投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 3日(水)10時35分30秒
>筆綾丸さん
レスが遅れてしまいましたが、
>『歎異抄』を意識
というご指摘は間違いないですね。
原理日本社の思想的な中心は蓑田胸喜ではなく三井甲之ですが、『日本主義的教養の時代-大学批判の古層』所収の片山杜秀氏「写生・随順・拝誦」によれば、「甲之は学生時代に、日本近代仏教史における重要な思想家のひとりで、求道学舎を主宰した近角常観(ちかずみじょうかん)と出会い、常観流の親鸞像に傾倒した」(p106)そうです。
蓑田胸喜にも親鸞の影響を伺わせる表現は多いのですが、「真宗系の人々」と呼ばれると強く反発したそうです。
植村和秀氏の「天皇機関説批判の「論理」」(『日本主義的教養の時代-大学批判の古層』)から少し引用してみます。(p57)
-------
つまり蓑田たちは、聖徳太子や親鸞を尊崇するのは、宗派や教団、教義などのためではない。むしろ「躍如として生き得る」体験のためには、それらは外在的な障害に他ならない。例えば「真宗系の人々」と呼ばれたことに対して、蓑田は、「僕らは仏教の一宗派としての「真宗」思想家でも乃至親鸞主義者でもなくて、日本主義者─原理としての日本を信ずるものである」と敏感に反応する。浄土真宗教団に対しては、「今日の東西本願寺、其他の「宗制」は実に信心の障礙たるべき「行者のはからひ」である」という三井甲之の批判を引用して、全面的に賛同する。(後略)
-------
文中、「乃至」は「ないし」の変換ミスなんでしょうね。
ま、正直、私もあまり理解できないまま引用していますが、植村和秀氏は原理日本社は「政治結社というよりも、むしろ宗教結社の雰囲気が濃厚な集い」であり、「しかし、この信仰の集いの性格は、三井を教祖または司祭とする教会的秩序ではなく、同信の友たちのゼクテ的な協働作業と見るべき」(p55)とされており、なるほどな、と思います。
私が原理日本社について少し真面目に考えたいと思ったきっかけは堀米庸三氏の父親・康太郎氏に関するエッセイですが、改めてこのエッセイを読み直すと、康太郎氏は若い頃から宗教的関心が強い人ですね。
堀米庸三氏は三井甲之と蓑田胸喜を区別して、父親が影響を受けたのはあくまで歌人としての三井だ、という風に考えたかったようですが、宗教結社としての原理日本社に魅せられたと考えるのが素直なような感じがします。
堀米康太郎氏の思想を研究すれば、それこそギンズブルグ的なマイクロヒストリーになりそうですね。
無名の町工場主・堀米康太郎氏(その1)~(その3)
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
将門岩 2014/11/28(金) 14:26:33
小太郎さん
〇〇というような伏字は著述家として恥ずべきことで、人はこんな風に晩節を汚してゆくんだなあ、と思いますね。〇〇〇〇〇について、私は、誇大妄想狂(パラノイア)や精神分裂病(スキゾイド)なども有り得るかな、と考えていました。
『第三十六章 滝川事件 鳩山一郎と美濃部達吉』において、滝川の著書により客観主義刑法理論と主観主義刑法理論の相違を説明したあとで、次のような記述がきます。
-----------------
要するに、客観主義刑法理論とは、今風にいえば、「罪刑法定主義」「刑法における法治主義原則」のことであって、いま近代国家なら、世界中の国で認められている刑法の根本原則そのもののことなのである。(30頁)
-----------------
これでは、主観主義刑法理論は「罪刑法定主義」に基づいていない、というように読めてしまいますが、それは立花氏の理解不足であって、客観主義刑法理論も主観主義刑法理論もともに「罪刑法定主義」に立脚していることは火を見るより明らかで、「罪刑法定主義」が両説の相違点などであるはずがなく、あえて今風に言えば、客観主義刑法理論は結果無価値論、主観主義刑法理論は行為無価値論で、前者の説の代表は小野清一郎や平野龍一、後者の説の代表は牧野英一や団藤重光、というようなことになりますか。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kadoiwa.html
滝川が治安維持法を批判するとき、不能犯の説明に比叡山の将門岩の例を挙げていますが(45頁)、恥ずかしながら、こんな岩の存在は知りませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E8%BE%B0%E6%94%BF
ウィキによれば、滝川幸辰は滝川一益の末裔で、「辰」が通字ですか。
追記
『原理日本』が日本の伝統文化の先達とする者として、聖徳太子、人麿、実朝、親鸞・・・を挙げていることを考えると(56頁)、「日本総赤化徴候司法部不祥事件禍因根絶の逆縁昭和維新の正機」(69頁)という表現は、『歎異抄』を意識しているのかもしれませんね。
小太郎さん
〇〇というような伏字は著述家として恥ずべきことで、人はこんな風に晩節を汚してゆくんだなあ、と思いますね。〇〇〇〇〇について、私は、誇大妄想狂(パラノイア)や精神分裂病(スキゾイド)なども有り得るかな、と考えていました。
『第三十六章 滝川事件 鳩山一郎と美濃部達吉』において、滝川の著書により客観主義刑法理論と主観主義刑法理論の相違を説明したあとで、次のような記述がきます。
-----------------
要するに、客観主義刑法理論とは、今風にいえば、「罪刑法定主義」「刑法における法治主義原則」のことであって、いま近代国家なら、世界中の国で認められている刑法の根本原則そのもののことなのである。(30頁)
-----------------
これでは、主観主義刑法理論は「罪刑法定主義」に基づいていない、というように読めてしまいますが、それは立花氏の理解不足であって、客観主義刑法理論も主観主義刑法理論もともに「罪刑法定主義」に立脚していることは火を見るより明らかで、「罪刑法定主義」が両説の相違点などであるはずがなく、あえて今風に言えば、客観主義刑法理論は結果無価値論、主観主義刑法理論は行為無価値論で、前者の説の代表は小野清一郎や平野龍一、後者の説の代表は牧野英一や団藤重光、というようなことになりますか。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kadoiwa.html
滝川が治安維持法を批判するとき、不能犯の説明に比叡山の将門岩の例を挙げていますが(45頁)、恥ずかしながら、こんな岩の存在は知りませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E8%BE%B0%E6%94%BF
ウィキによれば、滝川幸辰は滝川一益の末裔で、「辰」が通字ですか。
追記
『原理日本』が日本の伝統文化の先達とする者として、聖徳太子、人麿、実朝、親鸞・・・を挙げていることを考えると(56頁)、「日本総赤化徴候司法部不祥事件禍因根絶の逆縁昭和維新の正機」(69頁)という表現は、『歎異抄』を意識しているのかもしれませんね。