定されている。
長さは76.6メートル以上、幅は6.7メートルだ。

建造後、大型建屋内のレーンに載せて外部に引き出し、進水させるものと予想されている。
北朝鮮の新型潜水艦は、昨年10月に試射に成功した新型SLBM「北極星3」を3発搭載できると推定されている。
金正恩が昨年末に言及した「新たな戦略兵器」とは、新型ICBMとこの新型潜水艦を指す-という評価が多い。
従来の新浦型(ゴレ型)潜水艦は2000トン級で、SLBM1発を搭載する。

更に詳細はhttp://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/08/2020050880114.html

 

関連ブログ:

視点・論点「北朝鮮は何を狙っているか」 By 道下徳成 政策研究大学院大学教授 on 2017-9-15

 

北朝鮮の新型潜水艦の製造拠点 新浦市

 ユーラシア・グループ 「2018世界10大リスク」 on 2018-1-2

 

関連情報として第2回米朝首脳会議(ハノイにて’19年2.27-2.28)における

北朝鮮の核放棄交渉の状況をテレビのパネルを添付しておきます。

(下の5枚の写真)

尚、米朝首脳会談の第1回はシンガポールで2018年6月12日に実施

第3回目は2019年6月30日板門店で行われています。

 ただし、第3回の会談についてアメリカ政府は「首脳会談ではなく両首脳が面会しただけ」と

 主張し、北朝鮮側も首脳会談としていない

 

 
上の5枚の写真は2019年6月30日の 米朝首脳会談の様子
 
 
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滋賀県彦根市龍潭寺への訪問記 on 2020-1-9

2020年05月09日 05時50分05秒 | 滋賀県情報

2020年5月4日、NHKBSテレビ「火野正平のこころ旅 2014年4月の再放送 滋賀県

を視聴していた時に彦根市の龍潭寺でお見合いをしたお寺の庭園が忘れられません

という手紙があった。そこで龍潭寺の訪問をテーマにブログを書くことにしました。

龍潭寺への訪問日は2020年1月9日です。

尚、1月9日に見て回った場所は下記のブログで纏めています。

 彦根散策記 on 2020-1-9

龍潭寺の基本情報

住所:彦根市古沢町1104  TEL:0749-22-2777 愛称:だるま寺、庭の寺

宗派:臨済宗妙心寺派 山号:弘徳山 御本尊:釈迦如来 

庭園拝観:9:00~16:00 拝観料:大人400円 小中学生150円

創建:慶長5年(1600) 井伊直政と昊天(こうてん)宗建

 

上の写真は上述の番組で紹介されていた彦根市龍潭寺の庭の光景です。

2020-1-9の訪問時は拝観しなかったの貴重な一枚です。

以下Wikipediaで解説された庭の説明書きです。

佐和山を借景にした方丈南庭「ふだらくの庭」は枯山水庭園、書院東庭「蓬莱池泉庭」は池泉鑑賞式庭園であり、共に開山・昊天宗建の作庭によるものである。他にも書院北庭「露地庭(ろじてい)」もある。 
龍潭寺には禅宗の大学寮が併設されており、その中に造園を学ぶ園頭科(えんずか)があった。その生徒が実習として作成した庭も残っている。

下記のサイトには庭園の写真が多くあり実際に行った気分が味わえます

 https://garden-guide.jp/spot.php?i=shiga_ryotanji

上の写真は彦根市指定文化財に指定されている庭園(東庭)と方丈襖絵の説明板

上の写真は龍潭寺への入り口です。

上の2枚の写真は石田三成公の銅像と説明板

上の写真は山門

中に入ると苔が生えた境内で歴史を感じる禅寺です。

肝心の仏殿(本堂)や方丈、書院の写真はありません。

NHK大河「女城主 直虎」が放映されていた頃は参拝者も多かったと思われますが

私が訪問した折はひっそりとしていました。

Wikipediaより龍潭寺の概要を引用紹介します。

龍潭寺は、天平5年(733)遠江国引佐郡(現・静岡県浜松市北区引佐町)に

行基によって開かれたと伝えられる。平安時代中期一条天皇のころに井伊共保が

ここで葬られたことから、井伊氏の菩提寺となった。禅宗寺院となったのは

室町時代末期井伊直平の代のようである。 慶長5年(1600年)に井伊直政が

近江国佐和山城に転封となると、龍潭寺の五世昊天宗建禅師を当地に招いて

遠江国から分寺して建立したのがこの寺である。

 

上の写真は境内の観音お告げ七福神。藍渓和尚伝来の七福神の実物も拝観できるようです。

上の写真は大洞観音堂

こちらの右手から墓所を通り抜け山道を登っていくと佐和山城跡に到達します。

当日は佐和山城跡には行かなかった。

上の写真は観音堂裏手の墓地。

墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母(富の方)の墓や、直弼の側室であった

里和の文塚が残っているようですが確認できず。

上の写真は鐘楼

上の写真は庫裡?

