歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“だから荒野”⑭銭谷雅義さん!だ・か・ら~!期待していたのにこれがァ!誰も見たことが無い奇跡ですか?

2015年03月09日 | テレビの話し
まだ、まだ、「だから荒野」をやっています。

初っ端から、何ですが、話しは逸れまして、「だから荒野」の、“だから”と云う言葉の話しなんです。

この「だから」と聞くと、むかし、むかしの上司に、この言葉が口癖の人が居たのです。性格は、どちらかと云えば短気でした。

“だから~!さっきも云っただろう!”同じ事を何遍も云わせるな的意味が込められ、いつも言葉の頭に“だから~!”付くので、あだ名が「だから」でした。

そして、これに連なって思い出されるのが、あの“剛腕”の“小沢一郎先生”です。あの方も、かなり、だからを連発される方だと聞いたことがありました。あの無愛想な顔から、然もありなんと頷いたものでした。

それにしても、小沢先生、政治の表舞台から消えてしまいました。きっと、今頃は、毎晩、酒を飲む度に、だァかァらァ~!を連発しているような?そんな気がするのです。一緒に一杯やってみたいです。

だから話しはこの辺にして、本題の「だから~!荒野」のお話です。

それで、何ですが、亀田の告白の舞台ですが、昔は炭鉱のあった島で、現在は無人島のようなのです。この設定は、あの有名な“軍艦島”のようですが、それとはまた別の島でした。長崎には、そんな島が幾つもあるの?
 

それで、亀田章吾の告白ですが、山岡に「あなたが自己開示をする番だと云われ」養護施設の出身であること、5歳の時に施設に入り、父親の顔を知らず、母の温もりからも遠く、独り寂しい生い立ちを語るのです。


私は、以前、亀田章吾の“悲劇”は、年齢的に「被爆三世」かと考えていたのですが、ハズレでした。やはり、山岡も亀田も、2人とも“戦争と被爆”を背負わせると、話しとして重すぎる、そんな判断だったのでしょう。


山岡の“妹殺し”悲劇に対して、亀田の養護施設出身を、“小さな悲劇”とするのは、ちょっと、ちょっと無理があるような・・・。


それで、何ですが、大きな?いゃ、中位な疑問なのですが、この島でのシーンが、カメラを固定せず、手持ちで撮影されていて、画面が小刻みに揺れて、とても、とても、見難いのです。

演出として、登場人物の誰かの視点として、一人称的な表現として、ドキュメンタリー的表現として、そんな撮影方法はあると思いますが、一人称でもなく、だからと云って、このシーンだけを、ドキュメンタリー的に表現する理由もなく、よく判らない撮影方法です。

もしかして、資材搬入的に、三脚、クレーン、レールを引いての撮影は無理なので、やむを得ず手持ち撮影になった?

でも、しかし、それにしては、画面のブレが酷すぎるのです。プロは手持ちでもあれほどブレません。あのブレた映像は被写体との距離をとって、望遠レンズを使用しての撮影と思われます。

もしかして、あれは、テスト撮影で、本番は天候不順で撮影続行が不能となり、そして、後日、再度のロケは、予算的に、放送日程的に、スタッフの、各役者の、スケジュール調整的に、不可能だった為、やむを得ずテスト映像をそのまま本放送に使った?

兎に角です。あのブレまくる映像の意図が分からん!

と、まあ、どうでもイイことを、ここまで綴ってきました。と、云う、事は、そんな事ぐらいしか中味に興味が無くなったからです。

最終回への大いなる期待は、大いなる故に、大いに裏切られたのです。やっぱり、50分の八話は、長すぎました。2時間の単発であれば、もしくは、三話完結程度の方がヨカッタと思います。亀田クンの謎で引っ張り過ぎました。

原作は知りませんが、兎に角、NHK的に、無難な終わり方で、ヨカッタ!ヨカッタ!なのです。視聴対象は朋美の年齢層を中心に狙っているのでしょう。

このところNHKBSではドラマを乱発しています。衛星放送への加入を、受信料の増収を狙った、販売促進政策のようです。高齢者はほったらかしてもOKですが、“朋美年齢層”はテレビ離れが、かなり、かなり、なようです。

また、また、ツマランことを綴ってしまった。

兎に角、制作統括の“銭谷雅義さん”の、

『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』

の言葉に期待していたのですが、とても、とても、残念でした。“銭谷雅義さん”は経験が足りない?

でも、このシーンはヨカッタです。亀田クンを抱きしめ、背中を叩く仕草は、男としてではなく、息子に接する母の姿。


亀田クンも、朋美に母をみていた事に気付かされるのです。これまでは、それなりに女として見てみていたと、そう思い込んでいたのです。


今日は、何か、どうでもイイことを長くつづってしまった。

優太の話も、記憶に留めるため、それなりに考えたいと思います。

それでは、また。


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“だから荒野”⑬♪そ、そ、ソクラテスもプラトンも♪みんな悩んで大きくなった!

