5日ぶりの“利休”です。
それでも、時折、利休に、秀吉に、思いを馳せておりました。
それで、秀吉は本能寺で信長が光秀によって倒され、その後、後継者争いに勝ち残り、天下を統一し豊臣政権を樹立した訳です。
茶の湯の威力を、“信長が重用した利休”と云う存在を、自身の権威付けに利用していた秀吉。
豊臣政権の樹立には、利休の存在が大きかった事を、秀吉も、利休も、互いに認識していたと思うのです。
秀吉としては、天下を統一し、それなりに豊臣政権が安定して来ると、利休の権威が脅威に感じ始めたと思うのです。
小男で、醜男で、成り上がりで、利休より16歳年下の秀吉。
背が高くで、それなりの顔で、それなりの育ちで、茶の湯の権威の利休。
“映画利休”でも描かれていた、文化芸術はもとより、内政面も、外交面も、かなりの分野を担当する、大統領特別補佐官的な存在としての利休。
1591年天下統一が成された、その年に、利休は秀吉に切腹を命じられたのです。打ち首ではなく、“切腹”と云う形は、それなりの配慮を感じるのです。
個人的な憎しみで利休の命を絶ったのではなく、ひとつの政治的な解決、政治犯として利休を裁いたのでは・・・、と、思うのです。
遺体を戻り橋で“晒し”たのは、権力機構から利休の権威を排除し、秀吉自らが権力も権威も、自らの手中にあることを天下に宣言したのだと・・・・・・・そう思うのです。
利休を処刑した時点で“豊臣政権は完成”したのです。
秀吉は、茶の湯と云う芸術分野では、その存在を認め尊敬し、利休を師と仰いでいたと思います。
利休の死が取り巻き達の政争に“巻き込まれた説”がありますが、私としては、利休はかなり積極的に政治に関与していたと思います。
“細川忠興”も、単なる茶の湯の弟子ではないのです。
映画利休での“家康”とのやり取りは、かなり政治的に描かれています。
秀吉は、芸術の領域から、現実政治の領域へ、利休が踏み込み始めた事で危険を感じたのです。
「歴史秘話ヒストリア」で、“利休と秀吉と価値観の相違が出始めた”として、
1.利休の造った茶室を気に入らず造り直すことを命じた伝聞の記録とか
2.黒い茶碗を嫌う秀吉とか
3.“一輪の野菊”の逸話とか
芸術的な領域での価値観の相違を、幾つか上げていましたが、それは、あくまでも現象であって原因ではない、と、思います。
「歴史秘話ヒストリア」で、番組の最後に、新しい発見として、利休の死後に、秀吉が部下に宛てた手紙で、
“利休が好むような屋敷となるようねんごろに造っておしい”とか、
秀吉が母親に宛てた手紙で、
“昨日 利休の作法で食事をしましたがたいそう趣がありました”とか、
を、採り上げて、一時の感情で利休を死に追いやったことを悔いているとした、ナレーションが流れましたが、それは違うと思うのです。
一時の感情ではなく、いろいろな葛藤の末に、政治的な判断として、苦渋の選択として、裁いたのです。
秀吉は、あくまでも、死後も、茶の湯での、芸術的領域での、利休は認め、尊敬し、師として仰いでいたのです。
利休が、茶室を出て、自らの領域である政治に、秀吉に対立する形で、秀吉を超える形で、踏み込んだことが、利休の死を招いたのです。
まあ、利休と秀吉、わたしとしては、そんな答えを出したのです。
それにしても、あの時代の“茶の湯”とは、そして、現代の、この時代の“茶の湯”とは、何てことに、思いを馳せたりして・・・・・・・。
それで、まだ、まだ、利休は続きそうなのです。
それにしても、最近は寒い。そとは曇り空、天気予報では朝から雨になっていたのですが、そろそろ落ちてくるかも・・・・・・。
それでは、また次回。
それでも、時折、利休に、秀吉に、思いを馳せておりました。
それで、秀吉は本能寺で信長が光秀によって倒され、その後、後継者争いに勝ち残り、天下を統一し豊臣政権を樹立した訳です。
茶の湯の威力を、“信長が重用した利休”と云う存在を、自身の権威付けに利用していた秀吉。
豊臣政権の樹立には、利休の存在が大きかった事を、秀吉も、利休も、互いに認識していたと思うのです。
秀吉としては、天下を統一し、それなりに豊臣政権が安定して来ると、利休の権威が脅威に感じ始めたと思うのです。
小男で、醜男で、成り上がりで、利休より16歳年下の秀吉。
背が高くで、それなりの顔で、それなりの育ちで、茶の湯の権威の利休。
“映画利休”でも描かれていた、文化芸術はもとより、内政面も、外交面も、かなりの分野を担当する、大統領特別補佐官的な存在としての利休。
1591年天下統一が成された、その年に、利休は秀吉に切腹を命じられたのです。打ち首ではなく、“切腹”と云う形は、それなりの配慮を感じるのです。
個人的な憎しみで利休の命を絶ったのではなく、ひとつの政治的な解決、政治犯として利休を裁いたのでは・・・、と、思うのです。
遺体を戻り橋で“晒し”たのは、権力機構から利休の権威を排除し、秀吉自らが権力も権威も、自らの手中にあることを天下に宣言したのだと・・・・・・・そう思うのです。
利休を処刑した時点で“豊臣政権は完成”したのです。
秀吉は、茶の湯と云う芸術分野では、その存在を認め尊敬し、利休を師と仰いでいたと思います。
利休の死が取り巻き達の政争に“巻き込まれた説”がありますが、私としては、利休はかなり積極的に政治に関与していたと思います。
“細川忠興”も、単なる茶の湯の弟子ではないのです。
映画利休での“家康”とのやり取りは、かなり政治的に描かれています。
秀吉は、芸術の領域から、現実政治の領域へ、利休が踏み込み始めた事で危険を感じたのです。
「歴史秘話ヒストリア」で、“利休と秀吉と価値観の相違が出始めた”として、
1.利休の造った茶室を気に入らず造り直すことを命じた伝聞の記録とか
2.黒い茶碗を嫌う秀吉とか
3.“一輪の野菊”の逸話とか
芸術的な領域での価値観の相違を、幾つか上げていましたが、それは、あくまでも現象であって原因ではない、と、思います。
「歴史秘話ヒストリア」で、番組の最後に、新しい発見として、利休の死後に、秀吉が部下に宛てた手紙で、
“利休が好むような屋敷となるようねんごろに造っておしい”とか、
秀吉が母親に宛てた手紙で、
“昨日 利休の作法で食事をしましたがたいそう趣がありました”とか、
を、採り上げて、一時の感情で利休を死に追いやったことを悔いているとした、ナレーションが流れましたが、それは違うと思うのです。
一時の感情ではなく、いろいろな葛藤の末に、政治的な判断として、苦渋の選択として、裁いたのです。
秀吉は、あくまでも、死後も、茶の湯での、芸術的領域での、利休は認め、尊敬し、師として仰いでいたのです。
利休が、茶室を出て、自らの領域である政治に、秀吉に対立する形で、秀吉を超える形で、踏み込んだことが、利休の死を招いたのです。
まあ、利休と秀吉、わたしとしては、そんな答えを出したのです。
それにしても、あの時代の“茶の湯”とは、そして、現代の、この時代の“茶の湯”とは、何てことに、思いを馳せたりして・・・・・・・。
それで、まだ、まだ、利休は続きそうなのです。
それにしても、最近は寒い。そとは曇り空、天気予報では朝から雨になっていたのですが、そろそろ落ちてくるかも・・・・・・。
それでは、また次回。