歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

志村坂下・蓮根町 ⑫ ガラスは割れ!鉄扉は赤錆!夢まぼろしの町工場の前はモダンな外観の富士ゼロックスでした!

2017年03月09日 | 東京の風景

未だ、まだ、マ~ダ、志村坂下、蓮根町辺りを彷徨い歩いています。

今では暗渠となってしまった「どぶ川」を辿り、生まれ故郷の、面影と痕跡を探し求めて・・・。

 

この「元どぶ川」の暗渠の上に作られた緑道、そして、方向的に、距離的に、この場所辺りに「花林糖工場」があった気がするのです。

家から、坂下方面に向かい、城北公園を抜けて、二・三百メートル歩き、どぶ川を渡った右側にその工場がありました。写真では左側のマンションが建っているあたりです。

兎に角、この辺りには、零細工場的と云うか、町工場的と云うか、そんな中小零細企業の工場が建ち並んでいたのです。そんな工場の間を縫ってどぶ川が流れていました。

暫く佇み、当時の工場の姿を想い浮かべつつ、マンショの方向を見つめていると、川面には得体の知れない油が流れ、得体の知れないニオイを漂わす、そんな風景が蘇ってくるのです。

それにしても、どぶ川も、お洒落に変身しました。あの頃のニオイはまったくしません。

 

そんな想いを抱きつつ歩いていると、驚きの光景が出現。

まさに、まさに、これこそ、あの頃です。

夢幻の風景と云っては大袈裟ですが、夢のワンシーンに登場しそうです。

スレートの外壁、割れたガラス窓、ガラスに針金が・・・。

赤錆びた鉄板の扉。残念なのはフェンスが、とても、とても、新しいのです。

この工場の佇まいから、母が一時、近所の主婦仲間と連れだって働いてた、町工場を思い出しました。そこで母達は、ミカン箱と云うか、リンゴ箱と云うか、そんな木箱の解体をしていたのです。短期間だったと思います。

「株式会社 高垣商店」さんのお蔭です。それにしても、高垣さんは、何を商っていた?いる?のでしょうか? 入り口の門柱と鉄の扉は、それなりに最近の塗装とお見受けしました。

道路を渡り、暫し、高垣商店の全景を見つめてしまいました。

そして、遠~い、遠~い、昔の、想い出の世界に誘われた風景の真ん前には、何と、何と、真逆の、現実の世界に引き戻す、あの富士ゼロックスのサービスセンターの姿。

時代は変わって、こんな大企業がです、どぶ川が消え暗渠となり、町工場が消えマンションが建つ、そんな志村坂下なのでした。

そして、向かいには大企業を睨んで建つ、中小零細企業の味方?日本共産党の板橋地区委員会?の事務所です。板橋区は土地柄?革新系?が強いのです。

東京の外れ、板橋区の外れ、志村坂下には、いろいろと、ゴチャゴチャと、あるのです。 

こんな、何でもない風景がイイです。

こちらの櫻は、私が生まれる前から、ずっと、ずっと、ここで花を咲かせていたように思います。

  

こちらの、何でもない風景もイイです。

志村坂下を彷徨っていますが、そろそろお昼の時間になりました。

昼はそば屋に入りたいと思い、ウロキョロとそば屋を探しつつ、ある神社を目指します。

この先は次回とします。

それでは、また。

そうでした、記録的な意味で、書き記すのですが、3月1日、朝のウォーキングで「つくし」を発見。そして、その2日後に「ウグイス」の鳴き声を聞きました。

春が来たので~~~す!

そして、明日は早めの、お彼岸の墓参りを予定しています。

もうすぐ、櫻の開花、お花見です。

では、また。 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑪ 懐かしの“青星ソース”は“ユニオンソース”から“おたふくソース”へ

2017年03月02日 | 東京の風景

前回の続きです。

志村坂下から蓮根町を彷徨っています。

坂下にあったヘビ屋と三木屋の探索を諦め、中山道を戸田橋方向に引き返します。

懐かしいあの頃の匂いを漂わす風景です。

木造モルタル二階建てのアパートです。外壁がモルタル塗りでなく板張りであったら、私が住んでいた“引き揚げ者住宅”に似ています。

アパートと云えば「UR」です。この辺には、UR物件が、あちら、こちらに散らばっています。

ホンダの2輪専門の販売店です。その昔は2輪車で、少し昔は4輪車の販売店で、そして、今は二輪車販売に祖先帰り、都内で車が無くても暮らしに不便は感じません。地方では車は必要不可欠、一家に2台、3台はあたりまえです。幼い頃には考えられない変化です。

あの頃は、車を所有するのは“お大尽”だけでした。でも、しかし、我が家にはいつも車があったのです。父が車の修理屋をしていたので、商売モノを乗り回していたのです。その頃、私は「車屋のしんちゃん」何て、呼ばれたりしていたのです。