2015年03月06日 | テレビの話し
先日の続きです。

最終回『告白』です。

みんな、みんな、朋美も、優太も、山岡も、亀田も、告白するのです。

誰しもが、それぞれに、いろいろと、秘密を、知られたくない事を、いろいろ隠し持って、それなりの閉じ籠り方で、それぞれが悩み苦しみ背負い、生きているのです。

でも、本人してみれば、それは、それで、それなりに深刻なのですが、第三者からみると“えッ!そんなことで、そこまでやるの?”的な、偏屈、頑固、変人、そんな眼で見られたりするのです。

山岡は、妹の死を自分の責任として、生涯、結婚せず家庭を持たず、孤独に、罪を償い、戦後70有余年、悩み、苦しみ、背負い、生きてきたのです。

でも、しかし、山岡が結婚を考えた相手の兄から、結婚して家族を持つことは、それなりに苦労があり、独り孤独で暮らす方が、ずっと、ずっと、気が楽だと云われてしまうのです。この時、山岡が何処の町内にもいる、偏屈な爺さんに見えてしまいました。

それに対して、山岡は反応しませんでしたが、眉間に皺を寄せ深刻派の山岡は、心のなかで、きっと、かなり“ズッコケテ”いた筈。世の中、立場が変われば、見方も変わり、いろいろなのです。

“眉間皺寄せ派”で無い、私としては、70有余年、償い続け、背負い続ける、山岡先生の生き方は、それなりに、尊敬できるのですが、いくら何でも、結婚せず、家庭を持たず、楽しいことから、幸せなことから、自らを遠ざける、何て事は、何か、やはり、とても・・・・・・。

その反動として、時折、食欲が爆発して、チャーシュー麺に炒飯を食べ、こころの平衡を保っている?


そんな解釈ができるラーメン屋のランチシーンでした。このシーン、山岡と亀田の嬉しそうな顔、とても印象に残っているのです。

※チャーシュー麺も炒飯も味付けが濃そうで塩分も糖質も多すぎ、でも、しかし、チャーシュー麺はボリューム感が不足、中心部のモヤシとメンマに哀愁が漂い、そして、沈み込むチャーシューに“だから荒野的”な趣が。

それで、家族を持つ、結婚する、他人とひとつ屋根の下で暮らすことの大変さを、朋美と親友に語らせたシーンで朋美は

※46歳の京香さん魅力的に撮れています。
『・・・愛っていうか、寄り添う気持ち?みたいなものが、いつからか、どちらからか足りなくなっていたのか・・・』

そして、親友は、
※50歳のYOU、気怠感が、やつれ感に、くたびれ感に、変化してきました。

『男と暮らしていくのって楽じゃないよね、砂漠に花を咲かせるっていうかさ、面倒でも、毎日お水あげたり、今どんな感じなのかなって、様子見て、世話してあげたり、そういうのちゃんと、やっとかないと、愛って枯れちゃうんだよね』

まあ、相手へのいろいろな気遣い、意識しないで自然にできる人と、意識的にやらないとできない人が、居るような、居ないような。

そんなものかと、自らを省みつつ、それなりに思うのです。男と女、いろいろと、思い違いや、勘違いや、行き違い、すれ違い、そんな、こんなが面白い? 

まあ、男と女の関係は、大いなる誤解から生まれ、互いの誤解に気付いた時、終わりを向かえる、何て説も、それなりの真実?

でも、まあ、ドラマとは異なり、フツウの人の、フツウの関係は、深く考えたり、思い悩んだりは程々にして、それなりの妥協をして、知らないふり、気付かないふりをして、やり過ごし、どこかで折り合いを付けるのでは? 

あまり深く、追い求めたり、追い込んだり、何てことは、してはイケナイなのです。曖昧さを残し、謎を残し、関係を残し、保つのです。

まあ、兎に角、朋美も、優太も、山岡も、亀田も、心の荒野を、独りではなく、互いの関係のなかで、受け止め、立ち向かい、のり越え、克服して、大きくなっていく?

あの“火垂の墓”で“焼け跡派”の野坂昭如先生も、そのむかし『♪そ、そ、ソクラテスもプラトンも、みんな悩んで大きくなったッ!』と、楽しそうに唄っていました。これって、何かのコマソンだった?

兎に角、いろいろ思いを巡らしました。

まだ、もう少し、巡らしたいと思います。


それでは、また。


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“だから荒野”⑫告白!雨の中裸足で踊る“危ない朋美”に救われ感謝する二人

2015年03月04日 | テレビの話し
未だ、未だ、“だから荒野”のお話は続きます。

最終回は『告白』です。

順序立てて、ゆっくり、じっくり、ゆきたいと思います。時間はたっぷりあります。

先ずは朋美の告白です。

『・・・先生と亀田さんに初めてお会った時、先生に救われたような気がしました。私は、夫から逃げ・・・主婦という仕事から逃げて、家族から逃げて・・・、家を飛び出したのです、いえ・・・自分自身から逃げていたのかもしれません。自分の未来からも・・・。私、自分の道を見失っていたのです。そんな時、亀田さんが「僕たちは長崎に行きます」って言葉に、その時、お二人は、長崎は、私の道しるべになったんです・・・』

いろいろと、逃げて、逃げて、逃げては理解できるのですが、“未来からも”は、よく分かりません。46歳と云う年齢であれば、未だ、これから出直すことが、これまでとは違う、新しい、別な、未来を、と、飛び出したのでは?

