栃木県那須郡、旧・湯津上村(ゆずかみむら:今は合併により大田原市)に大きな美しい古墳があります。何度もここを通るたびに、大きな松がたくさん美しく生えていてきれいに整備されて姿を見ては感動してきました。
そこは国道294号線沿いにあります。そのあたりは古墳がたくさんあります。この美しい古墳は下侍塚古墳と言われるそうです。
江戸時代もはじめの頃、徳川光圀がここを発掘したという話があります。おそらく考古学上での発掘は日本で初めてではないでしょうか。私は以前から、その話を聞いてあるひっかかるものを感じてきました。
それは、ここは水戸の領地ではないのではないか。もし、水戸の領地であれば自由に発掘できるはずだが、間違いなく他の藩の領土であったはずだ。近くを南北に那珂川が流れていますが、その向こう岸つまり馬頭(ばとう)は間違いなく水戸藩の領地であるのですが。
ここの美しい古墳を眺め、時間がありましたので、すぐ近くにある資料館に立ち寄ってみました。「栃木県立なす風土記の丘資料館」の「湯津上館」という所です。入場料はたったの100円。中はさほど広くなくて実物の資料は無く、模型や古文書のコピー、写真、そして読み下し分や現代語訳などが展示してありました。
ところが、不思議なことにその資料の中で、ほとんど半分あるいはそれ以上が徳川光圀や茨城県のあるいくつかの地域の歴史的なことに関することなのです。「どうして? ここは栃木県なのに。」と、水戸に住む私にとっては、ちょっとくすぐったいような嬉しいような気持ちにはなりましたが、なおさら疑問を感じてしまいました。
ある程度、飾られている資料を読んだりしましたが、いつまでもは居られないので、出ることにしました。受付のある事務所にはたった一人、年輩のまじめそうなメガネをかけた人が本を読んでいました。そこで思い切って、長い間疑問に思っていたことを尋ねました。
「ちょっと、すみません。ここは水戸藩の領地ではなかったですよね。」 すると彼は、受付の窓口まで出てきて丁寧に教えてくれました。水戸藩の領地ではなく、黒羽藩の領地であったそうです。それなので黒羽藩にかけあって、その地を水戸藩で買い上げて、水戸の飛び地にしたとか。そして、光圀自身も何度かここまで足を運んだらしいのです。発掘調査はもちろん数多くの学者たちを動員したことは間違いないでしょう。そしてその後も、水戸藩がここを管理をしていたそうです。他にもう一カ所の史跡を飛び地にしてあったそうです。
なるほど、それで分かりました。資料館に寄ってよかった。聞いてよかった。という気持ちになり、気分良く外にでて、またこの見事な古墳をしげしげと眺めてから立ち去りました。ささいなことかも知れませんが、ひとつ勉強ができて私の心は日本晴れになりました。
このあたりには、ほかにも史跡がありますが、それは後でチャンスがあれば書くことにします。