中山道から裏通りに入ります。モルタル二階建てに惹かれます。

 モルタル二階建ての民家、以前は食べ物屋を商っていたようです。所謂、仕舞た屋。

有りました!これです!この風景が、あの頃です。

この屋根の上に、もう一つ屋根が、こんなのがあったのです。

この排気筒も、とても、とても、むかしなのです。

我が引き揚げ者住宅の向かいにあった城北公園のその先は、こんな感じの町工場(まちこうば)が点在していました。町工場好きは幼き頃に刷り込まれたのでした。

そう、工場(こうば)で思い出しました、それは「こうば」と云うよりも、「こうじょう」的規模のソース会社の「製造所」があったのです。脇を通るとソースのイイ匂いがしました。

名前が思い出せないのですが、ネットで調べたら有りました! 「青星ソース」です。「1957年(昭和32年)には板橋区坂下2丁目9番7号に板橋工場を建設」とありました。

そうです!「青星ソース」でした、思い出しました。

  • 1949年(昭和24年)12月:青星ソース株式会社として台東区で創業。
  • 1957年(昭和32年)3月:板橋工場完成を機に、本社・工場を板橋区に移転。
  • 1968年(昭和43年)3月1日:大町ソース株式会社ら2社と合併し、青星大町ソース株式会社に社名を変更。
  • 1969年(昭和44年):ユニオン食品株式会社ら8社と合併し、現社名ユニオンソース株式会社に変更。
  • 1970年(昭和45年):京塚昌子を起用し、スポットでCMを流す。
  • 1991年12月:今市市(現日光市)にマヨネーズとケチャップの製造工場完成。
  • 2005年(平成17年)
    • 1月:本社を現在地に移転。生産拠点を日光工場へ集約し、ソース専用工場棟完成。板橋工場閉鎖。
    • 4月:オタフクソース株式会社と業務資本提携。
  • 2006年(平成18年):オタフクソースがユニオンソース特級ウスター・中濃・とんかつソースを発売[9]
  • 2009年(平成21年)10月1日:持ち株会社化に伴い「お多福グループ」の子会社となる[10]
  • 2010年(平成22年)9月期:業務用ウスターソースなどの生産がをオタフクソースから当社へ移管[11]
  • 2012年(平成24年):本社を日光工場内に移転。営業部はオタフク東京本部に移転。

 ※wikipedia調べ

1957年に板橋工場が操業開始したのですから、私が7歳の頃です、私が匂いを嗅いだころは、まだ、できたてのホヤホヤだったのです。

私にとっては、遠い、遠い、そのむかしの、懐かしのソース工場は、現役バリバリで今も活躍しているのでした。

それにしても、青星ソースは、私の知らないところで、波瀾万丈の道を辿っていたようです。通産省の行政指導による業界再編ですか? 

それにしてもソース業界は大変な業界なの? 青星ソースは、企業として、それなりの“リソース”を持っていたので、現在まで生き延びたのでしょう。 

ユニオンソースでは、ソースに、マヨネーズに、ケチャップに、焼き肉のタレも作っているようです。

今度、スーパーに行ったら、ユニオンソースの製品を探してみたいと思います。あったら必ず買い求めたいと思います。

60年前には匂いを嗅いだだけなので、しっかりと味を確認したいと思います。

フライにソース、メンチも、コロッケも、トンカツも、ハムカツも、クジラカツも、レバカツも、イカフライも、ポテトフライも、ウィンナーフライも、とんかつソースをいっぱいかけて食べるのは、最高に!大好き!で~~~す!

と、云う事で、本日は青星ソースでした。

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑩ 蓮根川緑地からマムシのヘビ屋と餅菓子屋の三木屋を探し求めて歩きます

2017年02月28日 | 東京の風景

前回の続きです。

氷川神社の先、幼き日の面影を痕跡を探し求めて、どぶ川を覆った?緑地帯を辿り、中山道に出ました。

この「中山道」と云うと、必ず頭に浮かぶのが「1日中山道・・・いちにちじゅうやまみち」のフレーズです。

フジテレビの女性アナウンサーが、原稿に「旧中山道」と書いてあったのを「1日じゅう山道」と読んでしまったのです。

たぶん、フジサンケイグループの御曹司と結婚された方と記憶しています。読み間違いの最高傑作だと思います。

それは、さておき、話しは戻して、中山道に架かる歩道橋を渡ります。昔は、ここを都電が走っていたのです。お祖母ちゃんと二人で、都電に乗って巣鴨のお地蔵さんに行った記憶があります。