でも、しかし、飛び出してみたのはいいが、現実は厳しく、未来はどっちらに?未来とは何?に、私はどうしたらいいの?状態で、自分の道を見失い、途方に暮れ、もう、面倒だから、こうなったら、未来からも逃げるか?と、そんな事ではと思うのです。

でも、しかし、それでは、ちょっと、このセリフでは、前後左右の辻褄が合わないような、そんな気がするのです。単なる気のせい?

あの時の、雨の中で踊るシーンからは、“開放感と未来への希望”が見て取れたのです。


あの時の朋美のこころは、過去から逃げ、未来から逃げ、自分の道を見失っていた?わたしには、どうしても、そうは見えませんでした。


オジサンとしては、あの時の、あの、朋美さんと云うか、京香さんは、とても、とても、ドラマのワンシーンとして、象徴的シーンとして、美しくて、艶やかで、魅力的に見えたのです。

そこに通り掛かった先生と亀田クン。そして『・・・「僕たちは長崎に行きます」って言葉に、その時、お二人は、長崎は、私の道しるべになったんです・・・』

“二人は、長崎は、道しるべ”とは、その直感に、イマイチ、説得力と云うか、必然性と云うかを感じないのでした。そこを、深く、しつこく、追求しては身も蓋も無い?それを云っちゃお終いよ?でも、暇なので、ほじくっちゃいます。

作者の“小説のネタ的なアイデア箱”に放り込んであった、三つ四つのメモ用紙の走り書き、「長崎原爆」、「語り部」、「引き籠もり」、「専業主婦の自立」を、それなりに、つなぎ合わせ、絡み合わせ、広げ、掘り下げ、編み出したのでしょう。

この作品、わたし的には見終わって、頭に浮かんだのは、やはり、“火垂の墓”と、そして、かなり古くなりますが、原作林芙美子、監督成瀬巳喜男、主演原節子の“めし”です。

まあ、それは、それで、先生も亀田クンも、雨の中で、裸足で踊る朋美を美しいと思い、救われたと云っているのです。

確かに、美しいシーンです。まあ、フツウは、雨の中で裸足で踊っていたら、いくら美しいご婦人でも、人は絶対に、間違い無く、“危ない人”と思い、なかには警察に通報する人も?

でも、でも、これはドラマなのです。そこで、こころに荒野を抱く者どうしが、出会い、互いに、救われ、感謝し合うのです。

何か、今日は、へそ曲がり的で、ツマランことを書いてしまった、と、幾分、反省気味で終わります。

言い訳します、本日は、いつも焼酎を飲むグラスを割ってしまい、新たにグラスを購入し、その感触を確かめるため、昼食に一杯ひっかけて、アルコールが染みこんだ状態で書いていたのです。

まあ、しらふでも、飲んでも、大して変わらないか・・・・・・。

以上。


それでは、また。

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“だから荒野”⑪孝吉少年の犯した罪!そして今も!これからも!いろいろな国で孝吉少年が・・・

2015年03月02日 | テレビの話し
最終回を観ました。

前日に録画予約していたのですが、当日は、リアルタイムで観てしまおうか?それとも、やっぱり次の日に観るか?と、迷ったりしたのです。何たって最終回ですから、いつもとは多少ことなるのです。

でも、しかし、夜の9時を過ぎると、観たい気持ちは少しずつ、少しずつ、薄らいで、10時には床に入って寝てました。

そして、本日の午前中に満を持して、再生ボタンを押したのです。一番気になったのは、何と云っても、“山岡孝吉の犯した罪”です。前回、プログに推測を書いてしまったので、それなりに、責任?と云うか、見栄?と云うか、大はずれしては、それなりに小っ恥ずかしい!なんて、思ってみたり・・・。

でも、ホント!反省しているのです。折角のドラマ、かなり損をした気持ちになりました。やはり、あんな事を云った為に、邪念が生じ、ドラマに素直に集中し、素直に感動する事を、かなり、かなり、邪魔されました。ホント!余計なことしてしまった。

それで、孝吉少年の罪ですが、食べ物ではなく“水”でした。水筒の水を自分が飲み干し、妹が、かか細く“お水・・・お水・・・お水・・・”と訴える声・・・、もう、ダメです。可哀想で、可哀想で、まともに見ていられません。

思い出してしまいました。あの“火垂の墓”です。妹が空になったドロップの缶に水を入れ、微かな甘みの残り香がを・・・。もう、ダメです!