上の写真は仏足石

上の2枚の写真は境内のお地蔵様

上の2枚の写真は東海道線の車窓から見える佐和山城跡の看板と龍潭寺周辺図

龍潭寺に隣接している清涼寺は井伊直政以降の歴代藩主の菩提寺であり立派な堂宇

があり見ごたえのあるお寺です。

 

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志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に2回目の出演 on 2020-5-6

2020年05月08日 04時56分41秒 | Weblog

一昨日(2020-4-6)、志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に2回目の出演を

されましたので写真紹介します。

1回目の出演に関するきじは下のブログで書いています。

 

志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に出演 on 2020-5-1

それでは早速その場面を写真紹介します。

志村けんさんが演じる作曲家の重鎮、小山田耕三がレコード会社の人事担当者を

訪問し、イギリスのコンクールで2等になった古山裕一をレコード会社の専属作曲家に

雇用するように要請する場面での登場でした。

下の写真はコンクール入賞を伝える地方紙の記事

ドラマ初出演の志村さんは昨年12月から亡くなる約3週間前の3月6日まで撮影

に参加されていたそうです。志村けんさんが演じた人物のモデルは山田耕作

実際のファクトでは

昭和5年(1930)1月23日付けの福島民報新聞などの地方新聞で「市内一青年の

作曲が認められて世界の舞台へ」と報じられ福島の川俣銀行勤務の古関祐而さん

にファンレターを書いた内山金子との文通が始まり恋に落ちます。

金子とのこと実家の破綻などもありイギリスの出版社チェスター楽譜出版社から

オファーされた無償の留学の話を断ることになります。

祐而は留学をあきらめ、金子との新婚生活のため川俣銀行に代わる新しい就職先

を探し始めた。そして東京のレコード会社コロンビアに譜面を送ると、学生時代

(福島商業高等学校)から交流のあった山田耕作の推薦でコロンビアの専属作曲家

として採用されることになります。

昭和5年の6月1日には祐而と金子の結婚の祝い事が行われ同年9月には上京し

杉並区阿佐ヶ谷にあった金子の姉の家に部屋を借り新婚生活が始まる。

上記文章は下の写真の古関祐而金子の長男の正祐さんが監修した下に

添付の書籍より纏めたものです。

 

関連サイト:https://news.yahoo.co.jp/byline/kumasakahitomi/20200501-00176239/

 

志村けんさんに関する話題ではありませんが「エール」で主演をされている

二階堂ふみさんがインタビューに答えられていますのでリンクさせていただきました。

https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/tv/二階堂ふみ、歌のシーンは「悔しさもまだ残っています」共演者とのエピソードも%ef%bc%81-エール/ar-BB13Plmx?ocid=spartandhp

 

 

 
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基本再生産数(R0)、実効再生産数(Rt)について

2020年05月07日 06時42分50秒 | 有用な情報

基本再生産数(R0:Basic Reproduction Number)とか、実効再生産数

(effective reproduction number) Rtとか、今まで聞いたことが無い言葉が、

ニュースや情報番組に頻繁に登場するようになっています。

そこで、これらについて調べて見ました。

基本再生産数とは、「ある感染者が、その感染症の免疫をまったくもたない人の集団に
入ったとき、免疫の獲得もしくは死亡により感染力を失うまでに平均で何人を直接感染させるか」を指す。

新型コロナウイルスでは、1人の感染者は平均で直接1.4~2.5人を感染させると、WHO

(世界保健機関)は暫定的に見ている(基本再生産数1.4~2.5)。

国立感染症研究所 ウイルス第三部 第一室長 駒瀬 勝啓さんのデータ(下記PDF)

http://idsc.nih.go.jp/training/22kanri/22pdf/sep16_01.pdf

によれば代表的な感染症の基本再生産数は下表のとうりです。


これは12~17の百日咳や12~18の麻疹(はしか)と比べて低く、2~3のインフルエンザ並みと言える。
注意すべきは、基本再生産数は我々が何も対策を取らなかった場合の数値であることだ。
これに対して、手洗いやうがい、マスク着用、三密を避けるといった対策が取られれば、1人の感染者が