都電と云えば花電車です。たぶん、都民の日にだったか走っていた記憶があります。「見るだけで“人は乗せない”花電車」何て、“別口”もあります。

まあ、判るヒトは分かり、判らないヒトには判らないお話。過去の事と思っていたら、いまでも、現役のようです。

話しが、それとなく、卑猥系男性向け大衆娯楽に逸れてしまいました。先ほどより逸れっぱなしで失礼しました。

兎に角、高島通りが中山道に突き当たった辺りに都電の停留所がありました。その先、埼玉方向、一つか、二つ先の停留所が終点だったような気がします。

歩道橋を渡った先にも、どぶ川の痕跡がありました。

 こちら側にも緑地帯が続いているのです。帰宅して調べたら、この先で隅田川に流れ込んでいました。

緑地帯の入り口の看板には、板橋区立蓮根川緑地と記されていました。これまで、どぶ川、ドブガワと呼んでいたのですが、「蓮根川」と云う正式な名称があったのです。

そろそろ蓮根川を後にして、高島通りと交わる地点で横断歩道を渡ります。

中山道を巣鴨・坂下方面に向かいます。目指すのは、懐かしい「ヘビ屋」と「和菓子屋」です。

ヘビ屋は、まさしく「蛇」を売っていたのです。そして、想い出とは、ヘビ屋に「まむし」を持ち込み500円で買ってもらった事があるのです。

このマムシは、現在、「大東文化大学」の少し先にあった、「ドングリ山」に近所の悪ガキと連れだって遠征した時に捕まえたのです。

その中に、苗字が前島で、あだ名が「土手カボチャ・・・頭の形から」と云う2~3歳年上の子がいて、彼の指揮の下で捕獲したのですが、マムシ捕獲を目的としての遠征だったのか、たまたま発見して捕獲したのかは思い出せません。

前島君は、いろいろ知っていて、それなりにマムシの危険性も、捕獲方法も知っている様子でした。でも、今考えたら、捕獲したマムシを「袋」に入れてヘビ屋に持って行ったのですから、予め袋を容易していた? やはり、捕獲目的の遠征だったのでしょう。

500円は2~3人で分けたと思います、でも何に使ったのかは覚えていません。一ヶ月のお小遣いが300円ぐらいだった頃ですから、それなりに使い道があった筈です。

いま、書いていて思い出しました。ヘビ屋のオジサンが持って行ったマムシをカゴに入れるとき、ヘビの頭を持って口を開き、牙にハサミを押し当て毒液を出して見せたのです。

そして、『前達、もしも噛まれたら、この毒で死んでいたぞ』と、ヘビ屋のオジサンに警告を受けたのでした。それなりに危険なことは知っていたのですが、マムシを眼の前にしての警告は効き目がありました。

それで、捕獲場所からヘビ屋までは歩いて1時間ほどの距離です。坂を下った辺りにあり、まさに坂下でした。ヘビ屋は十数年前に車で通り掛かった時には現役でした。

中山道の坂下辺りをキョロキョロしながら歩いたのですが、結局、ヘビ屋も和菓子屋もありませんでした。和菓子屋は“三木屋”と云う店で、酒が飲めない甘党のオヤジが時々おみやげで買って来てくれたのです。

和菓子と云うか、餅菓子と云うか、きんつば、あんこ玉、だんご、大福、鹿の子、スアマ、吹雪、そして、シベリアも、いろいろ思い出します。

残念ながら、いまは、もう、食べられないのです。食後高血糖なのです。

そうでした、土手カボチャの前島君は、数年前、風の便りで、亡くなったと聞きました。

今日は、これまで。

坂下、志村、蓮根歩きは未だ続きそうです。

 

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町⑨ 神社の先を母に手を取られ歩いた想い出のどぶ川沿いの小道!そしてグリコ・アーモンドキャラメルの悔しい!記憶

2017年02月22日 | 東京の風景

ほぼ2週間ぶりの再開です。

我が“生まれ故郷”の蓮根町を歩くお話は未だ続きます。

本日も“どぶ川”を探し求めて彷徨います。

幼い頃に、母に手を取られ買い物に行ったあの頃の記憶、“マーケット”への往き帰りの道を辿ってみたいと思います。当時、マーケットは最新の“集合式小売店”だったのです。

その道は、神社の先を橋の袂で左に入り、マーケットのある中山道に出る近道だったのです。

記憶の糸を手繰り寄せ、神社を目指して歩いて居ると、それと覚しき神社を発見しました。位置的にも間違いなく、昨日今日に神社ができる訳が無いので、60数年前に買い物の往き帰り、前を通った神社です。

小さな本殿? この境内で遊んだ記憶はありません。お詣りや、縁日と云った記憶もありません。只だ前を通り過ぎていたのだと思います。

隣の小さな祠は真っ赤?朱色?の鳥居や幟が賑やかに並んでいました。

 脇に眼を移すと稲荷氷川神社の社務所では、「長後町」の新年会が開かれていました。「長後」と云う町名は今は無くなりました。それでも、町会は長後町を名告っているのです、断固町会名を変えないのです。

新しい町名の「坂下」には納得できないのです。坂は、ずっと、ずっと、ずっと彼方ですから、ここが坂下の訳が無いのです。坂上があって坂下があり、下と云うのも何となく面白くない?

 ピカピカ黒塗りの乗用車、車内には運転手が居ます。新年会に出席している「お偉いさん」の車でしょう。区長か?それとも地元の都議会議員?でしょうか、区議会議員では乗れない車です。もしかして、地元の衆議院議員かも知れません。

さて、神社が見つかりましたから、どぶ川はこの直ぐ先にある筈です。

 ありました、どぶ川の痕跡を残す緑地帯です。

 間違いありません。ここに川が流れていて、川沿いに細い道があったのです。片手に買い物カゴを下げ、もう片方の手で私の手を握りしめ、マーケットに買い物に行ったのです。この緩やかなカーブがとても懐かしい。