幼い子供に、こんな、残酷な、残酷な、思いをさせるのは、絶対に、あってはならないのです。子供達に、まったく責任は無いのです。でも、いまでも、それが、あちこちでくり返されているのが、今の、この世界の現実。

でも、冷静になって考えなければ、と、そう思うのです。感情に訴えるのは、とても、とても、効果的なのですが、悲しいかな長続きしません。

戦争は悲惨で残酷です。でも、それに反対する事は、とても、とても、とても、難しいことです。反対できない状況がつくられてから、戦争になってから、ジタバタしても遅いのです、後の祭りです。

反対できない状況になってから、しばらくして、これは戦争になると、人は気付くのです。大多数の人は、それまで、まさか、まさか、そんなことにはと思っているのです。

で、いまは? わたしとしては、反対できない状況に、半歩踏み入れた、とても、とても、微妙なところに来ていると思うのです。多くの人は、それは、あなた、ちょっと考えすぎ、と、思うでしょう。

それと、戦争は、それなりに、時と場合によっては、やむを得ないと、戦争は、勇ましく、凛々しく、勇敢で、立派で、正しく、美しい、と、口には出さず、密かに思っている方が、案外、周りに、多く、いるのです。そして、いま、それなりに、発言をはじめているのです。

それで、“マッサン”ですが、戦争中て、鬼畜米英で、特高警察で、言論統制で、一平?に招集令状で、ドラマが展開していますが、見ていても、昔話には思えないのです。

そして昨日は、“小さいお家”も放送されました。あの頃は、みんな、戦争に、バンザイ、バンザイだったのです。

誰しもが、終戦間際まで、玉音放送を聞くまで、バンザイ、バンザイだったのです。

ホント! 元自民党の元幹事長の加藤紘一さんならまだしも、元自民党の元幹事長で、あの靖国神社元総代職で、日本遺族会の元会長の、古賀誠さんとか、同じく、自民党元幹事長の、野中広務さんとか、安倍政権は危険だと言い始めている、そんな異常事態なのです。

そして、天皇陛下も、皇后陛下も、皇太子も、過去の戦争に、平和憲法について言及し、現政権の、世相の、行く末の、危うさに対して、憲法上ギリギリの発言をされています。

そして、怖いのは、その言及部分をまったく無視するマスコミがあるのです。そう、その代表が“日本放送協会”です。でも、“だから荒野”は、そんな“日本放送協会”の番組でした、だから、未だ、いろいろあるのです。

で、まあ、そんな、こんな、いろいろあっても、やっぱり、いくらなんでも、それは無いと、考え過ぎだと、思っているのですよねェ、皆さん。

そうです!“だからこれは”やっぱり、私の考え過ぎで、未だ半歩踏み入れではなく、未だ、一歩前?半歩手前


それでは、また。



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“だから荒野”⑩亀田章吾クンの50円と80万円は継続のために必要な最低限度の経費と報酬でお駄賃なのだ

2015年02月27日 | テレビの話し
前回の続きです。

前回は、山岡孝吉の罪について、いろいろと憶測、推測を述べました。今度の日曜日が最終回で、そこで“山岡少年”の犯した罪もすべては明らかになります。

そして、謎を引っ張っていた亀田章吾クンのボランティア?も、それなりに、償い、赦され、認められるのでしょう。

それで、亀田章吾クンですが、前々回でしたか?、朋美に子供の頃、坂の上で暮らすお年寄りに、新鮮な魚を買って届けて喜ばれ、その度に“お駄賃として50円貰っていた”と、嬉しそうに話したのです。

そして、今回、亀田章吾クンがボランティアをしている、老婦人の甥が弁護士と現れ、“亀田が遺産を乗っ取ろうとしている!亀田は詐欺師だァ!これまでも、勝手に預金通帳から金を引き出している!”と、告げるのです。

亀田は金を引き出したことを認めます。そこで、朋美は、その金額を聞くと、驚く事に、何と去年一年間で“80万円”だったのです。

私が驚いたのは、それっぽっちで!と思ったからです。老婦人の“家の構え”から想像するに“はした金”だと、その程度で、弁護士を伴い、ケンカ腰で喚き散らすか?明らかに、甥が叔母の遺産を独り占めしたいとの、欲望が丸出しに描かれているのです。

亀田章吾クンにとって、年間80万円は最低限度の経費と報酬だと、小さな親切の、小さな必要悪で、お駄賃なのです。

そして、“山岡孝吉”も、そんな“お駄賃”を自分の通帳からも、勝手に引き出されていた事は知っていたのです。そして、それを許していたのです。

無料の善意だけの奉仕よりも、それなりに有料の方が、それなりに気遣いもなく、それなりに継続する。亀田と山岡との間で互いに暗黙の了解が成立しているのです。

もしも、奉仕を有料として、事前に、書面で契約書を交わし、毎月、毎月、請求書と領収書を交わす何てことは、人の温もりがなく味も素っ気もなく、善意も感謝もなくなるとのメッセージなのです。