実際に直接感染させる人数が減るのは当然です

こうした実際の再生産数のこと実効再生産数という。

実効再生産数の算出の仕方について下記のサイトで記載されていますので

 https://plaza.rakuten.co.jp/techmfg/diary/202005030000/

引用紹介します。

R = K2(L × D) + K(L + D) + 1

K2はKの2乗

Kが対数成長速度で、LとDの係数に中国のデータに基づく数字を入れると、

R = K2×63 + K ×16 + 1    K2はKの2乗

という式になります。意外と単純な式で計算することができるようです。

 L:潜伏期間日数 D:感染期間日数

倍加時間の計算に用いているデータからも算出できるようなので、この中国のLとDを用いて、ECDCのデータを利用しているダッシュボードに、国別にRtを見ることができるページを作成しました。

Kは、(LOG(過去5日間の感染確認者数計)ー LOG(さらにその前の5日間の感染確認者数計))/5日間 という式で計算しています。日ごとの数字を用いるとブレが大きくなるので、5日分のデータを用いています。

この式では、日本のRtは変動が大きくなっています。検査数の少なさが数字の安定性に影響しているのでしょうか。欧米諸国では、日本よりもブレは少なくなっています。

対策本部が公表した実効再生産数の95%信頼区間は非常に小さいというか、もはや区間ではない形ですが、日本のデータから信頼性の高い実効再生産数が算出できるのかどうかという疑問もあります。

計算式の種類やLとDの値、Kの算出方法によって、Rtの値も当然変わってきます。

上の写真は新型コロナウイルス感染症対策専門家会議 
「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」 2020-5-1のRtのデータ

出典は下記のとおり

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000627254.pdf

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000627255.pdf

上に添付の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議に提出された資料によれば、
日本全体の実効再生産数は3月25日は2.0だったが、
その後は減少しており、4月10日の実効再生産数は0.7となった。
また東京の実効再生産数は3月14日は2.6だったが、4月10日には0.5まで減少。

ドイツ政府は実効再生産数を毎日公表されており外出自粛など社会生活の制限を

緩和する為の目安としてRt=1以下という基準を設けています。

最後にNewsweekの下記サイトに東洋経済オンラインからの転載記事が掲載

されていましたのでアドレスを記載しておきます。

上述のR0,Rtno他に集団免疫率のファクターを加えた考察をされています。

 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/05/3-198_1.php

 

 

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彦根城からの眺望

2020年05月06日 04時35分36秒 | 滋賀県情報

一昨日(2020-5-4)、NHKBSテレビ「火野正平のこころ旅 2014年4月の再放送

滋賀県」を視聴していた時に彦根城からの眺望が忘れられませんという手紙が

あった。そこで彦根城からの眺望をテーマにブログを書くことにしました。

彦根城への訪問日は2020年1月9日です。

上の2枚の写真は天守閣最上階の展示パネルの写真で

西北から東北方面を撮ったものです。

上の写真は天守閣入り口付近に掲示の展望図

上の写真は私が撮影した西北方面の眺望

上の写真は東側の眺望 JR彦根駅など彦根市の中心街の眺望

上の写真は佐和山を中心にした眺望

上の写真は山の中腹の大洞弁財天(長寿院)を中心に撮った眺望

長寿院には野猿が居ついていたことを思い出しました。

上の3枚の写真は色々な角度から撮った彦根城天守閣(国宝)

 

Wikipediaより彦根城の概要と歴史(江戸・明治時代)を引用紹介します。

概要
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の

拠点として築かれた平山城(標高50m)である。
山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも

呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。 
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。
天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定

されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、
国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に

稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が

保存されることとなったのだという。 
天守が国宝指定された5城(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)の一つに

数えられる。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の

世界遺産暫定リストに掲載されたものの、
近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。 
滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である。 

歴史・沿革

江戸時代
 
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、

その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、
西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」
と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城で

あったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に

居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、
1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、

直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、

1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。 
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)

が手伝いを命じられる天下普請であった。
1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。
大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。
この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中

では最高となる35万石を得るに至った。 
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、

月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。
徳川統治下の太平の世においては、城郭という軍事施設の存在理由がなくなり

本来の目的とは違った使われ方をしていた。
西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城だが、主な機能は

政治の舞台や年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかった。 
1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。 
幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。
その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。 

明治時代
 
明治に入り、各地の城は廃城令で破壊・売却されていった。
彦根城の天守閣は明治元年に700円で落札され解体される寸前で、明治11年10月に

明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという。

その際、天皇に保存を奏上したのは、巡幸に随行していた大隈重信という説と、
天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)という説とがある。 

 

彦根散策記 on 2020-1-9のブログへのリンク

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/2ebb8abfddb5b4c863ef640cba2214cd

 

 

 

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新型コロナウイルスに関する基礎知識 「直撃LIVE グッディ!」より