 それで、こうして想い出を探して歩きまわっていると、自分の姿は視界から消え、現実感が消えていくのです。

夢でも自分の姿は見えません。夢を見ている錯覚を覚えるのです。

そして、後年、確かに見た、どぶ川沿いの道を母と歩いて居る、幼い頃の夢の記憶、そして現実の記憶、そして、目の前にする過去の痕跡の残る風景、夢と現実と妄想が混ざり合い、ここち良い混乱なのです。

 中山道が見えてきました。

この辺りはアスファルトに覆われています。この下に、今でも、きっと、あの頃の川が流れているのです。

中山道に出たら、左に曲がり、少し行った処にマーケットはありました。

昔のマーケットの面影を残していると云うか、そう思うと、そのように見えてくる建物を発見しました。

こんな感じでした。見ている内に、この建物に間違いないと思えてきました。マーケットの名前は「飯田百貨店」だったような気がします。

百貨店と云っても、記憶しているのは「お菓子屋さん」だけです。その頃のお菓子は量り売りでした。それで、私の食い物に卑しい性格上、食い物の記憶は、かなり過去に溯ってハッキリとシッカリと、心に刻まれているのです。

それは、それは、とても、とても、とても、悔しい記憶なのです。それは、当時新発売された “グリコアーモンドキャラメル”の記憶です。

当時、アーモンドキャラメルのキャッチコピーが、『一粒で二度美味しい』だったのです。

幼心で考えました。一粒で二度美味しいとは、一粒が倍の二粒分の美味しさと云う事で、一粒で二粒食べた事と同じと考えたのです。それは、一粒が倍になると考えたのです。

これは凄い!と思い、母にねだって飯田百貨店で買って貰いました。そして、帰り道、一粒を口に入れたところ、味は一粒分で、二度も美味しくなく、一粒が二粒にもなりませんでした。

幼心は混乱したのです。瞞されたと思いました。悲しかったです。『一粒で二度美味しい』のキャッチコピーは残酷でした。そんなわたしを見て、母も悲しそうな表情をしていました。

この話しも、夢と現実と妄想が、かなり混じり合ってしまった?かも知れません。

兎に角、夢と、現実と、妄想と、いろいろ混じり合った、ここち良い混乱の旅は未だ続きます。

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町⑧ どぶ川の痕跡を探し求めて緑地帯に!暗渠の下に!懐かしのあの頃に!想いを馳せます!

2017年02月09日 | 東京の風景

前回の続きです。

志村第6小学校を後にして高島通りを越えて渡辺製菓の裏に向かいます。そこには、あのころ“小川”と云うか、生活排水が流れ込む、周囲に雑草が茂る、ほぼ“どぶ川”が流れていました。

“どぶ川”は深さがオヘソ位で、幅が2メートル弱位だったような?渡辺製菓の灰色のコンクリート塀に沿って流れていました。周囲は原っぱと、田圃と、畑だった気がします。

どぶ川で、ザリガニ(アメリカザリガニ・またの名を真っ赤チン)とか、ドジョウとか、鮒を釣って遊んでいました。

一番記憶に残っているのは、近くの原っぱに捨てられていた「畳」を浮かべて遊んだ事です。畳の筏は直ぐに沈没し、半ズボンもパンツもビショビショなりました。

季節は夏で、隣の部屋に住んで居た二つ歳上の“ひとしちゃん”と一緒だったと?半ズボンだけを脱いで、暫く乾かし、生乾き状態で家に帰った記憶があります。

その時の帰り道で、お蕎麦屋さんの前に置かれた真っ赤なシロップを飲んだ記憶があります。シロップは下に蛇口が付いた、直径・高さが30㎝位の鉄製の寸胴に入っていました。

何故か、食い物に纏わる記憶は、いつまでも、いつまでも、ハッキリとシッカリと記憶に刻まれるのです。とても、とても、食い物には卑しい性格なのです。まあ、兎に角、食料事情の悪い時代でしたからね。いや、もしかして!我が家だけが食糧難だった?

このシロップは、お祭りの時に神輿や山車が休憩するポイントに置かれ、子供達に無料でふるまわれた残りです。残り物でしたが、まだ冷たくて、甘くて、美味しくて、当時の私にとっては、とても御馳走でした。

渡辺のジュースの素といい、真っ赤なシロップといい、人工着色料、人工甘味料が全盛の頃です。そう云えば、ミドリ色をしたメロン味の“イムラヤのソーダの素”何てモノも売れていました。

それで、“どぶ川”の痕跡を探し求めて、高層マンション群の間を縫って辿り着いたのがこの風景。左を見ると緑地帯、

右を見ても、この緑地帯、

このくねくね曲がった緑地帯は、間違いなく、あのどぶ川の跡です。間違いありません。たぶん暗渠になっているのです。この下に、あの畳を浮かべて沈没し、パンツを濡らした、あの想い出の、懐かしいどぶ川が流れているのです。

「みどりの広場」は板橋区が無償で借りているようです。借り上げ期間が終了したら返還されることもあるようです。

“コーシャハイム”に隣接する土地ですから、住宅供給公社が所有者だと思います。公社と板橋区はお友達関係ですから、借り上げ期間は不明ですが、期間終了時には当然更新されるのでしょう。

それにしても、小川と云うか、昔し農業用水路だっと云うか、生活排水路と云うか、どぶ川と云うか、この辺りにはいろいろな流が、あっちコッチにあったのです。

次回も、 どぶ川に纏わるお話です。

それでは、また。

 

 

 

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志村坂下・蓮根町⑦ 志村第六小学校では表と裏が逆になり!お豆腐屋さんでは油を10円分買ったのでした! 