“それを云っちゃ~、それをやっちゃ~、お終いよ的”なのです。とても、とても、寅さん的関係、それこそが、人の世の知恵なのだと・・・です。

作者の意図として、西洋的、キリスト教的、ユダヤ教的、契約社会、訴訟社会を否定している?かも?です。←これ、私の独断と偏見

もうひとつ、以前働いていた食堂の親方“泉谷しげる”に、朋美がお年寄りの為の、食事宅配サービスを始めたいと話した時のやりとりです。

親方泉谷は、
『それは誰のためのケータリングですか?』
『独り暮らしのお年寄りのために、少しでもお役にたてればと思って』
『それって、ボランティアってやつか?』
『いえ、それは・・・・・・』
『う~ん、そういうのって長続きしねえぞ~』
そして、
『ボランティア精神だけでもダメ。儲けばっかり考えてても駄目。難しいいんだよ、まあ、そこんとこよ~く考えてな』

魚を届けて50円、お年寄りのお世話をして80万円、そして、親方泉谷しげるに、商売としても、継続していく為にも、しっかりとした、それなりのやり方、それなりの心構え、云わせています。

一つのメッセージを、三つエピソードで、作者の意図を伝えているのです。と、云う、ことは、です。最終回で、孝吉の罪と償い、亀田の罪と償いは、それなりに絡んでくる筈ですが、でも、しかし、孝吉の罪は、とても、とても、重たい、原爆と妹の死ですから、どう絡ませるのか?

それと、朋美の、優太の、浩光の、罪と償いと、新しい人生の始まりに、どう絡ませるのか?

最終回では、これまでのすべてが、エンデイングに向かって、見事に、奇跡的に、一つのメッセージに集約されて、感動的な人間ドラマとして結実する・・・・・・そんな筈です。

まあ、兎に角、制作統括の“銭谷雅義さん”の、

『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』

の言葉に期待しています。


それでは、また。

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“だから荒野”⑨山岡少年の罪とは?妹は死んだのではなく!自分の行動で結果として殺してしまった!

2015年02月25日 | テレビの話し
前回の続きです。

それで、第七話のお話です。

サブタイトルが『悪魔と天使』です。

人のこころの内には、悪魔と天使が住んでいて、ときおり、ある場面で、悪魔にこころを支配され、いろいろな罪を犯す。

人はそれぞれに、生きていく上で、いろいろと大きな罪、小さな罪を犯し、それぞれに罪を背負い、くるしみ、さいなみ、つぐない、人生を送っている・・・・・・。

誠実とか、優しいとか、正直とか、真面目とか、自分自身に厳しい方は、一生その罪に向き合い、償い、生きていく・・・・・・。

それで、山岡少年の犯した罪です。


瓦礫のなかで、妹を見つけた山岡少年、


生きている!助けなければ!妹を背負い、荒野を彷徨い、


そして、でも、しかし、“何かが”あって、妹の小さな命の火は消えてしまった・・・・・・。


原爆の焼け野原で、少年のできることは限られています。あらゆる手を尽くした上での死であれば、罪の意識に嘖まれることは無かったと思うのです。

山岡少年の苦しみは、“ある場面”で、ある誤った行動の結果、妹を死なせてしまったと思うのです。その時、悪魔が山岡少年のこころを支配していた。

この山岡少年の姿、この食い縛る口元、これは原爆の被害に対してではなく、妹の死につながる、自分のとった罪深い行動への、怒りが、苦しみが、悔しさが、悲しさが、そうさせていた・・・、と思うのです。


山岡は平和祈念館で、毎日、毎日、写真と向き合い、少年の頃に犯した罪と向き合っていたのです。

ですから、山岡にとっての戦争は、被害者として、加害者として、二重に悲劇的で、とても、とても、罪深いのです。戦争とはそういう悲劇を必ず伴うのです。


と、云うのが、私の推測です。

それと、山岡少年の罪で思い出すのは野坂昭如の『火垂るの墓』です。戦争、焼け跡、兄と妹、そして、妹の死。

でも、『火垂るの墓』では、妹は栄養失調で亡くなるのですが、兄が妹の分まで食べて、妹を死なせたとの記憶はありません。

彼が、衆議院選挙で地元の新潟選挙区から立候補したときの、キャッチコピーが“飢えた親の顔を見たくない!”だったような記憶があります。

飢えた親は、子供の食べ物を奪い子を餓死させると、そう云う悲劇を戦争中に見て、そんな悲劇をくり返したくないと、そんな記憶があります。

もしかして、野坂少年は、無意識のうちに妹の分まで食べ、死なせてしまったと、そんなことが、あったのか?

『火垂るの墓』は自伝的な内容だそうで、野坂はそれ以来、いまでも、飢えて死んだ妹への償いとして、美食は避け、粗食で通し、常に腹一杯食べることをしない、と、何かで読んだ記憶があります。

私の、半世紀近い昔の記憶ですから、あてにならないかも?

でも、もしかして、山岡も?と、思ったのですが、山岡は第二話で、昼食にチャーシュー麺と炒飯を腹一杯食べているので、食料関連ではないと思いますが・・・・・・。

もしかして、危険な場面に遭遇し、一瞬、妹の存在を忘れ、無意識に、自分一人だけ、退避行動を起こし、結果として妹を殺してしまった?

