学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:佐伯智広氏「二条親政の成立」(その1)

2025-02-21 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015)
https://www.utp.or.jp/book/b306974.html

※引用は初出の『日本史研究』505号(2004)から行います。

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はじめに
第一章 鳥羽院の皇位継承構想
 1 藤原忻子の入内
 2 姝子内親王(高松院)と東宮守仁の婚姻
第二章 後白河と美福門院─鳥羽院死後─
 1 保元三年正月の後白河朝覲行幸
 2 統子の准母立后
第三章 二条親政の開始
 1 藤原育子の入内
 2 姝子内親王(高松院)・暲子内親王(八条院)の院号宣下
おわりに
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p43以下
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第一章 鳥羽院の皇位継承構想

 本章では当該期の政治状況の前提として、鳥羽院の皇位継承構想について分析する。【中略】
 従来の研究では直後の保元の乱に注目が集中し、後白河即位後のその他の事象はほとんど分析されていない。しかし、後白河即位から鳥羽院死去・保元の乱の勃発までわずか一年の短期間になるとは、後継者決定の時点で予測されていた訳ではない。
 むしろ重視すべきは、後白河即位後に行われた、後白河院と藤原忻子・東宮守仁と姝子内親王という二組の婚姻である。鳥羽院存命中に行われたこれらの婚姻には、当然王家の家長である鳥羽院の意図が介在しており、時期的にも後白河の即位との関係が深い。

1 藤原忻子の入内

 後白河即位直後、久寿二(一一五五)年十月に後白河天皇女御として入内した藤原忻子は、閑院流徳大寺家の藤原公能の女子である。
 徳大寺家は崇徳天皇の外戚であったが、崇徳は白河院と待賢門院璋子との密通によって出来た子であるという風聞のため、鳥羽院は崇徳に代えて美福門院所生の近衛天皇を即位させ、崇徳を皇統から排除した。このため徳大寺家は、摂関家の忠実・頼長派と連携し勢力維持を図ったが、美福門院派に押され苦境にあった。ところが、璋子所生の後白河の即位により、徳大寺家は再び外戚となったのである。
 忻子の入内により後白河との関係が強化された結果、後白河在位期間の徳大寺家の勢力伸張は目覚しく、実能は内大臣から左大臣に、公能は中納言から権大納言・右大将に昇進し、実定は従四位上から従二位を経て権中納言に直任されている。また、知行国として美作国を獲得し、任中に河内庄を家領とするなど、経済面での活動も活発であった。
 忻子入内による後白河と徳大寺家の関係強化・勢力拡大は、当然後白河派の強化につながるが、鳥羽院はこれを容認していたと考えられる。しかも、忻子は入内の翌保元元(一一五六)年十月、皇子・摂関家の女子以外で初めて皇子出産以前に中宮に立后されているが、これは女御として入内した時点で決定されていたものと想定される。こうした異例さを見ても、鳥羽院が後白河の王権を強化する必要に迫られていたことは明らかである。
 その理由は、皇位継承から崇徳院・重仁親王を排除したために、崇徳院への対抗上後白河の王権を強化する必要があったからだと考えられる。この点で忻子入内は、後白河の王権強化に止まらず、本来崇徳院派であった徳大寺家を確実に後白河院派とする効果があった。保元の乱で後白河が高松殿から東三条殿へと行幸した際、通常の行幸と異なりわざわざ忻子を同行していることは、忻子の存在の重要性を示すものといえる。

2 姝子内親王(高松院)と東宮守仁の婚姻

 保元元(一一五六)年三月五日に東宮守仁の后となった姝子内親王は、美福門院所生の鳥羽院第三皇女である。その後、姝子は守仁の即位により平治元(一一五九)年中宮とされ、応保二(一一六二)年には院号宣下を受け高松院となった。
 すでに指摘されているように、鳥羽院が姝子を守仁の東宮妃とした第一の理由は、美福門院養子である守仁に美福門院所生の内親王を娶らせることによって、美福門院系の皇統を強化するためと考えられる。守仁にとって姝子は、皇位継承者としての正当性を象徴する存在であった。平治の乱の際にも、二条は姝子とともに六波羅殿に行幸している。
 しかし、もう一つ見逃せないのは、姝子が後白河天皇の同母姉統子内親王(上西門院)の養女だったことである。婚姻の際、姝子は統子の三条高倉邸から守仁のもとに嫁いでおり、その婚儀も、鳥羽院が沙汰する一方で、諸々の経営は統子が行っていた。さらに、守仁との婚姻後も、姝子は統子の三条高倉邸へ行啓している。
 両者の養子関係は、統子の同母弟である後白河と姝子とを密接に結びつけた。例えば、譲位直後の保元三(一一五八)年十月、後白河は統子・姝子を伴い、宇治への大規模な御幸を行っている。また、姝子は平治元年初頭に後白河と高松殿で同居し、立后もここで行われている。さらに、姝子は永暦元(一一六〇)年八月に出家するが、後白河はこれを制止している。これらは後白河がまだ王家の家長ではない美福門院在世中の事例であり、両者の関係は統子を通じてのものと想定される。統子と姝子との関係が姝子の婚儀以前から緊密であったことを考えると、後白河と姝子との関係も当然それ以前に遡りうる。
 つまり、鳥羽院の意図は、単なる守仁と美福門院との関係強化だけではなく、姝子を介して守仁の後宮を後白河に掌握させることにあった。守仁が幼年である以上、さしあたっては後白河による執政が必要であった。それは当然後白河の親権が前提であり、この婚姻は後白河の親権強化策の一環と評価できる。
 以上の二つの婚姻に見られる鳥羽院の意向は、後白河から守仁への皇位継承を規定する一方、後白河の王権を強化し守仁の後宮を掌握させる、というものであった。その理由は、崇徳院─重仁を皇統から締め出したために、崇徳院への対抗上後白河─守仁の皇統に正統性を付与し強化することが不可欠であり、また一方で、守仁が幼年のため当面は後白河の執政が必要だったからである。従来「中継ぎ」とのみ評価されてきた後白河であるが、守仁への皇位継承を前提とする限り、その正統性や父としての守仁に対する優位は、鳥羽院によって保障されていたと考えるべきである。
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