2017年02月06日 | 東京の風景

前回の続きです。

それで、城北公園の隣にある「志村第6小学校」なのです。

校門の表札?の「板橋区立」の文字はほぼ消えていますが、まだまだしっかり現役なのでした。この小学校には3年生?~4年生?頃まで在籍し、引っ越しのため転校。

ところで、引っ越し、転校した先の、北区の「北園小学校」も、「北中」も、いまでは廃校となっています。どちらも団地の中の学校で、あのころは1クラスに生徒が50数人も居たのに、ホントに少子化です。

でも、しかし、ここ志村第六小学校は少子化のなか現役で頑張っているのです。

ちょっと調べて見たところ、現在の生徒数は715人で、1年~5年までは3組み、6年生だけが4組まであり、1クラスは30数名なのでした。ホント!少子化なのです。

それと、創立は昭和23年でした。私は25年生まれですから、ほぼ同じような歳月を辿っているのです。ちらっと校歌をみたのですが、まったく記憶にありません。

沿革をみたら、校歌の制定は昭和34年となっていました。これって私の在籍中には、ギリギリで校歌は無かったと云うこと? 入学式でも、卒業式でも、運動会でも、校歌斉唱は無かった? 私に記憶が無いと云うことは、これが原因だった?

でも、まあ、中学の校歌も、高校の校歌も、まったく記憶には残っていません。たぶん、斉唱のときは、他のことを考え「口パク」だった、と、思うのです。わたくし、何を隠そう、ハッキリ云って、歌はへたっぴで、音楽は大嫌いで、通信簿は、ずっと、ずっと「2」でした。

そう云えば、中学3年のとき一度だけ「3」になったことがあるのです。高校受験で内申書に「2」があっては拙いと、お情けで「3」を頂いたのでした。 

それで、志村第6小学校ですが、私が居た頃は公園側が正門でしたが、いまは、どう見ても裏門のようです。公園側から広い校庭が見渡せたのですが、いまでは校舎が視界を遮っています。

学校の東側約100メートル先には都営三田線の蓮根町駅があるのです。ホント!信じられないのです。昔は原っぱだった!あんな処にです!電車の駅ができてしまったのですよ!まさに!まさに!これぞ正しく隔世の感!なのです。

ホント!城北公園も、人工芝に夜間照明灯ですよ。この日は、何かのイベントとで子供達にお餅が配られていました。

 照明灯の下、白い建物が志村3中の校舎だと思います。

 こちらの場所には昔、テニスコートがありました。たぶん3中のだったと思います。

今考えると、テニス等と云うスポーツ、私の生活実態とは、遠く、遠く、かけ離れていたスポーツでした。

あの頃は、みんな、みんな、貧乏でした。まわりが全部貧乏だと云う事は、とても、とても、有り難いことです。そもそも豊かな生活など、見たことも、聞いたことも、無かったのです。

ですから、今思うと貧乏だったと云えるのであって、あの頃は、家が貧しい等と、まったくもって、考えてもいなかったのです。

あの頃、母に頼まれて夕食に使う油を、お豆腐屋さんに買いに行ったことを思い出します。10円玉を握りしめ走ってお豆腐屋さんに行き、明るく元気に「油10円分下さい!と叫んだ記憶が残っています。

お豆腐屋のお兄さんも考え込みながら、油を量っていたことを何故か鮮明に覚えているのです。油を10円分だけなんて買う人はいません。

お兄さんとは時々消防署の前で、キャッチボールをする仲でした。今思い出すと何故か「森進一」のような雰囲気の人だった?そんな気がしてきました。

本日の想い出探しは、第6小学校とお豆腐屋さんでお終い。

次回は渡辺製菓裏の“どぶ川”と、神社の脇の“どぶ川”を探します。

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑥ 幼き頃の夢か?幻か?それとも事実か?驚き!不思議?公園にいっぱい観光バスが!そして包帯と脱脂めんのイワツキまで!

2017年02月03日 | 東京の風景

前回の続きです。

生まれた木造二階建ての「引き揚げ者住宅」は、建て替えられ鉄筋コンクリートの4階建てに変わったのです。建て替えで引っ越したのが小学校3~4年?でしたから、いまから50数年前の事です。

そして、いま、建て替えられたアパートは解体され、また新たに建て替え工事が始まろうとしているのです。それにしても、鉄筋コンクリートも50数年の寿命ですか?そういう私も、そろそろ寿命?

着工予定が平成28年6月1日となってます。いまは平成29年ですから半年以上も遅れているの?それとも解体工事の開始が着工?

それにしても、施工者の欄には未定とあります。と云う事はやっぱり着工は遅れているの?何だかよく判りません。

それにしても、地名が坂下2丁目となっていました。私が居た頃は蓮根町でした。坂下はもっと、もっと遠くで、ホントに坂の下の近辺だけが、坂下と云う町名でした。

それにしても、建築主は、あの“舛添要一”と書かれているのには、世の移ろいを感じるのであります。今頃はあのお方、何処で、何を考え、何をしているのでしょうか?築地市場移転問題で百条委員会に呼ばれたりするかも?