山岡少年の、悪魔の囁きで犯した罪とは何だったのか? やはり、何らかのことで、自分を優先し、結果として妹は、死んだのではなく、殺してしまった・・・、そんな気がします。


次回、最終回ですべてが明らかになるのです。私の推測はどうなるか?


では、また。

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“だから荒野”⑧焼き場に立つ少年と山岡孝吉少年の犯した罪とは?

2015年02月23日 | テレビの話し
本日、第七話『悪魔と天使』を観ました。

この少年の写真、以前、何処かで見たことが・・・・・・・。と、思っていたのですが、思い出しました。

※写真は比較の為に左右を反転しました。

2008年8月7日に放送されたNHKスペシャル『解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI』のなかで採り上げられた写真でした。

タイトルは『焼き場に立つ少年』です。背中に背負っているのは息絶えた弟。食い縛る唇に血が滲んでいたそうです。火葬の順番を待つ、直立不動の姿勢が痛ましいです。


この写真から、桐野夏生さんは物語を着想したのかも?

安倍総理が、この写真を見て、きっと、『このような悲劇を再び起こさせない為に、だから積極的平和主義が必要』と、云う筈です。

平和の為の戦い、これまで言い古された戯言です。

ウクライナ、中東、アフリカ、アジア、今日も、この時間も、くり返されているのです。


悲し過ぎて、情け無くて、本日は、これで、お終い。
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“だから荒野”⑦収入が少なく優しく協力し合う家庭と収入が多く優しくなく協力も無くだから荒野の家庭

2015年02月22日 | テレビの話し
前回の続きです。

昨日、第六話「妻と夫」を見ました。

制作統括の“銭谷雅義さん”の、

『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』

この言葉があまりにも強烈であったが故に、期待が最大限に膨らみ過ぎ、見終わって、う~~ん、銭谷さんの“いままでの経験”に疑問を抱いたりしたのです。

でも、まだ、二話残っていますから、最後の最後に、これまでのストーリーで、気付かぬうちに仕込まれていた、いくつもの伏線が、一つに集約し、思いも寄らぬかたちで、思いも寄らぬ展開をみせ、経験したことのない、奇跡の瞬間を生み、深い人間ドラマとして、大きな感動を・・・・・・となる?

結論めいた推測を冒頭に述べてしまいました、これでは、今日は、これで終い!となってしまいます。“それじゃ~ダメじゃん!”と云う事で、気になったこと、引っ掛かったこと、そんなことから、思いを巡らしたいと思います。

久しぶりに大阪で再会するふたり、自分の都合だけを主張する浩光。朋美に“相変わらず最低”と云われ、“今までのようには生きていきたくない”と云われ、“大人になりなさいない”云われ。自立し始め、主張し始めた朋美に混乱する浩光。


そして、家に帰った浩光、“あなたの家は普通じゃない、親父がすごい冷たい、家で、あれほど何もしない人初めて見た”と、恋人の香奈から言われたと、気付き始め、主張し始めた長男健太に責められる。

そして、“香奈のうちは違う、共働きだからかも知れないが、家事を手伝ったり、みんなが協力して暮らしている、みんながみんな優しい”と、お母さんにも、優太にも、優しくしておけば・・・”と反省する健太。

妻からも、息子からも、夫として、父親として、失格と云われ、迷いつつも、いまだに責任は自分には無いと思っている浩光。

長男が出て行った後、“あいつもカモだな”と呟き、場面は次男優太のジオラマの中心に座る“カモ”に転換するのです。

朋美も、孝吉も、章吾も、みんなが見つめ、美しいと思い、呟き、涙する“ジオラマのカモ”は伏線なのです。

それで、です。優しく協力し会う家庭と、そうではない家庭と、その別れ道は、父親に問題あるのか、母親に問題があるのか、そのどちらにも問題があるのかです。そして、それは個人の資質に起因するのか、です。

“香奈のうちは共働きだからかも知れないが”と云わせていますが、この共働きが、かなり。かなり、大きいと思うのです。

協力しないと生きて行けない環境なのです。優しくしないと、理解し合わないと、協力は生まれないのです。生きて行けないのです。

衣食住を父親の収入だけで可能家庭では、協力しなくても、優しくなくても、理解し合わなくても、生きていけるのです。

父親として、養い、施し、保護していると、それなりに君臨してしまうのです。すべては一方的な上下関係として、専制君主として振る舞う、そんな“条件”が整ってしまうのです。でも、だからと云って、いまの世の中で、普通、そう振る舞う方は少数だと思います。

いまの世の中で、それなりの収入を得るには、それなりに、周りの状況を把握し、他人を理解し、他人の意見を聞き、調整しまとめていく力量が無ければ、それなりの地位、それなりの収入は得られないのです。

ですから、女好きで、ゴルフ好きで、薄っぺらで、バカっぽくて、でも、しかし、収入はある、そんな専制君主の浩光の存在に、リアリティが感じられないのです。設定として古すぎるのと思います。浩光は20世紀の父親像です。もしかして、桐野夏生さんのお父さんがモデル?

