学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「ハイデルベルヒ大学のエリネツク」(by南木摩天楼)

2014-12-09 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月 9日(火)20時53分45秒

>筆綾丸さん
「上杉慎吉の文章は特に神憑り的ということもない」と書いたばかりで恐縮ですが、異常に感情的であることは間違いなくて、まあ、変わった人ですね。
天皇機関説問題の前史たる上杉・美濃部論争は明治から大正の変わり目の時期に主として雑誌『太陽』を舞台に行われたのですが、宮沢俊義は『太陽』大正2年(1913)7月号に掲載された南木摩天楼の「上杉博士と美濃部博士」を引用しつつ、次のように述べています。(『天皇機関説事件:史料は語る』上巻、p58以下)

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 上杉がはじめ国家法人説ないし君主機関説を主張したことは、よく知られているが、南木は、この点について、その変化のいきさつを次のように説明する。

【62】併し彼〔上杉〕は初めから此の様の説を持して居たのではない。彼の初め大学に在りて穂積氏の憲法を聞くや、学年の終りにそのノートの表紙に題して、頭のいいものには解らぬ憲法也と云い、穂積説の矛盾多きことを認めて居たが、その出でて大学助教授たるに及びては、遂に国家法人説、君主機関説を採り、時には責任内閣制などを公にした事さえあったのであるが、その独逸留学より帰朝し、大学に憲法を講ずるに及びて全く従来の学説を一擲して、現在の如き極端論を唱うるに至ったのである。
 是を以て、人或は彼の斯る学説上の変化を目して、穂積氏の後継者たらんが為に故に衒える所と為すものもある。併し彼の言う所によれば、穂積説にして彼が如き矛盾撞着せるものに非ずして、今の自説の如く論理一貫せるものたらしめば、初めから或は之を奉じたかも知れぬ。現に先に国家法人説、君主機関説を採りて之を主張しつつあるに際しても、理窟は如何にも一通り徹底して間然する所なきが如きも、一度吾国体を顧み、歴史に鑑みるに及び、如何にしても不安の念なきを得なかったと云うのであるから、蓋し彼はその留学前後に於て、此点に関して相応の苦心研究を重ねたものであろう。而して彼の学説の一変せるは、全くこの結果に他ならぬのである。〔同三九頁〕

 南木は、ここで上杉の性癖を論ずる。かれは、上杉の憲法論が特異なのは、かれの性癖から来ている、と見ている。その当否はともかく、かれの学説が「感情的」であり、その憲法を講ずる態度が「学者的」というよりむしろ「伝道者的」だという批評は、そう見当ちがいではない。

【63】惟うに彼は一種の施毛曲りである。学生時代から友人間に少数意見という異名があった如く、何でも多数の意見に対しては故意に反対してみたいと云う風の一種の性癖がある。〔中略〕
 其の上に彼は余程感情的で、恐しく一徹の所がある。独逸留学中彼はハイデルベルヒ大学のエリネックに就いて居たが、其内にショーペンハウエル、ニーチェ等に心酔し、山の中に引籠って数ヵ月間哲学的冥想に耽った結果、専門の憲法など区々たる条文の解釈に没頭して居るのが馬鹿らしくなったと云うので、斯学の曲拠たるラーバンド以下著名の書十数冊に火を掛けて焼き棄てたと云う様な奇行もある。当時偶々伯林で彼に会した金井博士や、逓信省の二上兵治氏などは、全く彼は発狂したものと信じて大いに心配したと云う事である。<後略>
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変な人に対応するコツは相手のリズムに乗らないことですが、美濃部は論争の最初の方で上杉と同じような感情的対応をしてしまっていますね。
まあ、年齢も美濃部(1878-1948)の方が上杉(1878-1929)より五歳上であり、上杉を少し莫迦にしていたんでしょうね。
なお、南木摩天楼は『太陽』の記者を経て、同誌上で人物評論を担当していた人物だそうです。
宮沢俊義は資料の表記を読み易いように変えてしまっていますが、南木はおそらく「ハイデルベルヒ大学のエリネツク」と書いたのでしょうね。
コメント
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