まあ兎に角、生まれた木造アパートは影も形も在りません。それと、“引き揚げ者住宅”とこれまで書いてきましたが、これは父から聞いた話しで確証はありません。それと、我が家族は引き揚げ者でもありません。何か、区議会議員の口利きで入居したように聞いています。

まあ、それは、それとして、家の目の前は広い公園だったのです。ホントのところは公園と云うよりも、単なる広場?と云うか、野球場だったような?

広場には対角線上にバックネットが2面あっただけで、後は何も無い空き地のような公園でした。城北公園となっていますが、あの頃そんな名前で呼んでいたな?いなかったような?まあ、あまりハッキリとした記憶はありません。

今もあの頃と同じようにバックネットが2面あり、公園と云うよりも野球場です。野球で、何故か突然記憶が蘇ったのです!ここで大人が野球をしているのを、私はよくボンヤリ見ていたのです。

そして、その野球チームの名前を思い出したのです。ユニホームの胸に「イワツキ」とありました。志村坂上にあった包帯とか脱脂綿の会社だった記憶が蘇ってきました。いまネットで調べたら今もイワツキは志村坂上にありました。

何故、イワツキとか包帯とか脱脂めんとか覚えていたのか?たぶん、当時、ユニホームなど着ているチームが珍しかったので、イワツキの名前が幼いこころに記憶されたのかも?それにしても会社の業務内容までどうして?

それは、たぶん、イワツキの工場がある志村坂上には、悪ガキ達と連れだって時々“遠征”していたのです。そのときに見た工場の煙突に「岩月・包帯・脱脂めん」と描かれていた記憶がうっすらとあります。

兎に角、幼い頃の記憶が、芋づるしきに引き寄せられ、蘇ってきます。脳の中に過去のすべてが記憶されているのでしょう。

幼い頃と云えば、未だに、時々思い出すのですが、ある日家の前の公園に、当時としては珍しかった観光バスが、それも何台も何台も並んで駐まっている光景です。

一台でも珍しいのに、それが、何台も、何台もですから、驚きです!ビックリです!でも、この記憶は、とても、とても、不思議なのです。

不思議と云うのは、このことを思い出したのは、十数年前に見た夢からなのです。その時の夢は、過去の現実が夢で蘇ったのか?それとも、そういう事実は無く、別の体験と組み合わされて夢に現れたのか?ハッキリしないのです。

それ以来、夢の光景を、時々、ふと思い出す事があるのです。公園の隣は志村第六小学校ですから、たぶん、遠足とか、社会科見学とか、そんなことで、観光バスが集まっていた可能性があります。

幼い頃の私には、色とりどりの、大きな観光バスが、何台も、何台も並ぶ光景は、夢のようだったと思うのです。驚きと不思議とで、こころにしっかりその光景が刻まれただと・・・・・・・。

そして、その光景は、40数年の歳月を経て、夢として蘇る、まあ、そんな事では無いかと思いつつ、脇を見ると、バスが置かれていました。観光バスではなく、路線バスで、昭和40年代?の頃に走っていたような車体。

おぼろげな記憶を辿りつつ、過去の想い出の欠片を見つけつつ、夢と幻の狭間に漂いつつ、蓮根の街を歩きまわっています。

まだ、まだ、続く、幼かった過去を探し求める夢と幻の旅。

それでは、また。 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑤ 引き揚げ者住宅!駄菓子屋の本田さん!消防署の火の見櫓!に想いを巡らす!これって帰巣本能ですか!

2017年01月30日 | 東京の風景

前回の続きになります。

生まれ故郷の板橋区蓮根町に到着しました。

こちらが、前回の「エノケン」のCMソング「お餅も入ってベタベタと二人で食べても50円」で有名な「渡辺製菓」とは、異なる「渡辺製菓」の跡地に建てられた民間マンションです。

しかし、まあ、ホント!変われば変わるものです。灰色のコンクリート塀と、煙突と、砂利道の風景は何処にいってしまったの?

大通りから入ったこの道が、この両側の風景が、幼い頃の私の世界だったのです。この空間がすべてだったのです。

消防署に、駄菓子屋さんに、お豆腐屋さんに、酒屋の松木屋に、空き地に、原っぱに、小学校の校門前の公園に、朝が来て、昼が来て、夜が来て、ここですべてが完結していたのです。

右側の角が酒屋の松木屋さん、道の向かいの奥に「渡辺製菓」と云うか、「コビト製菓」の煙突が立っていました。渡辺とコビトと両方の記憶があると云う事は、社名が変わった時期と、ここでの幼少期が重なっていたのでしょう。

そうでした!この渡辺製菓の裏手の先に貸し自転車屋さんがあったのです。オンボロの自転車を青いペンキでお色直し、1時間が10円だったと思います。

1時間が10円と云えば。この当時は5円か10円が子供の使うお金の相場でした。この店仕舞いした商店の辺りが、駄菓子屋の「本田さん」でした。5円だったか?10円だったか、店の奥の片隅でもんじゃ焼きをやっていました。