2020年05月05日 09時41分28秒 | 有用な情報

昨日(2020-4-4)、関西テレビの「直撃LIVE グッディ!」を視聴した。

その中で新型コロナウイルスに関する基礎知識を易しく解説されていたので

写真紹介します。

ウイルスと細菌の違い

上の写真がウイルスと細菌を比較した表です。

細菌は光学顕微鏡で観察できるのに対してウイルスは電子顕微鏡でしか観察できない

上のパネルの絵の大きさの違いが視覚的に直観でき良く判ります

細菌は生物の一種と言えるがウイルスは非生物と生物の間に属するものである。

判り易い説明ではあるがもう少し詳しく言うと「ウイルス遺伝子(核酸)の

サイズは1万~3万塩基の長さであるのに対し大腸菌(細菌)では464万塩基もある。

細胞の遺伝子二本鎖DNAであるが、ウイルスでは一本鎖RNAであるものが多い。

DANを構成する核酸塩基は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、

チミン(T)の4種類であり、RNAではTの代わりにウラシル(U)である。

A/T(U)、G/Cのそれぞれの二塩基対は分子構造が「相補的」でぴったり合い、

相手を引き付けあう

以上の文章は下記の書籍のPage219からの引用です。

ウイルスにより体調が悪くなるプロセス

上の写真はウイルスによりヒトの体調が悪くなるプロセスを説明したパネル

 

何故、ウイルスの起源が重要か

起源の動物の抗体を調べることでワクチン開発に繋げる

 

 

ウイルスの起源を調べることで感染の大元を絶つ対策が打てる

 

 

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明智遠山家の菩提寺 龍護寺バーチャル訪問記

2020年05月04日 10時28分14秒 | バーチャル探訪

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ「長良川の戦い」(1556)が

始まろうとしています。

斎藤道三側につき敗北を味わい朝倉義景を頼り一乗谷へ逃れた明智光秀は約10年間

一乗谷で過ごしたと言われています。

さて、明智光秀の生誕地・父母・生年など未だに謎に包まれている。

生誕地に関して岐阜県内だけでも8つほど候補地が挙げられています。その中でも

有力な説である美濃明知説(岐阜県恵那市)があり「明智光秀産湯の井戸」も

残っています。

光秀は明知城の出城、落合砦(千畳敷砦)で生まれたという言い伝えが

この地域には残っています。

そこで、明知の地にある明智光秀の所縁の龍護寺をGoogle Earthを使用して

バーチャルで訪問することにしました。

 

龍護寺の基本情報

住所:岐阜県恵那市明智町1389-1  TEL:0573-54-2540

宗派:臨済宗妙心寺派 山号:大明山 御本尊:釈迦如来

龍護寺のGoo地図を添付しておきます。

上の写真は岐阜県恵那市明智町のGoogle地図 龍護寺の位置を赤字で示した

上の写真は龍護寺付近のGoogle地図

 

Wikipediaより龍護寺のご由緒を引用紹介します。(一部追記)

大永元年(1521)三河国三玄寺の住持であった「伯庭」が当地に「塔仙坊楞厳院」

という庵室を設けて住まっていたという故地に、慶長元年(1596)江戸幕府の

交代寄合となった遠山利景が一族の菩提寺として建立し「椽室」が開山した。

遠山家の子孫には遠山の金さんとして知られる遠山景元がいます。以降は江戸時代

を通じて明知遠山氏の庇護のもと杉平村に30石の寺領を有していた。

また明知遠山氏の領内にある妙見寺や長楽寺、万勝寺、観音寺などを末寺としていた。

なお遠山利景の父、遠山景行の墓は、恵那市明智町杉野の安住寺と龍護寺の両方にある。

境内には遠山利景以後の明知遠山氏の歴代の墓と、家老であった串原遠山氏の

末裔である永田氏の墓の他、遠山氏初代の遠山景朝の伯父にあたる加藤光員と

その一族の墓が隣接している。他には寺宝として明智光秀所有の直垂の布が

縫い込まれた袈裟を所蔵しており、明智光秀の霊廟所もある。 

上の写真は駐車場付近から観た龍護寺の遠景

上の2枚の写真は道路沿いにある信徒会館

上の写真は明智光秀公の霊廟所(道路沿いより)

霊廟所の中の供養塔は斜めにヒビが入っているそうです。

上の写真は現地説明版に記載の明智遠山氏と土岐明智氏系譜概要図です。

ここでは明智光秀の父は光隆としています。

遠山景行と明智光秀の叔父の光安が同一人物としています。

大河ドラマでは明智光安は明知城の城主として描かれていると思います。

 

実際に訪問された方のサイトにリンクさせていただきました。

 1)https://tabi-z.com/ryugo-ji

 2)https://ameblo.jp/mico315-kk/entry-12514518452.html

 3)https://www.kankou-gifu.jp/spot/5828/

恵那市明智町の観光案内

 1)https://akechi-mitsuhide.jp/places-associated-with-mitsuhide/

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