それなりに、朋美が疑問を抱き、不満を抱き、不安を抱き、家から逃亡する理由付けとしては、かなり荒っぽい設定だと思います。それと、朋美の責任が、料理下手しか描かれていないのは不自然です。

まあ、それは、それとして亀田章吾クンです。彼はこの物語の準主役のようで、毎回、ラストに、いろいろと謎らしき、伏線らしきシーンが描かれます。演じる役者さんは初めて見る方です。

純粋そうで、信頼できそうで、金には無頓着そうで、でも、そこには裏がありそうで、なさそうで、こころに傷があることは、間違いなさそうで、影が薄そうで、存在感のある、とても、いい役柄を、とても良く演じていると思います。

章吾の年齢から、親の世代が被爆2世で、彼は被爆3世でしょうか?そのことが、彼の心にいろいろ影響し、これからのストーリーに影響していくのかも?

本日、10時から第8話が放送されます。私は録画して明日の午後に観ると思います。

今度こそ大丈夫ですよね“銭谷雅義さん”


それでは、また。

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“だから荒野”⑥犯罪!贖罪!語り部は何を背負って何を語るの?

2015年02月20日 | テレビの話し
前回の続きです。

東京から九州の福岡を目指していた朋美が、いろいろあって長崎へ辿り着き、物語は展開していきます。

ふと、思ったのですが、高校時代の親友の滝川知佐子が福岡で美容院を経営し、高校時代の元彼は京都の医大へ進学し挫折し、長崎の老舗の陶器店に婿養子。朋美は東京郊外でマンション暮らし。

この三人は、いったい何処で高校時代を過ごしていたのか、ストーリーからはよく判らないのです。もしかして、見過ごしていた?それとも、ドラマのテーマとの絡んで、これから徐々に明らかに?それとも、ただ単に、必要性がないので触れないだけ?とか。

被爆地の長崎を舞台として、被爆をテーマとしてのドラマなのか、それとも、長崎は単に物語に、重さと厚さを加えるための、単なる背景なの?とか。

語り部の山岡孝吉の家に朋美が居候するのですが、80代の孝吉にとって、40代の朋美は若き人妻。同じ屋根の下で寝食をともに・・・、孝吉とて、こころに荒野だけを抱いている訳では無かろう、昼飯にチャーシュー麺に炒飯を平らげる老人なんだから、とか。

何て、横道的?枝葉末節的?下世話的な方面に思いを馳せたり、何となく、ドラマの展開に慣れたと云うか、飽きたというか、手の内が見えたと云うか・・・・・・。

そんな、こんなで、最初の頃は、面白い!面白い!と書きましたが、第四話あたりから、それとなく展開の謎が薄れ、結末が見えてきたようで、何となく面白みが薄れだし、15日放送の第六話は未だに観ていないのです。

それで、観てはイケナイ、イケナイと思い止まっていた、番組のホームページを先日、ちらっと覗いてしまったのです。

するとです、制作統括の“銭谷雅義さん”が、
『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』
と、胸を張って、声高く、興奮ぎみに語っているのです。

今までに経験したことがなくて、奇跡の瞬間で、誰も見たことのなくて、深い人間ドラマで、兎に角、何か、歴史に残るような、大変なドラマのようです。

これは大変なことだと、こころを引き締め、思いを新たに、これまでの見た第五話までに抱いた思いを、手短に綴り終え、先ずは第六話を早く見なければと思う次第。

と、云う事で、原爆の地、長崎を舞台にしたことは、それなりに理由があり、心のなかの荒野と、戦争に寄って、原爆の炸裂に寄って地上に出現した荒野。この二つの荒野を絡ませての展開のようです。

心の荒野を意識した人間が、そのむかし戦争で、原爆で、荒野となった長崎で、いろいろと、彷徨い、巡り会い、悩み合い、求め合い、結末は、未来に希望を抱きつつ感動的に幕は下りる?

戦争を語り継ぐ、原爆を被爆を語り継ぐ、ムズカシイテーマです。先日も、沖縄戦を語り継ぐ、ひめゆり部隊の元隊員で、最後の語り部が引退する話しが新聞に載っていました。

親が、兄弟が、友が、死んでいく、殺されていく、その現場に居て、自分だけが助かった、生き残ってしまった、そのこころの傷は、苦しみは、体験者でないと理解できないのです。

それで、家族を失い、自分一人生き残った事への、償いとして、責任として、使命として、こころに荒野を抱え、荒野と向き合って、荒野を受けとめて、被爆の悲惨さを語り継ぐ“山岡孝吉”

訪れる人の少ない平和祈念館で、じっとイスに座り待ち続ける姿。偶に訪れる人達も、山岡の話は無視され、それでも語り続ける姿に、朋美の息子はこころを動かされるのです。でも、そう、簡単に、都合よくは・・・・・・とも、思ったりしました。、