ここの店主のオバサンと云うか、オバアサン?と云うか、いま思うと60代位だと思われますが、身体に彫り物を入れていたそうです。母が近所の人が銭湯で見たと、そんな話を脇で聞いていた記憶があるのです。

優しそうでしたが、ホントは怖い人だったの?と、驚いた記憶があります。メガネを懸けて優しそうな笑顔が蘇ります。

この景色を眺め、昔の記憶を辿り、何故か夢で見た風景を思い出し、現実と記憶と夢が重なり合い、とても、とても、不思議な感覚でした。

都営三田線高島平からここまで、ずっと、ずっと、不思議な感覚で歩いているのです。現実の風景と記憶と夢が混ざり合う、不思議と云うか、ここち良いと云うか、時間が止まったり、戻ったり、もう、何とも云えない快感です。

こちらは、消防署、昔はこの奥に火の見櫓が在ったのです。一度櫓の上に昇ったような記憶?が、その時の消防士さんの笑顔が何だかうっすらと蘇りました。たぶん昇ったのだと思います。

こちらが、私が生まれた「都営引き揚げ者住宅」の跡地。私が住んで居た頃は、木造二階建て、共同炊事、共同便所でした。一階と二階に5世帯ずつで一棟に10世帯。それが2列に計10棟建っていました。私が住んでいたのはほぼ真ん中の6寮でした。

いまは建て替え工事で更地になっていました。

こちらのアパートと同じ建物が建っていました。木造2階建て10棟の建物が、鉄筋コンクリート4階建て2棟に建て替えられたのでした。その建て替え工事にあたって我が一家はここから北区の別の団地に引っ越したのです。

幼い頃から小学校の3・4年頃まで、この一画の、この空間で、泣いたり、笑ったり、怒ったり、ひっくり返ったり、走ったり、飛んだり、跳ねたり、していたのです。

ホントに、ホントに、懐かしい空間です。思い出します、あの頃の事を・・・・・・。兎に角、歳をとると、昔が懐かしくなるのです。

これって、やっぱり、「帰巣本能」・・・でしょうかねぇ?

本日は、これまで。

 

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町 ④ 蓮根町で渡辺製菓でエノケンのコマソンで!ジュースの素に!お汁粉の素!でもしかしコビト製菓の方です!

2017年01月25日 | 東京の風景

だいぶ前の続きです。

生まれ故郷を目指して高島通りを歩いています。

“大衆食堂”の看板です、“大衆の文字”街で見かけなくなりました。そう云えば“週刊大衆”はいまでも生き残っているようです。ラーメンに定食、ホッピーの貼り紙、竹内食堂です。

何か昔の同級生がオヤジさんとして調理場に立っているような、そんな気がする大衆食堂の竹内食堂。竹内なんて奴が居たような、そんな想いで店を眺めてしまったのです。

 久しぶりの“メニューチェック”です。肉豆腐定食が880円で、湯豆腐定食が820円、60円の差が微妙です。私としては肉豆腐です、このところ牛すじを煮込んだ肉豆腐に嵌っているのです。牛すじカレーも作ります、と云う事は、牛すじに嵌っている!

親子丼700円、牛丼玉子付き630円、玉子丼600円、かつ丼800円は、赤字で書かれています。これは店の一押し!でしょうか?どちらかと云うと調理に手間が掛からない?

すべて、下町価格と云うか、東京の外れ価格と云うか、それなりに大衆価格です。私としては、昼には早過ぎるし、小綺麗の対極だし、チェックのみでここはパス。

数軒先にはスナックひろ子。真っ昼間のスナックはどことなく、何となく、 場違いのような、やはりスナックは、ボンヤリとした灯りで、気怠く、不健康感を漂わす夜が似合います。そして、路地の奥がイイです。

スナック“ひろ子”、同級生にそんな女の子が居たよう気がしました。「本日は貸し切りです」の札が掛かっていました。本日は1月7日の土曜日、これは間違いなく新年会。

それにしても、それなりに作られた、貸し切りを告げる札、貸し切りはそれなりに結構あるようです。 ひろ子ママは、それなりに常連さんを抱えている、魅力的な女性のようです。

ふるさと直前です。高島通りの両側はマンションが立ち並んでいるのです。昔は、田圃や、畑や、原っぱで、四方が遠くまで見渡せました。都営三田線が風景を変えました。

こちらは、かなり新築。“コーシャハイム坂下”です。住宅供給公社の分譲マンション?

この辺りには、URとか、民間とか、いろいろマンションだらけなのです。

見えて来ました!歩道橋の先を右に入れば、我が生まれ故郷の、生まれ長屋、木造二階建ての“引き揚げ者住宅”が、むかし、昔、立ち並んでいたのです。

 

左側に建っているマンションは、懐かしき、かの“渡辺製菓”の工場跡地に建てられたのです。

渡辺製菓と云っても、エノケンのコマーシャルで有名な、“ワタナベのジュースの素ですもう一杯“とか、“お餅も入ってベタベタと二人で食べても50円“のお汁粉の素で有名な、あの渡辺製菓ではありません。後にコビト製菓となった渡辺製菓です。

もしかして、『コビト』はかなり前より“放送自粛用語”だったかも?でも、あの頃は何~にも問題無かったのでした。

懐かしいのは、消防署に、渡辺製菓に、駄菓子屋の“本田さん”です。

今回は、これまで。

前回も書きましたが、今度こそ!間違いなく生まれ故郷に脚を踏み入れます。

 

それでは、また。

 

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志村坂下・蓮根町 ③ 蓮根町はハスネチョウでレンコン町ではありません!相撲茶屋の大旺が!そして稀勢の里の不戦勝!で白鵬戦を待たずして優勝かも?

2017年01月20日 | 東京の風景

前々回の続きです。

東京は北の外れ板橋区、そのまた北の外れの高島平から蓮根町を目指して「高島通り」を歩いています。

何やら、宗教関連の建物のようです。

 

「蓮根馬頭観音」とあります。農耕に牛馬が活躍していた時代の観音様です。牛馬を守護するのですが、牛の方は何処かに行ってしまいました。やはり、牛よりも馬の方が身近で、そして知能は高さそうで、人馬一体で農耕に励んだのでしょう。

元禄11年2月の開基とあります。西暦で云うと1698年ですから、いまは2017年ですから、2017-1698ですから319年前からこの辺りに祀られていたのです。

私がこのあたりをウロチョロしていたのは、小学校3~4年頃?だったので、いまから50数年前ですから、当然、そのころにもこの辺りにおられたのです。当然、その頃は、神仏にはまったく興味が向く年頃では無く、蓮根馬頭観音の記憶はありません。

それで、蓮根馬頭観音の“蓮根”なのですが、蓮根町にあるからそう名付けられたのでしょう、でも、しかし、蓮根の町名は、ごく最近?になって付けられたのです。

確認の為、ちょっこし調べて見ました。明治33年(1900年)に、上蓮根村と根葉村が合併して、「蓮」と「根」を採って「蓮根」ができたのでした。

因みに、蓮根は「ハスネ」と読みます。レンコン町ではありません。レンコンの産地でもありません。

と云う事で、蓮根馬頭観音と称するようになったのは、つい最近?なのでした。説明板にもあるように、昔から通称「田の観音」と呼ばれていたようで、もしかして、たぶん、いまでは、誰も、田の観音も、蓮根馬頭観音も、忘れ去られているような?

こちらのお方が、馬頭観音様です。319年間の長きにわたり、牛馬が消え、田畑が消え、マンション群が立ち並ぶいまでも、この一帯の平安を祈っているのです。

わたくしも、お賽銭を上げ手お合わせお祈りしました。素朴でなかなかイイ観世音菩薩様でした。。 

観音様から数十メートル先で“相撲茶屋大旺”を発見。大旺の文字に何か懐かしさを感じたのです。何となく、ボンヤリと記憶の隅に残っているのです。 

調べてみました。昭和24年生まれで、私の一つ上で、1970年代から80年代に活躍した力士です。

四股名は“大旺吉伸”で、本名:荒谷 邦治(あらや くにはる)さんです。富山県出身、二子山部屋、身長186cm、体重106kg。最高位は東前頭4枚目。 

  • 幕内在位:10場所
  • 幕内成績:57勝93敗 勝率.380
  • 現役在位:101場所
  • 通算成績:587勝569敗15休 勝率.508
  • 連続出場:1156番(1965年3月場所-1981年9月場所)
  • 序二段優勝優勝:1回(1966年1月場所)

こんな成績でした。

大相撲と云えば、稀勢の里です。私が単独トップに立つと危ないと云ったその日に、傷だらけの琴奨菊に負けてしまいました。しかし、次の取り組みで、高安が白鵬を破り、直ぐに星一つリード。

本日13日目は豪栄道戦でしたが、豪栄道は 前日の遠藤戦で負傷して「右足関節外側靱帯損傷で全治1カ月の見込み」で休場で不戦勝。明日は逸ノ城、千秋楽は白鵬です。

 


大関
稀勢の里
11勝1敗
白丸 白丸 白丸 白丸 白丸 白丸 白丸 白丸 黒丸 白丸 白丸 白丸 - -
宝富士 玉鷲 荒鷲 松鳳山 御嶽海 正代 栃煌山 隠岐の海 琴奨菊 照ノ富士 遠藤 豪栄道 逸ノ城

白鵬は本日、琴奨菊戦です。大関陥落決定の琴奨菊は、ここで、意地を見せて稀勢の里戦のような相撲で白鵬を土俵の外に叩き出してほしい。

そして、14日の逸ノ城戦に勝って千秋楽の白鵬戦を待たず優勝を掴み取ってほしい。

それにしても、稀勢の里は前半戦より、少しずつ取り組み内容が悪くなって来ているのが心配。心にはテーピングで補強できないのです。胸にテーピングしますか?

冗談はともかく、本日は不戦勝で取り組みが無いので、残念と云うか、ヨカッタ!と云うか、兎にも角にも、明日の逸ノ城戦です。

話しは逸れましたが、蓮根歩きは続きます。

次回は、いよいよ生まれ故郷に到着です。

それでは、また。

 

 

 

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