それと、どうも、何か、一般論的に、抽象論的に、普遍的に、戦争の悲劇を悲惨さを、語っていくことの、歯がゆさと云うか、虚しさと云うか・・・、誰が、何で、どうして、ここに原爆を投下し、非戦闘員を虐殺した戦争犯罪だと・・・。

何て、思ったり、するのですが、それでは、敵を憎むとか、報復の連鎖とか、暴力に暴力で対抗する愚かさとか、いろいろムズカシクなるのです。

でも、しかし、戦争を、原爆を、人類が背負った罪として、贖罪として、何て、ことでは、何も解決しないと、思ったりするのです。

戦争は政治であり、経済であり、人間の仕業であり、かなり、かなり、泥臭い、銭金の絡む問題だと・・・・・・。

でも、原爆の、あまりの凄まじさ、惨たらしさが、敵とか、味方とか、そんなレベルを超えてしまったのかと・・・・・・。

話しが、おおきくなってしまいました。兎に角、だから荒野で、見方、考え方は、人それぞれなので・・・・・・。

人間、つらい事、悲しいこと、不安なこと、思いどおりにいかないこと、そんなことばかり、の、ようでもあり、面白く可笑しくもなく単調、の、ようでもでもあり、ただ云えることは、楽しいことはほんの少しだけ・・・・・・。

毎日が、楽しくて、楽しくては、そのうち単調になり、面白くも可笑しくもなくなるです。楽しくない時が続くことで、楽しいと思える時が現れる?

長崎の地で、朋美さんも、孝吉さんも、、章吾クンも、優太クンもそれぞれ、これから、いろいろと、絡み合って、
『経験したことのない奇跡が起こり、深い人間ドラマ』
が生まれる、そうなので、“銭谷雅義さん”期待しています。

それでは、第六話をこれから鑑賞します。


それでは、また。


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“だから荒野”⑤引き籠もる優太!逃げ出した朋美!そして優太も逃げ出し!二人は一緒に長崎の人に!

2015年02月18日 | テレビの話し
前回の続きです。

今日も寒い、冷たい小雨が降っています。それでも朝食後、それでも、いつものように45分歩いて来ました。朝は糖質を摂取するので食後高血糖対策は怠れ無いのです。昼頃から雪になるとの予報が出ています。

それで、だから荒野ですが、次男の高校生“優太クン”です。ドラマではよくある設定の“引き籠もり”なのです。

やっぱり、それなりに“引き籠もり”は社会問題なのでしょう。優太クンは学校で“いじめ”られているようです。どちらかと云うと、精神的なイジメのようで、いわゆる“無視”と云うやつのようで、それらから逃れるために引き籠りのようです。

心配する朋美に対して、『うるさい!ババァ死ね!』何て、お決まりの罵詈雑言を浴びせたりしているのです。まあ、彼としては、周りは荒れ果てた荒野なのでしょう。

でも、しかし、うるさいババァは自分を置いて家を出て行ってしまい、置いて行かれたと云うか、取り残されたと云うか、捨てられたと云うか、自分にもその責任の一端はあると云うか、いろいろ考え始めるのでした。

虐めは昔も“よくある”ことでした。いじめッ子、いじめられッ子も居ました。でも、しかし、引き籠もりは聴いた事はありませんでした。

昔と比べて、今の虐めは、肉体的な虐めより、陰湿な精神的な虐めが多い印象を受けます。こころの傷は、身体的な傷よりも、長く深く重く人を痛めつけます。

それで、昔は、家族も多く、兄弟も多く、経済的に貧しく、家庭内でも生存競争があったのです。食事にしても、それなりに積極的にならないと、エネルギー摂取もままならなかったのでした。

昔は、堪えるか、気にしないか、反撃に出るか、それなりに状況を打開するために、悪化させないために、闘ったのです。そうしなければ生きて行けなかったのでした。

今の世の中、それなりに、経済的には向上し、エネルギー摂取での争いは起きないのです。そのほかの生活環境も、黙っていても、それなりに与えられて育つのです。

すべてが、黙って居ても、何もしなくても、他者から与えられる環境なのです。自らが積極的に行動しなくても、それなりに生きて行ける環境なのです。

自分の置かれた環境を、自分の意志と力で変化させる必要もなく、訓練の機会もなく、泳ぎ方を知らないまま、社会の荒波に放り出され、驚き、もがき、苦しみ、不安を抱きつつ、敗北感を抱きつつ、自分の世界に閉じ籠もる・・・・・・そんな気がするのです。

で、一応、念の為、云って起きますが、私はどちらかと云えば、子供の頃、いじめっ子の部類でしたので、いじめられっ子の気持ちには疎いかも知れません。

それで、だから荒野で、優太ですが、優太のブログに母からのコメントが入り、母の家出の一端の責任を、母への甘えを、母の優しさを、そして、そして、互いに逃げ出した者として、いろいろな思いが募りつつ、家を出て母の居る長崎に向かうのです。

今日は、この辺でお終い。

久しぶりの連続更新です。

窓の外は、予報が外れた?ようで、雪ではなく雨が降ってます。

それでは、また。


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